3-2 屋上で食べるお昼ご飯
週が明けて、学校へ行くと、教室の喧騒に懐かしい顔が一つ混じっていた。
「よお、幸人、おはよう。ついにご帰還か」
木下純也がその背中に声をかけると、ご本人の春宮幸人が振り返って挨拶を返してくる。
「おはよう。長かった闘病生活に別れを告げてきたよ。足の方も、もう万全だ。ほらこの通り」
幸人はその場でジャンプして見せる。病み上がりの友人を心配して、慌てて止めに入ろうとした純也だったが、幸人は普通に着地し、涼しい顔をしていた。
「全然大丈夫そうだな」
「うん、もう完璧さ。一応、今日の体育は見学するつもりだけどね」
懐かしいというのは語弊があるが、この教室で顔を合わせるのはなんだかすごい久々な感じがした。
かと言って、特別なことはなにもない。そもそも幸人がいなかった数日間が、特別だったのだ。
こうして何事もない日常が戻ってくると思っていたのだが、その望みはあっさりと崩れ去った。いや、もしかしたら純也の望みはそんな日常を捨て去ることだったのかもしれない。
それは昼休み、幸人を誘って学食に向かおうとしていた時だった。
「純也! お昼の時間ですよっ!」
ガラガラと教室の扉を開けて、教室中どころか、隣の教室まで響くような声量でそんなことを告げたのはユーリである。
彼女は教室の入り口で弁当箱をぶら下げて、純也の方に視線を向けていた。
あの日以来、ユーリが純也のクラスに突撃してくることもなく、純也は一人で昼食を取っていたのだった。
だから、ユーリがもう教室に突撃してくることはないと、純也は高を括っていたのだ。別にあの日以来、昼食が一人だったので、寂しく感じていたとかそんなことはないし、ユーリの声が聞こえてきた瞬間ちょっと嬉しかったとかいうこともない――たぶんそんなことはない……。
教室中の視線が一斉に集まり、「あ、あれっておとといも来た木下の妹だろ」「ああ。あん時、俺よく見てなかったんだけどさ。めっちゃかわいくね?」なんて声が聞こえてくる。
「おい、あの子、誰? 純也の妹……? 司ちゃんじゃ――」
純也は幸人の言葉を遮って、彼の腕を掴んだ。
「うわあ、っとっと――とにかく飯に行くぞ。幸人も一緒に行こうぜ」
幸人が余計なことを言う前に、純也は彼を教室から連れ出した。その様子をクラスメイト達が不審な目で見ていた気がするが、純也は気のせいだと思うことにした。
幸人の背中を押したまま、廊下の角まで歩く。途中、幸人は何か文句を言っていたが、純也は言い返すよりも人目に付かないところまで幸人を連れ出すことを優先した。
「んで? 俺をどこに連れていく気? そもそもこの子は誰? 純也の知り合いなの?」
明らかな不満を隠そうとしない調子で幸人が聞いてくる。
「ユーリ。今日も屋上でいいか?」
「そうですね。そうしましょう」
ユーリは小さく頷く。
純也としても中等部の校舎を突っ切るのは気が進まないが、落ち着いて話ができる場所といえば、あそこしか思いつかない。それに中等部の校舎ならば、知り合いに目撃されて、面倒になる可能性もグッと減るはずだ。
「屋上? 屋上って確か、中等部の方からしか行けないよね。っていうか俺、昼飯持ってないんだけど。どうせ学食に行くもんだと思ってたしさ。純也もそうでしょ」
それに答えたのはユーリだ。
「純也の昼食はわたしがお弁当を作っていますので、ご安心を」
幸人は怪訝そうな目でユーリを見つめて首を傾げた。
おそらくは、純也とユーリが一体どういう関係にあるのかを測りかねているのだろう。いや、昼食のお弁当を作ってくる関係といえば、それがどんな関係に当たるのか、かなり限られてくるのかもしれない。
話がややこしくなりそうだが、最初の段階でかなりややこしいことになっているので、純也はこの場では何も弁明しなかった。
「まあ屋上に行ったらちゃんと話すよ」
とりあえず、幸人の昼食を確保するために一旦購買に寄り、純也とユーリは購買の外で幸人の背中を見守っていた。
この学校の購買は、毎日パンの争奪戦が行われている――なんてことはなく、それなりに混雑してはいるが、通勤ラッシュ時のコンビニの方がよっぽど混雑しているだろう。要するに購買の混み具合は大したことはないということだ。現に、幸人はのんびりとした足取りでカレーパンを選び、レジに持っていっていた。
その姿を見つめていると、純也の前を不意に見知った顔が横切った。純也が声を掛けあぐねていると、向こうもこちらに気づき足を止めた。
「あっ、純也……」
なぜか気まずそうに呟く美月。
普段だったら、いきなり飛びついたりしてくる美月だが、この日はどう見ても普段の様子が違っていた。
「あ、あのさ……」
視線を彷徨わせながら、美月がおずおずと口を開く。純也としては、どうして彼女がこんな態度を取っているのか、皆目見当も付かない。
「この間さ、幸人のお見舞いに行った時に、幸人から純也の話を聞いたの。ごめんね、私、純也のことなんも考えないで、振り回してばっかりで……」
掠れるような声で、謝罪の言葉を述べる美月。
(ああ、あの話を聞いたのか……)
元々、幸人に話すことで美月に伝わることはわかっていたので、それ自体は別に構わない。だが、まさか美月がこのような顔をするなんて思わなかった。
その顔を見て、心の奥がズキリと痛む。好きな人にこんな顔をさせてしまうなんて、自分の選択は本当に正しかったのだろうか、なんて考えが純也の脳裏をよぎる。
でもきっと、あの選択を取らなければ、純也自身の心が耐え切れなくなる。だからきっと、二人と距離を取るって選択肢しか残っていなかったんだと思う。
だから少なくとも、間違った選択ではなかったと信じたい。
「実際俺も楽しんでたしな。別にいいんだ。それに美月が俺を振り回してるのなんて、今に始まったことじゃない。俺がこっちに引っ越して来てからずっとだ。俺は十年間も振り回されてるんだから、もう慣れっこだよ。今さらそんなの気にする必要はない」
自分でも素っ気ない口調だったと思うし、もう少し気の利いた言い方があったんじゃないかと思う。だけど純也にはそんな器用な真似ができなかった。
「えへへ……、それもそうだね」
そんな純也らしい飾らない言葉が美月の心に届いたのかもしれない。美月は普段通りの屈託のない笑顔を浮かべた。
「ありがとう純也。ところで、その子は誰?」
美月は視線をユーリに向ける。ユーリは人形のように、綺麗な顔に表情を浮かべることなく、無表情という表情で純也の横に立っていた。
美月にとって、ユーリは中等部の制服を纏っている見知らぬ女の子である。そんな見知らぬ子が、幼馴染である純也のすぐ隣に立っていて、美月が気にならないわけがないだろう。
「じゃあ、美月にも説明するよ。幸人も一緒にいるんだけど、美月は昼休み空いてるのか?」
レジのほうに視線を向けると、幸人がちょうどお金を払っているところだった。
「そうね。部室にでも寄って部員と昼食をしようと思ってたけど、何か用事があったわけでもないし、別に構わないわ」
話していると、昼食を持った幸人が帰ってくる。
「あれ、美月さん。どうしたの?」
それに答えたのは純也だ。
「諸々の説明は屋上でしよう。まあとりあえずついて来てくれ」
美月は事情がまったく分からないといった顔できょとんとしている。そんなのはお構いなしに、純也はユーリ、幸人、美月の三人を連れて屋上へ向かった。こんな風に強引に二人を連れ回したのは、きっと人生で初めてだったと思う。
高等部の先輩三人に連れられて屋上へ向かう中等部の生徒。しかも転校生の美少女。いつぞや司から、「ユーリちゃんを振り回しているところを見られたら、男子から憎まれるかもね」なんて忠告をされたことを思い出し、周りからどんな噂をされるのか不安だったが、深くは考えないことにした。
屋上に躍り出ると、前回同様に純也たち以外に生徒の姿はなかった。確かに、純也も中学時代に屋上で昼食を食べようという発想はなかったが、もう少し人がいてもいいと思う。まあ、この場合は誰もいないことが純也にとっては好都合なわけだが。
入り口から二メートルほど離れて、灰色のコンクリートに腰を下ろす。
「じゃあ純也。その子との関係と、いきなり俺らをこんなところに連れてきた理由を聞こうじゃないか。今日の日替わりランチを我慢してまでこっちに来たんだからさ。それなりの話をしてもらわないと困るよ」
言葉にはとげがあるが、幸人はどこか楽しそうな感じで聞いてくる。それは刺激のなかった病院生活から脱して、いきなり面白そうなことに出会えたことを喜んでいるように見えた。
「まあ別にこんな風に改まる必要はないんだけどな。なんか教室の空気に流されてっていうか、耐えきれなくなってっていうか、そんな感じだ。まあそれはどうでもいいか。それで、こいつはユーリだ」
「ユーリです。よろしくお願いします」
ユーリはぺこりと、可愛らしく頭を下げる。
「俺は春宮幸人。純也とはまあ結構仲のいい友人だと、俺は勝手に思ってる」
「私は九曜美月。純也とは、言ってしまえば幼馴染ね。もう十年くらいの付き合いになるわ」
その自己紹介を聞いて、ほんの一瞬――誰も気づかないような一瞬だったが、ユーリは鋭い目つきで二人を睨んだような気がした。
「それでユーリちゃんは純也とどういう関係なの?」
好奇心をたっぷり含んだ目と声で、美月が尋ねてくる。明らかにユーリに対しての問いだったが、その質問には純也が答えた。
「ユーリはさ。つい先日、こっちに越して来たんだ。最近、幸人の怪我とかで、まあ色々とドタバタしてたし、二人に紹介できなかったんだよね」
そこで一度言葉を切って、幸人と美月の顔色を窺った。
「じゃあ改めて、紹介する。ユーリとは俺が辺野市に越してくる前によく一緒に遊んでた仲なんだ。まあそういうわけだから、俺とは一応幼馴染みたいなもんになるのかな 」
嘘は何ひとつ言っていないが、真実も語っていない。
「前にさ、今日とおなじような感じでユーリが俺のクラスに来てね。幸人なら簡単に想像つくと思うけど、例によって吉田を中心とした連中が騒ぎだしてさ。奴らに事情を説明するのも面倒だったから、とりあえずユーリを俺の妹だってことにして誤魔化したんだ。それで、さっき幸人が教室でユーリを見た時に、ユーリが俺の妹じゃないってばらしそうになっただろ。そうなると面倒なことになるし、それで俺は慌てておまえを連れ出してってわけ」
嘘を言うとき、話を誤魔化そうとするとき、真実を随所に混ぜた方が効果あると言う話を聞いたことがあるが、この話に関しては紛れもない真実だ。
「まあ事情はわかったよ」
うん、と頷く幸人。
「ユーリは司と同じクラスに転入してきて、司とは仲良くはやってるみたいなんだけどさ。司はああ見えて結構忙しい身だし、そうなると俺がユーリの相手をしないといけないだろ。だから、たまにこうやって昼食を食べたりするのも、まあしゃーないっていう感じかな」
ユーリがこうやって昼食に誘ってきたのは、純也にとっても予想外の出来事だったのだが、ここでそれを言ってしまうのは逆に不自然な感じがした。それにここで「俺もユーリが昼食に誘ってくるなんて思わなかったんだけどな」なんて言ってしまったら、ユーリに悪い気がした。
純也自身も彼女がこうして昼食に誘ってくれることを、少なからず好ましく思っているのだから。
これで十分筋の通った説明ができていると思う。少なくても、昔飼っていた猫が人間の姿になり自分の前に現れて、そいつが昔のように自分に懐いてきて一緒に昼飯を食べるんだ、っていう話よりは納得してもらえると思う。
すると、二人は何かに気づいたようにニヤニヤと笑いを浮かべていた。
「なるほどね。わかったよ。純也、どうして君が急に、俺らと遊べないと言ったのか。つまりは、こういうことだったんだね。俺らの知らないところでよろしくやってたわけだよね」
「……は?」
予想外の幸人の反応に純也は眉を顰める。そして美月も幸人と同じように厭らしい感じの笑みを浮かべて、
「いいのよ純也、とぼけなくて。そうだ! 今度この四人でダブルデートしない? ね、名案でしょ?」
――デート?
(何を言ってるんだこいつらは。デートってのは、恋人同士がするもんだろ。ダブルってどういうことだ。一つは幸人と美月だろう。だけどもう一つは? 消去法でいくと、俺とユーリしか残らないんだが……)
「いやいや、最近なんか純也の様子が変だと思ってんだけど、そういうことだったんだな。おめでとう。俺は祝福するよ」
駄目だ。このカップルの間でひとつの間違った真実が出来上がってしまっている。
さらに二人揃って拍手までしてしまっている。
一度固まった認識が出来上がると、それが誤解だとしても、そう簡単にはその認識を覆すことができない。
「ユーリ。おまえからもなんか言ってやれ。ユーリ?」
何も口を挟まず、黙って話を聞いていたユーリに話をふると、
「そうですね……」
無表情だけどその顔には、照れが浮かんでいる。そして、否定とも肯定とも取れるような曖昧な言葉を述べた。
その様子を見て、本当はユーリが自分と恋人になりたいと思っているんじゃないか、なんて考えが一瞬だけよぎったが、それを本気にするほど純也は自惚れてはいない。そもそも、ユーリの正体を知っている自分としては、彼女のことをそんな目で見られないのは、当然だと思う。それにユーリだって、自分のことをかつての飼い主くらいにしか見てないだろう。
だけど、何かを言いたいけど我慢しているような、彼女の横顔はきっと一生忘れられないと思う。
――どうしてそんな顔をする?
言葉にすれば、きっとユーリは答えてくれるだろう。だけどそれを言葉にしてしまったら、この世界が崩れ去るような、この関係が崩れ去るようなそんな気がして、純也は彼女に聞くことができなかった。
(まあ、もうどうにでもなれって、感じだな)
今さら自分だけが必死になって否定するっていうのも、なんだか滑稽な気がする。
それにどのみち、この場で誤解を解くのはきっと不可能だ。
――なぜならば。
「そう言えば、ユーリちゃん。純也にお弁当作ってきたんでしょ」
幸人がユーリの方を見ながら言うと、
「ホントに? ユーリちゃん。すごい。中学生だってのに、しっかりしてるねえ」
美月がユーリを見て、感心したように両手を合わせる。
異性のためにお弁当を用意するっていうシチュエーションまで用意されているのだ。言葉でいくら真実を語っても、状況証拠がその真実を軽々上回っていく。
こうなれば、もう打つ手はない。
「これです。少しだけ早起きして作りました」
若干得意げにユーリが包みからお弁当を取り出して二人に見せる。それを見て美月は、
「ユーリちゃんはいいお嫁さんになりそうだね」
その時のユーリの得意そうな顔を見ていたら、なんだかこのまま二人に誤解させておくのも悪くないかもしれない、と純也は思えてきたのだった。
澄み切った空の下での昼食。相変わらずユーリのお弁当は感想に困るような味だったが、中毒性も相変わらずで、誰よりも早く純也は昼食を食べ終えた。
幸人と美月が二人揃っている時に、こんな清々しい気持ちで二人と接することができたのは久々のことだった。それは晴れ渡っている清々しい空のお蔭ではないだろう。誰のお蔭かと言えば、間違いなくユーリのお蔭だ。
幸人と美月が楽しそうに会話しているのを見ても、いつもと違って、ささくれ立つこともなく、随分と穏やかな気分でいられた。
「じゃあさ、今週末にこの四人で遊びに行こうよ。美月さんもさっき言ってたけど、ダブルデートだ。純也もそれなら構わないよね」
「ああ、それいいかも。幸人、それ名案だね」
幸人の言葉に美月が同調する。
先日はああ言ったが、今の感じだときっと、それも楽しめると思う。
それにユーリも入れて四人で遊びに行くならば、美月と幸人の間に入れなくて、独感に苛まれるということもないだろう。なぜならば、その場にはユーリもいるのだから。
「二人がいいっていうなら、俺はいいよ。テストが近いから勉強しようと思ってたけど、なんとかなるだろ。っていうか、今回なんとかなんなくても、最終的にはなんとかなんだろ。それで、ユーリはどうだ?」
当のユーリはと言うと、
「わたしは、純也がいいならいいですよ。ついて行きます」
さっきから緊張しているのか、口数が少ない。結構人見知りするタイプなのかもしれない。
こうしてユーリの新しい面が発見できたのが、純也にとって少し嬉しかった。
そんなこんなで時計を見ると、昼休み終了十分前になっていた。
「あ、そうだ。私、ちょっと戻る前に部室に寄らなきゃいけないんだった。先に失礼するね」
そう言って、美月が立ち上がると、
「あ、じゃあ俺も先に。ちょっと授業始まる前に、用を足しておきたい」
同じように幸人も立ち上がり、二人は純也たちに別れを告げて屋上から出ていたった。
フェンスに囲まれた屋上に、純也とユーリだけが残される。
ユーリは長い睫を下に向けて、複雑な表情をしていた。今まで面識もなかった幸人と美月から、あんな風に誤解されてきっと困惑していたのだろうと思う。
「純也、良かったのですか? さっきの女性が純也の片思いの相手なのでしょう。その人に誤解されたままで」
ユーリが申し訳なさそうな声で言った。
「あはは、そう思ってんなら、あの場で否定してくれればいいのにさ」
とは言うものの、仮に全力でユーリに否定されたらそれはそれでショックだったのかもしれない。もちろんそんなことを口に出したりはしないが。
「まあそんなことしても、きっと無駄だったかもしれないけどな。でもまあこれでいいんじゃないかな。根拠なんてないけど、まあ俺はこれでいいと思う」
「そうですか……」
それっきりユーリが黙ってしまった。何か声をかけようかと思ったが、彼女は考え事をしているようだったので。純也も黙っていることにした。手持ち無沙汰になった純也は彼女の隣で雲ひとつなく、悩みもなさそうな空をぼんやりと眺めていた。
そのまま残りの時間を過ごそうと思っていたが、一つの疑問が浮かんだので、それをユーリに尋ねた。
「ところで、あれから一回も俺を昼食に誘ってくれなかったのに、どうして今日に限って誘ってくれたんだ?」
「純也は、わたしと一緒にお昼を食べるのを楽しみにしてくれてたんですか?」
質問を質問で返された。純也は少しためらいながらも、素直に答えることにした。
「まあ、楽しみじゃなかったといえば嘘になるな。幸人がいない間は一人で昼食を食べてたわけだしな。まあ他のクラスの連中に騒がれるのはもう勘弁だけどな」
「うふふ、そうですか。わたしはただ、クラスの子たちと一緒にお昼を食べてただけですよ。でも今日はちょっと……みんなの予定が……」
そこでユーリが言い淀む。
「なるほどな。俺のところに来たのは、突発的だったってわけだ。それにしては、なんで俺の分の弁当を用意してたんだ?」
「そ、それは――」
不意をつかれたように、ユーリは顔を紅潮させた。何かいけないことを言ってしまったのだろうかと、純也は落ち着かない気持ちになるが、原因がわからないのだから、どのように対処してよいのかわからない。
「こ、こんなこともあろうかと、いつも純也の分の用意してるんです……。純也と一緒に食べられないときは、このお弁当がわたしの夜ご飯になるんです……」
蚊の鳴くような小さな声で言うユーリの姿が、本当に可愛らしくて。こんな彼女の姿を見て、口元を緩めずに平常心でいられる男がこの世にいるのだろうか。少なくても純也には、天地がひっくり返ろうと不可能だ。
「本当は、毎日純也と一緒に昼食を食べたいと思ってるんですけど……。純也に迷惑がかかってないかとか、考えると、ちょっと怖くなって……。でもやっぱり、たまには純也と一緒に食べたいとかと思ったりもして。わたしだって、実は勇気を振り絞って、純也を誘ってるんですよ……」
唇を尖らせながら、ユーリは風に流されて消えてしまいそうな声でボソボソと呟いた。幸い、屋上には一切風が吹いてなかったので、彼女の恥ずかしそうな声はすべて純也の耳に届いていた。
にも関わらず、彼女の言葉に大した反応を示せなかったのは、どう反応するべきか困ったことと、ユーリと同じくらい純也の顔が赤くなっていたからだった。
「あ、ありがとうな。ユーリがよければこうやってまた一緒にお昼を食べような」
ユーリは小さく頷いた。
そんなユーリの姿を見て、純也は彼女の頭に手を置き、ほとんど無意識のうちに彼女の綺麗な栗色の髪の毛で覆われた頭を撫でていた。
そして恥ずかしそうに、トマトのように顔を真っ赤にして、純也を見上げてくるユーリを目の当たりにして、昔を思い出して懐かしい気持ちになった。