1-1 親友と幼なじみ
第一章 夢? 現実?
どこかで妥協して今の自分は幸せだと自分自身に言い聞かせる。
そんな人生は果たして幸せなのだろうか。
何かを得るためには何かを捨てなければならない。
たったひとつの本当に欲しいものを得るためには、それ以外のものをすべて捨てなければならないとしたら?
――キミにはその覚悟があるかい?
――ジリリリリリリリリリ!!
不快な目覚まし音が木下純也の意識をどこか遠い場所から現実へと引き戻した。
目を開けると、そこには見覚えのある白い天井が広がっていた。彼はほとんど無意識の状態で目覚まし時計を止めて、目をこすりながらもぞもぞと身を起こす。
半分ほど意識が覚醒した状態で、一息ついて純也は辺りを見回してみる。さっきまで見ていた夢が強烈過ぎたせいで、まだ頭がぼーっとしている。
部屋の床は、昨夜遅くまで読んでいた漫画が裏返ってそのままになっている。勉強机の上は勉強しようとしている形跡こそあるものの、結局ほとんど勉強はしなかった気がする。
どこからどう見ても、見慣れた自分の部屋だった。さっきまでの少女とのやりとりが、すべて夢だと思えるほどにこの部屋には現実が溢れていた。
(いや、普通にあれは夢だったに決まってるよな)
胸中で呟いて苦笑してから、大きく伸びをして身体をほぐす。
それにしても現実感のない夢だった。夢なんて現実感のないものがほとんどだが、さらに輪をかけて、現実感が欠けた夢だった気がする。
それでも夢を見ている最中は、それが夢だと気づかないから不思議なものだ。
(あの女の子……)
夢の中に出てきた少女――純也の願いを叶えてくれると言った少女。
(一体……、誰だ……?)
その正体はいずれわかるとだけ告げられて、結局答えをはぐらかされてしまった。
そもそも純也の夢の登場人物であるのだから、純也の記憶にない彼女の正体は、きっと永遠の謎として埋もれてしまうのだろう。気まぐれな夢の気まぐれな登場人物にすぎないのだろうから。
(でも、待てよ)
ベッドの淵に腰かけたまま少し考えてみる。
彼女の全身から感じた透明感のようなものと、触れてしまったらすべてが崩れ去ってしまうのではないかという危うさ。
彼女と面識はないということは断言できる。だけど、どこかで会ったような気もするし、彼女の持つその雰囲気にどこか懐かしさとか、温かさのようなものを感じていたのも事実だ。
――そして。
(俺の願い事ってなんだ……?)
彼女は純也の願い事を叶えてくれると言った。突然そんなことを言われて戸惑った純也だが、少し考えてから、ふと思い浮かんだ一つの願い事を確かに口にした。
口にしたという事実だけは、しっかりと覚えている。
だけど自分の願い事だっていうのに、自分がどんなことを願ったのか、どうしても思い出せない。
(まあ、思い出せないってことは大したことじゃないだろう。テストで満点取りたいとか、その辺が妥当なところだな)
自分の夢の内容を真剣に考えることもアホらしい。そうやって適当に結論を出して、思考も現実世界に戻し、時計を見る。
時計の針は七時半を指していた。
「やべっ」
この時点で、いつも起床している時間よりも十分ほどオーバーしている。
純也は慌てて寝間着を脱ぎ去り、高校の制服に着替える。
カーテンを開けると、眩しい朝日が差し込んでくる。夏の陽気を感じさせるような雲一つない快晴だった。
だが、朝の忙しい一幕を過ごす純也に、すがすがしい朝の余韻に浸っている余裕はなかった。
急いで洗面所に行って顔を洗う。鏡に映っているのは、見慣れた自分の姿。
身長は百七十センチ弱で、体重は約六十キロ。黒髪のツンツン頭の男。テストの点数は平均を行ったり来たり。年齢は十六歳で高校一年生。そんな自分の姿を見ながら、歯を磨き、顔を洗った。
リビングに行くと、テーブルで朝食を食べているのは妹の司だけだった。母はすでに仕事に向かったらしい。
「あっ、お兄ちゃん。起きたんだ。あと五分遅かったら、あたしが起こしに行ってたところだったよ」
司が少し残念そうに、朝食のトーストを手に持ちながら唇を尖らせる。
「そりゃあ、危ないところだった」
肩より少し長いくらいの黒髪を馬の尻尾のように束ねている少女。年齢は純也と一つ違いの十五才で、中学三年である。身長は年相応の平均よりも少し小さいくらいで、健康的にうっすらと日焼けしている肌は彼女が活発で元気に溢れている証拠だ。
そんな元気少女の司に起こされるとなれば、ハードな朝の目覚めとなるのは純也の経験から言って明らかだ。学校に行くために起きなければいけないのに、学校に行けず、そのまま病院に直行する、なんて展開になりかねない。そういうのは、できるだけ勘弁願いたいものである。
実際に思いっきり腕を踏みつけられて、一週間ほど痛みが取れなかったという事実が過去に何度かあった。
(もう小さいころと違って、自分の身体がそれなりに大きくなっていることを自覚してもらいたいもんなんだけどな……)
「なんか失礼なこと考えてるでしょ。起きないお兄ちゃんが悪いんだよ」
純也の胸中を察したかのように、司が半眼でこちらを睨んでくる。
結果的に見れば、司に起こされて起きなかったことはないわけだから、純也を起こすという役目は十分に果たしてくれていると言えるのかもしれない。
「限度ってもんがあるだろうよ……」
結果だけでなく、過程も問われるのは世の中の常である。
だが、いつまでも妹と言い合いを演じていても仕方がない。朝の時間は例え一秒だって貴重なものなのだ。
とりあえずやんちゃな妹への説得は一時保留として、彼女の向かいに腰を下ろす。それとほぼ同時に、司はトーストの最後の一口を口に入れた。
「そこまで言うんだったら、起こし方については、ちゃんと考えといてあげる」
「んじゃあ、俺もしっかり起きれるようにしておくよ」
適当に返事をして、純也は目の前のトーストに口をつける。
「うん。じゃあ、あたし先行くね。食器の片づけよろしく」
「ああ。今日は朝練か?」
純也と司は、ともに清真学園という中高一貫校に通っている。暦上、現在は七月であり、夏も本格化し始めるこの時期になると、大半の三年生は部活動を引退するのが相場だ。だが、優秀な妹は陸上の短距離走で優秀な成績を収め、上の大会へと進んでいるため、この時期になってもまだ部活が続いている。
ちなみに木下純也は中学三年の最後の大会で、野球部の一員として出場したが、一回戦負けを喫し、現在は帰宅部に籍を置いている。
「まあね。次の大会も近いしね」
「そうか。頑張れよ」
「うん。それじゃあ、行ってくるね~」
純也は手を振って、妹が軽い足取りで家を出る姿を見送った。
そして、自分一人になってしまったリビングの中でトーストにかぶりつく。
そのとき、思い浮かんだのは夢に出てきた少女の笑顔だった。
自分に向けられた屈託のないその笑顔を思い出すだけで、思わず口元が緩んでしまう。自分の願い事に関しては既に関心が薄れていたが、あの少女のことはどうしても気がかりだった。
もう一度、彼女の顔と自分の記憶の中にいる色んな人物を照合してみるが、やっぱり自分の記憶の中に彼女に関する情報は何一つなかった。
ただ一つ言えることは、彼女がどこからどう見ても美しい少女だったと言うこと。腰のあたりまで伸びている絹のようにサラサラで、艶やかな茶色い髪。くりくりとした宝石のように美しい二つの瞳。可愛らしい唇から発せられる、それに負けないくらい可愛らしい声。
そのすべての要素が純也にとって魅力的だった。なんとなく猫っぽくて、人懐っこいようなそんなことを連想させる少女だった。
もし街中で彼女を見かけたら、無意識のうちに視線で彼女を追いかけてしまう自信があった。それほど人を惹きつけるような甘美な顔立ちの少女だった。
そう言えば彼女に関して、ひとつだけ心当たりのある要素があった。彼女が身に纏っていた服装である。それは清真学園中等部の制服で、司が身に付けているのとまったく同じデザインの制服だった。
もしかしたら司の知り合いかもしれない。司であれば、彼女について何か知っているかもしれない。が、司に変な勘繰りをされそうるかもしれないと考えて、彼女について尋ねるのはやめておくことにした。
食事中も、ほぼ無意識のうちに、彼女のことを考えてしまう。すると、食事の手が止まってしまっていた。
どうにかして、もう一度彼女に会いたい。
もしかしたら、それこそが純也が抱いていた願い事とやらなのかもしれない。
結局、トーストは半分ほど手付かずのままだったが、どういうわけかお腹はしっかりと満たされていた。
司に言われていた食器の片づけを危うく忘れそうになっていたが、家を出る直前に思い出して、一旦リビングまで引き返して食器を片づけた。
こうして、今日も今日とて、木下純也のなんでもない一日が始まろうとしていた。
純也が住んでいるのは、辺野市という、人口約三十万人で、田舎というわけではないが、都会には確実に分類されないような都市だ。それなりに自然との調和も図られていて、郊外に行くと、森や山が自然の形をそのままにして残っている。
夏も本格的に近づいて来て、アスファルトから照り返される太陽の光は、否応なく周囲の温度を上げていく。だが、心ここにあらずといった純也は、容赦なく降り注ぐ夏の太陽の光を意識することはなかった。
純也は学校まで電車で通学しているのだが、通学途中、彼の脳内を占めていたのは夢に出てきた少女だった。自分がどうやって、学校まで辿り着いたかすら覚えていないほど、その思考に夢中になっていた。
彼女と一緒に登下校して、お互いに本当にたわいのない話をして盛り上がる。そんな淡い妄想を抱きながら、一-Aのプレートが掲げてある教室の扉をくぐろうとした瞬間に、何者かに声をかけられた。
「やあ純也、おはよう」
やましいことなんて何もないはずなのに、背後から聞こえた声に思わず体がびくりとしてしまった。
「なんだ、幸人か……」
振り返るとそこにいたのは、友人の春宮幸人だった。
身長は純也と同じくらいだが、彼は純也よりも体つきがほっそりしている。中学時代までは、二人で野球をやっていたのだが今は共に帰宅部である。
柔らかくて、人懐っこい笑顔が特徴的で、女子からの人気もそれなりに高い。とは言っても、幸人本人は女子からの人気なんてまったくもって、興味を示していない。
友人の姿を認めて、純也はがっかりしている自分に気がついた。
どうしてがっかりしたのかと言えば、あの少女が背後から話しかけてくれるかも、なんてありもしない妄想に期待している自分がいたからかもしれない。
「『なんだ』とは、ずいぶんなご挨拶だね」
そんな純也の心境を知るはずもなく、幸人は不服そうに眉をしかめて言い返してくる。
「ははっ、わりい。おはよう」
純也がそう言って、右手を上げると、
「うん、改めておはよう」
幸人が人懐っこい笑みを浮かべて右手を上げる。
友人と一通りテンプレのような挨拶を終えてから、純也は自分の机にカバンを置いて、椅子に腰かける。幸人も自分の机にカバンを乗せて、純也の隣の席の椅子を引いて寄ってくる。
幸人とは中学一年のころからの友人だ。付き合いはもう三年以上になる。それだけ長く一緒にいれば、お互いの些細な変化に気づくこともしばしばだ。
幸人はいつもとどこか様子の異なる純也に気がついたのだろう。探るような目つきで、こちらを見つめる。
「どうしたの? 好きな子でもできた?」
割と鋭い指摘だと思った。
だけど、幸人の指摘は少し間違っている。夢に出てきた少女が気になっているのは紛れもない事実ではあるのだが、純也が恋愛感情を抱いている女の子は彼女とは別にいるからだ。
純也が好意を抱いている女の子は幸人もよく知っている人物なのだが、それについては純也自身が注意を払って周囲に気づかれないように振る舞っているため、幸人にも、その子にもおそらくは気づかれていないだろう。
「そんなんじゃない。ただちょっと寝不足なだけだ」
夢の話を幸人にしたところで、彼を退屈させるだけだ。そう判断して、純也はその場を取り繕えるような答えをした。
「あはっ、どうせ遅くまで、漫画を読んでたか。ゲームでもしてたってところでしょ」
「まあな。それもあるけど――」
確かに、昨夜はゲームもしてたし、漫画も読んでいた。それらのせいで寝るのが遅くなったという幸人の指摘は正しい。
ただ、それを認めるのは癪だったので多少の真実を交えた嘘を吐くことにした。
「今日、数学の小テストあんだろ。それの勉強もしてたんだよ。あ~あ、テストなんてなくなればいいのに……」
今朝見た限りでは、机の上に教科書を広げた形跡があった。とは言っても、昨夜どんなことを勉強したか覚えていない時点で、実のあるテスト勉強ができていたはずもない。
自分で言ったことではあるが、改めて小テストが開催される事実を実感し、ため息をつく。もしかしたら、今朝見た夢の少女についてあれこれ考えていたのも、テストが開催されるという辛い現実から目を逸らすための手段にすぎなかったのかもしれない。
そう思ったら、本当にそんな風に思えてきた。
「ああ~、そういえば、影沼先生がそんなこと言ってたような……」
幸人が自分の記憶を探るように呟いた。
影沼とは、本日小テストが実施される数学を教えている教師の名前である。
「まあ、なんとかなるでしょ」
とことん気楽な調子の幸人である。
ただ、本当になんとかしてしまうのが、この春宮幸人という男なのだ。
この友人は、「俺全然勉強してないんだよ」と言いながら、試験で満点を取るタイプだ。勉強してないという人間のほとんどは陰でこっそり努力している者がほとんどだが、幸人の場合は本当に勉強しないで点数を取ってしまう。
もしかしたら純也が知らないところで、実はかなりの猛勉強をしているのかもしれないと言うことも考えたが、それでもやっぱり中学の三年間の付き合いでそんな素振りを見せたことがないので、やはり大して勉強はしてないと思う。
こんな友人を見ていると、世の中って本当に不平等だなって思う。別に幸人を責めているわけではないのだが、それを理解した上で、テスト前には恨み節の一つでも言いたくなってしまうのが人間というものだろう。
「じゃあ、とりあえず、テストに出そうなところを俺が予想するよ。心して聞いてね」
「ああ、頼むわ」
幸人曰く、授業を聞いていれば、テストのヤマを張るのは決して難しいことではないそうだ。「ここテストにでるぞ」と直接、授業中に教えてくれる先生もいるが、そう言う先生ばかりではない。そういう時はどうすればいいかと言うと、先生が気合入れて説明している箇所や、説明に多くの時間を割いた箇所をしっかり覚えておく。そういうところは十中八九テストに出るから、そこを対策するだけで高得点を狙えるらしい。
これを聞いて、純也も実践しようと思ったが、これを実践するには約一時間の授業中、ずっと気を張って集中していないといけない。一日に一コマしかないならまだなんとかなるかもしれないが、一日には六コマの授業がある。そのすべてに集中するというのはさすがに無理がある。
適度に気を抜いて、先生が重要な話をしてるな、と思ったら、耳を傾けるのが賢いやり方だと幸人は言う。
その要領の良さを純也は持ち得ていない。こういうところは本当に見習いたいとつくづく思っている。
純也はカバンの中から、数学のノートと教科書を取り出して広げる。そして、純也は要領のいい友人の教えを請いながら、テストの対策を進めるのであった。
「終わった。全部終わった」
口元に自嘲的な笑みを浮かべて、純也がうめいた。幸人は苦笑いして、昼食のチキンカツを口に運びながらその様子を見つめている。
四時間目に開催された数学の小テストも終わり、純也は幸人と一緒に学食で昼食を食べていた。
口に運んだカレーにいつもよりも辛みが増している気がするのは、きっと気のせいなのだろう。
「そう悲観的になる必要ないって。たかだか小テストじゃないか」
チキンカツを飲み込んで、友人が励ましてくれる。その言い分はもっともだが、テストの結果だけで純也が落ち込んでいたわけではない。
「ちげえんだよ。できてたんだよ」
そう。問題自体は理解できていて、解き方もわかっていたからこその悔しみなのだ。
「最初の方の計算で三の二乗を六って書いてなかったら、できてたのに、クッソ……」
当然最初の計算が間違っていたら、それに続く答えも間違っていることになる。
終了直前で気づいたものの、それ以降もすべて計算をし直さなければならなかったので、結局間に合わなかった。
いっそのこと計算間違いに気づかなければ、こんなに落ち込むこともなかったのに、と思ってしまうほどである。
「まあ、俺は余裕だったけどね」
幸人は、親指を立てて白い歯を見せてニカッと笑う。
「うっせ―、聞いてねえよ」
毒づいてから、純也もつられて笑ってから言い返す。
「ところで幸人よ。所詮は小テストじゃねえか。そんなもんで点数取ったって、大して自慢にはならないぞ」
「まったくもってその通り。そして、同じことを俺はついさっき口にしたんだけどね」
これが二人の波長だった。今までも、きっとこれからも、進路がバラバラになっても、こうやってこいつとは付き合っていくのだと思う。
――その時だった。
「なーにしてんの?」
突然背後から純也の後頭部に何か柔らかいものを押しつけられた。
「なっ――」
一瞬、わけもわからず身構えてしまった純也だが、すぐさま声の正体に気づいて、鼓動が大きく跳ね上がる。そして、後頭部に押し付けられている物体の正体に気づき、その柔らかさとは対照的に、体のいろんな部分が硬直してしまった。
「むふふっ――ありゃ? 無反応?」
純也に密着している女の子は、純也の耳元で拍子抜けしたような調子で言った。
密着している彼女の身体から、女の子特有の甘いシャンプーの香りが伝わってくる。
後頭部に伝わる柔らかい感触をずっと味わっていたいと思う反面、純也は自分が今置かれている状況と周囲の視線を鑑みて、これから自分がどのような行動を取るべきか判断する。
「美月! なにしてんだよ!」
純也はその誘惑と自分の欲望に抗いつつ、全身の力を込めて彼女の身体を引き剥がした。
「おっとっとっと。相変わらずつれないねえ」
純也から引きはがされた彼女は、純也の反応が心底面白かったようで、お腹を抱えて笑っている。純也はそんな彼女を見て、不貞腐れたように眉をひそめて唇を尖らせる。
「美月さん、こんにちは。どうしたの?」
幸人が純也を襲った女の子の名前を呼びかけると、美月と呼ばれた少女は、ニヤニヤと笑みを浮かべたまま純也の隣の椅子に腰かけてから答える。
「いや、ちょっとこのへんをぶらぶらしてたら、なんか楽しそうな声が聞こえてきたからさ。私も話に混ぜてもらいたいなあってさ」
九曜美月は、年頃の異性に抱き付いたことについて、特に何かを気にする様子もなく平然と会話を続けている。そもそもにおいて、純也を年頃の異性としたまったく意識していないようだった。
純也はそんな美月を半眼で睨む。
短く切り揃えられたショートカットの黒髪は、彼女の活発な性格によく似合っている。意志の強そうな切れ長の綺麗な瞳に、楽しそうに歪めている唇。そして、多くは語らないが、体の中央部にある二つの巨大な膨らんだ兵器。
きっと多くの男子生徒にとって、美月は魅力的な女子生徒として映っているだろう。現に、先ほどからそういった視線を向けられているのを、純也は痛いほどひしひしと感じていた。
しかし当の彼女はと言えば、
「あれれ~? 純也。どうしたの? そんな情熱的な視線でお姉ちゃんを見つめちゃって~。もしかしてドキドキしちゃった? でもごめんね、お姉ちゃん、他に好きな人がいるの」
この調子である。
美月は自分のことをお姉ちゃんと言っているが、純也と血縁関係にあるわけではない。純也から見て一つ年上であり、近所に住んでいる幼馴染と言うことで、彼女が純也にとってお姉ちゃんのような存在になってしまったというだけである。
美月はただの幼馴染であり、お互いにとっては姉弟みたいなものであり、それ以上の存在には成り得ないと、純也は思っていた……はずだった。
だけどいくら幼馴染で、姉のようにしか見ていなかったといえども、やはり美月は純也にとっては異性の女の子の一人に違いないのだ。そんな身近な異性の女の子に淡い恋心を抱いてしまうのは、ある意味で必然だったのかもしれない。
それに、自分が美月にそういう感情を抱いているからというわけではないが、彼女はすごい綺麗な顔立ちをしていると思う。出会ってから数年経っているが、彼女を好きになってからようやくその事実に気がつくことができた。
そうしてある日を境に、純也は美月をただの幼馴染ではなく、女の子の一人として意識するようになってしまっていたのだった。
さっき美月に触れられた箇所がぼんやりと熱を持っている気がする。そこだけ自分の身体から、隔離されてしまったかのような変な錯覚を覚える。
「そんで? 二人は何の話をしてたの?」
そんな純也の心境も知らずに、美月は飄々と尋ねてくる。
「四時間目にあった数学の小テストの話だよ」
それには幸人が答える。
「なるほど。それで、純也がさんざんな結果を叩き出したってわけだ。なるほどね~」
心得たとばかりに、腕を組みうんうんと頷く美月。
「違うんだって、問題自体は解けてたんだって。ただちょっと計算ミスを――」
「はいはい。言い訳なんて男らしくないですよ~」
美月は人差し指を純也の唇に押し当ててくる。
そのスキンシップに純也の心臓が大きくポンプする。
純也が抱いた初めての恋心。その相手は自分が姉のように慕ってきた幼馴染だった。
その気持ちを本人に知られたくないのは、今さらそんな気持ちを彼女に伝えるのが気恥ずかしいから、という理由もあるが、それだけではない。
「美月さん、今週末は部活?」
テストの話題は終わりだとばかりに、幸人が笑顔で話題を転換する。幸人としては、純也に助け舟を出してあげようという意図だったのだと思う。
三年生も引退し、女子テニス部の新部長となった美月はここ最近部活動に追われる日々が続いているらしい。帰宅部の純也と幸人には縁のない話だが……。
「今週はオフだよ。そうだ! 幸人、映画見に行こっ! 私、見たい映画があるんだ」
美月がテーブルから身を乗り出しながら言う。その体勢になると、彼女の持つ二つの大きな丘がテーブルの上に乗っかってしまう。美月本人はおそらく気づいていないだろうが、周囲から獣のような視線が注がれていた。
幸人はそんな美月を目の前にしても、特に動揺した様子はない。まあ事情を知っている者が見れば、当たり前と言えば、当たり前だ。
幸人と美月の二人の間に流れる空気は、純也と美月と間に流れるモノとも、純也と幸人の間に流れるモノとは根本的に異なっている。それもそのはずで、幸人と美月は恋人として、男女の付き合いを始めてかれこれ二年近くになるのだから。
それだけの間、男女の付き合いを続けていれば、お互いのことで知らないことはないのではないだろうかと、純也は思う。もちろんわざわざ問い質したことはないから、実際のところは知る由もない。
「それいいね。行こう行こう。そうだ。純也も一緒に行く?」
幸人の言葉を受けて、純也が返答に詰まっていると、美月がうんうんと頷きながら、
「いいねいいね。久しぶりに三人で行きたいね。いい息抜きになりそう」
二人の中では、すでに純也が一緒に来ることが決定しているかのようなやりとりだった。
純也はそれを聞いて、自分の友人であって美月の恋人でもある幸人の顔と、自分の幼馴染で片思いの相手で幸人の恋人である美月の顔を交互に見た。
――なんでわざわざ俺を誘うんだよ。
その言葉はどうにか喉元で飲み込むことができた。二人は悪意があって、純也を誘っているわけではないことを純也自身もわかっているのだ。
二人としては、付き合いの長い三人で遊びに繰り出したいという魂胆なのだろう。それは純也もよくわかる。昔はよく三人で一緒に行動していたのだから。
だけどそれはもう昔の話だ。時間が経てば、どうあろうとお互いの人間関係は変化してしまう。いや、幸人と美月の関係は一生このまま変わらないのかもしれない。それは恋人同士という、この世で一番強固な関係で結ばれているから。でも、友人や幼馴染という関係はどうだろうか。恋人に比べたら、きっと希薄な関係に分類されてしまうと思う。
男二人と女一人で遊びに出かけて、何の利害も考えず純粋に楽しめるような期間は終わってしまったのだ。それはきっと、幸人と美月が付き合い出してから、そして純也が美月に恋心を抱くようになってから、三人の関係は破綻していると言ってもいいのかもしれない。
片思いの相手とその恋人の二人と一緒に出掛けたとして、きっと純也は心から楽しめない。孤独感とか疎外感とか、他にもいろいろなことに耐えられる自信がまったくなかった。せっかくの楽しいお出かけを自分のせいで台無しにして、二人に迷惑をかけてしまうことになりかねない。
――きっと二人の間に俺は必要ない。
「二人で行ってこいよ。美月も久々のオフなんだろうしさ。それに定期テストも近いからさ。今日みたいな成績を取らないように、俺は勉強しないといけないんだよ。そういうわけで遊んでる場合じゃないしな。それに俺、映画って興味ないし」
純也はそう言って笑った。上手く笑えていた自信はなかったけど、二人の様子を見る限り、ちゃんと笑えていたのだと思う。
「ええ~、純也行かないの~。最近純也がちょっと冷たくて、お姉ちゃん寂しいな~」
美月はぼやいて、純也の肩に手を置き、駄々をこねる子供のように純也の身体を揺さぶってくる。
「そっか。残念だね」
幸人は小さく息を吐いて、肩を落とす。
純也はその時、ちらりと、幸人の顔を覗き見た。
もし自分の目の前で恋人が他の男に抱き付いたり、過剰にスキンシップをしたりしている現場を目撃したら、純也は内心穏やかではいられないと思う。だが、幸人は純也と美月のやり取りを見て、苛立った素振りも見せたこともないし、今も平然と会話を進めている。
きっと純也にはわからない二人の距離感や信頼関係のようなものがあるのだろう。
その中で、純也には決して見せることのない、二人の間だけで見せる顔というものがきっと存在する。そこには、彼らと長い付き合いの純也が知らない二人がきっといるのだ。
「…………」
なんだか突然、体全体を覆うかのように孤独感が襲ってきた。心の奥底から沸いてくる、この粘っこい気持ちは何なのだろう。
そんなことを考えているうちに、ふと時計を見ると、昼休みの終了五分前になっていた。純也はほとんど冷めてしまった昼食のカレーを一気に口に詰め込んで、自分の中に沸き上がった二人に対するもやもやとした感情とともに飲み込んだ。