4-5 終わりのとき
帰り道、方向が逆の幸人とは辺野駅で別れ、純也、美月、ユーリの三人で電車に乗り、自宅の最寄り駅から自宅までの道のりを歩いていたところだった。
「みんな変わっていくんだね。いつまでもこんなんじゃいけないんだな、って今日改めて思い知らされたよ」
両手をグッと伸ばして、美月はしみじみと感慨深いように呟いた。
「別に何も変わらないだろ。俺がそんな気持ちを抱いていたということを二人が知ってしまったってだけ。なんかさ、俺が自分のことを正直話したくらいで気まずい感じになるんだったら、俺らの関係ってそんなもんだったんだなって、そう開き直ったら、自分がウジウジ悩んでるのがアホらしくなってさ」
純也の表情にはもう迷いの色も見えない。すべての汚れが抜けきったかのようなすっきりした表情になっている。
「そっか……。でも私、純也にそういう風に思ってもらえてるって話を聞けて、なんかうれしかった」
「その言葉だけで十分だよ。幸人は美月にベタ惚れしてるから大丈夫だろうけど、手綱をしっかり握っとけよ。ああ見えてもあいつは結構モテるらしいからな」
「まあ幸人はカッコいいからね。そりゃあモテるでしょう。そんなのは意外でもなんでもないのだよ」
「へっ、そうですね」
純也が毒づいたところで、ちょうど曲がり角にさしかかった。
「じゃあ、わたしはこっちだから。ねえ、ちょっとユーリちゃんと二人でお話したいんだけどいい?」
お姉さんのように優しい笑みで、美月が微笑みかけてくる。
「ああ。じゃあ俺はその話が聞こえないように、先に歩いてるよ」
右手を上げて挨拶してから、純也が歩き出す。その背中がある程度離れたところで、美月がユーリに腕を絡ませてくる。
「ユーリちゃん。きっと君にもチャンスはあると思うよ。だから頑張ってね」
その言葉に対して、ユーリができたことは小さく頷くことだけだった。それがこの空気を壊さないようにするために、ユーリができた精一杯の努力。
「私がこんなことを言うのはおこがましいだろうけど、純也はいいヤツだから、ユーリちゃんの選択はきっと間違えてないと思う」
美月は無邪気な笑顔で、楽しそうな声色で言った。
ユーリは知っている。そんなチャンスが自分には与えられていないことを……。もうすぐ夢のようなこの時間が終わりを告げることを……。
それでもユーリは相手を安心させるように、全身の神経を使って、精一杯の笑顔を作った。
「えへへ、美月さん、ありがとうございます。さっきはいろいろと失礼なことを言ってすみませんでした」
「いいのいいの。気にしないで。なんにも知らなかった私がいけないんだよ。じゃあ、後はユーリちゃん次第だよ。頑張ってね」
手を振って去っていく美月。ユーリは彼女の後ろ姿を見送った。
「ああいい空だ」
歩いたままで純也は頭の後ろで手を組んで、空を見上げた。
すでに太陽は西の方にすっかり傾ききっていて、空は夕闇どころか、闇が支配し始めている。客観的に見れば、どこを見渡してもいい空は見えないのかもしれない。
だけどそんなのは関係ない。純也がいい空だと思えるんだから、そこに見える空はきっといい空なのだ。
自分が悩んでいた問題は、これですべて片づいたと思う――いや、まだ終わってない。
(もう一つあるよな)
一つ問題が片付いたら、もう一つの問題が浮き彫りになる。人生はこれの連続なのだろう。
曲がり角を曲がって、ユーリと美月から自分の姿が見えなくなったところで足を止めて、近くの電柱にもたれかかる。
別に二人の会話を盗み聞きしようなどという意図はない。単純に、ユーリが会話を終えて戻ってくるのを待っていただけだった。
しばらくそのままでいると、一つの足音がこっちに向かってきた。
やがてその足音の主が曲がり角を曲がり、姿を現したところで、純也が声をかける。
「よっ。ユーリ、さあ、帰ろうぜ」
「あっ、純也……」
ユーリの横顔は明らかに元気がなかった。美月になんかショックなことでも言われたのだろうかと一瞬勘ぐったが、さすがに美月はユーリが傷つくようなことなんて言わないだろう。
そうなると、原因はきっと純也にあるはずだ。
それに今日一日、色々と振り回されたりもして疲れているのかもしれない。
「ありがとうな。美月に伝えてくれて。俺みたいな根性なしじゃあ、きっと一生あの気持ちを抱え込んでたかもしれない」
それは半分嘘だ。
幸人に自分の感情を吐露した時点で、ユーリが言っていなくても遠からずその話を美月にしていたことだろう。
それでも、きっかけを作ってくれたユーリには、もちろん感謝している。それは本当の話だ。
「わたし、純也に内緒で勝手にあんなことをしてしまったのはいけないことだと思っています。だけど、この結果を見ると、自分が取った選択は決して間違いじゃなかったとも思っています。だって今の純也の顔、すごい生き生きしてますから」
「ああ、その通りだ。間違いじゃなかったと思うぜ」
当てが外れた。
てっきり、純也に内緒で美月に純也の気持ちをしゃべってしまったことを反省して落ち込んでいるものだと思っていたが、そうではないらしい。
どのような切り口で攻めようかと、純也が考えあぐねていると、ユーリが口を開く。
「純也は、この時間がいつまで続くと思いますか?」
何やら哲学のような質問だ。
「そりゃあ、いつかは終わるさ。いつまでも同じ場所に留まっているのはきっと不可能だ。だけど少なくても、美月が卒業するまではきっとこのままだ。だから後一年半くらいか。その後のことはわかんないけど、きっと今とそんなに変わんない気がするなあ。根拠はないけど」
「違いますよ。もう――終わりなんです……」
言葉をすべて言い終える前に、ユーリの全身から力が抜け落ちた。そして、糸が切れた操り人形のように彼女の身体が重力に引っ張られる。
「おい! ユーリ!」
純也は咄嗟に腕を差し出して、彼女の身体を支える。
柔らかくて軽い、正真正銘女の子の身体。
彼女の形のいい唇から洩れる吐息。こんな状況なのに、色気を感じてしまうようなその息遣い。
純也は自分の心臓が大きくポンプしているのを感じた。胸の奥が苦しくなって、だけどその苦しさにはどこか心地よさがあって。
――そうだ。
この気持ちはずっと自分が悩まされてきたもの。美月を見ていると沸いてくる気持ちと同じ種類のもの。
あの気持ちとは違うものだと思っていたけど、そうじゃなかったんだ。
――今になってようやく気がついた。
「わたし、何もできなかった……」
それを告げて、彼女の瞼がゆっくりと閉じられる。
「そんなことはないっ! ユーリ! ユーリ!」
大声で叫ぶも、彼女は何の反応も示してくれない。
「うそだろ……なあ、うそだよな……」
――彼女のその体から、決定的な何かが抜け落ちるのを、純也は感じ取った。
視界が歪んでいく。ユーリは、自分が今上を向いているのか下を向いているのかわからなかった。
(もう終わりなのかな? わたしまだなんにもできてないのに……)
自分の身体を抱いてくれる大きな手は間違いなく純也のもの。彼の手の暖かさは十年経った今でも、まったく変わっていない。
残ったのは、後悔と自責の念。自分は純也のために何もしてあげられなかった。純也の願いを叶えてあげられなかった。
沈んでいく意識の中で、ユーリは思いつく限りの懺悔の言葉を純也に向けた。
(ごめんなさい……)