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2-5 勉強会?

 それから次の日、幸人のいない学校はこれといったことなく放課後を迎えた。純也が自分の部屋のベッドで漫画を読んでいると、玄関のチャイムが鳴り響く。

 昨日の朝のことを思い出して、ユーリの顔を思い浮かべながら玄関を開けると、扉の向こうには予想通りの人物が立っていた。

 それにしてもと思う。ユーリの顔を思い出すってなると、猫の方の姿ではなくて、いつの間に人間の方の姿を思い浮かべるようになっている。

 それは最近までユーリが猫だったころの思い出がすっぽりとなくなっていたせいか、それとも――。

「司ちゃんいますか?」

 ユーリは家の中を覗き込むようにしながら尋ねてくる。

「司なら、まだ帰ってきてないぞ。最近は結構遅くまで部活やってるからな」

「そうですか……」

「なんか用事か? 何だったら、司が帰ってきたら、そっちの部屋を訪ねるように言っておこうか?」

「いえ、そこまでしていただかなくても結構です。ちょっと宿題でわからないところがあった程度でしたので、もう少し自分で考えてみます」

「ちょっと待て。もしかして、司に勉強を教わろうとしているのか?」

 純也とて、人のことをとやかく言えるような成績ではないが、司はそんな純也よりも学年順位がかなり下だ。彼女は学年平均を超える教科が一つとして存在しない。毎回超低空飛行で華麗に赤点を回避する程度の実力者であり、そんな人間に勉強を教わるのは、きっと不可能だ。

「俺の予想だけどな。ユーリが今思っている疑問は司に聞いたところで、絶対に解決しない」

 ユーリは首を捻って考え込む。きっと普段の司の勉強態度について記憶を呼び起こしているのだろう。

「言われてみれば、司ちゃん。授業中ほとんど机に突っ伏してました。あれじゃあ、勉強もはかどりませんよね」

 今気づいたといわんばかりに、ポンと手を叩くユーリを見て、唖然とする純也。

 彼女は予想以上に抜けているところがあるのかもしれない。

「なんだったら、その宿題、俺が見てやろうか。まあ俺だってデキのいい方ではないけどさ。さすがに中学生の勉強くらいならたぶん何とかなると思うぞ。しょっちゅう司の宿題を見てやってるしな」

「本当ですか? それならお願いしてもいいですか?」

「ああ、じゃあとりあえず上がれよ」

「お邪魔しまーす」

 純也が自分の部屋に案内すると、ユーリは部屋中を物色するようにキョロキョロと辺りを見回す。

「別に珍しいもんなんてなにもないぞ」

「いえ、部屋の間取りとか雰囲気とか全然違うのに、なんだか昔のことを思い出してしまって。おかしいですね。初めて入るお部屋なのに、なんだかすごい懐かしい感じがします」

 そっと自分の目頭を拭うユーリ。

 きっとあの頃の思い出に浸っているのだろう。純也も彼女との思い出を断片的には思い出すことができるが、完全に思い出せなくて、それが本当にもどかしい。

 感傷的になっているユーリに何か言葉をかけてあげたいが、過去の記憶が完璧ではないせいもあり、なんて声をかけていいかわからない。

 いやきっとそれは言い訳だ。こんな時に、どんな風に声を掛ければ女の子が喜んでくれるのかを純也が知らないから声を掛けられないだけだ。

「それで――エッチな本の隠し場所はどこですか?」

 しんみりとした口調で聞いてきたが、シリアスだった空気は一瞬のうちにはじけ飛んで、どこか遠くの次元に飛んでいってしまった。

「今って、そういうのを聞くような空気じゃ無かったろ……」

 呆れた声色で純也が呟くと、

「いえ、これも重要な問題ですから。それに純也だって、色恋沙汰に精を出すくらいですから、そういうのにも興味を抱く年頃なのでしょう」

「まあ、否定はしないけどよ。だが悪いな。俺はそう言う類の本は持っていないんだ」

 それを聞いて、ユーリは、ふ~ん、と鼻を鳴らした。

「じゃあ、ベッドの下なんてベタなところはさすがにないとして。机の二重底の下とか、教科書が並んでいる本棚の奥の方にある微妙に空いているスペースとか。ちょうど教科書で隠れて見えなくなってますけど、それらを探っても純也は痛くないってことですよね」

「…………っ!!」

 ――う、嘘だろ。

 顔中の、いや体中の血の気が失せていくのがわかる。毛穴という毛穴から汗が噴き出して、背筋から厭な汗が伝っていく。

 油をさしていないロボットのようなぎこちない動きで、首を動かしてユーリの方に顔を向ける。ユーリはそんな純也の動きを見て、おもちゃを見つけた子供のように心底楽しそうに微笑んだ。

「あれ? 純也。どうしたんですか? 何やら顔色がよくないようですが」

 淡々とした口調で尋ねてくる。

 悪魔だ。悪魔がいる。

 純也は、今はっきりと彼女の頭上に生えている二本のツノと、獲物を仕留めるかのような鋭い二本の八重歯を見た。

「い……いや。それよりも、宿題。宿題をやりにきたんだろ」

「あ、誤魔化しましたね」

「はいはい。そういうのは宿題が終わってからな」

 これ以上余計な話をしていると、墓穴を掘ってしまいかねないので、純也はユーリの背中を押して、半ば無理やり勉強机に向かわせた。

「はい。じゃあ、純也の許可も出たところで、家宅捜査は宿題が終わってからやります」

 純也が自分の失言に気がついた時には、ユーリが満面の笑みを浮かべていた。


 純也の部屋からは、はっきりと雄の匂いがした。十年前の彼からはまったく嗅ぐことのなかった匂いだ。決して不快な匂いではない。むしろユーリにとっては、なぜかとても安心できる匂いだった。

 匂いはこんなにも昔と違うのに、この部屋はすごい懐かしい感じがする。一度も入ったことのない部屋だというのにだ。それはきっと根本的なところで、純也の匂いは昔と変わっていないからだと思う。だから、成長した純也を一目見ただけで気づくことができた。

 とりあえず、純也を一通りからかったところで満足感を得られたユーリは、数学の教科書を開いて、宿題となっていた問題を純也に見せた。

「ああ、二次方程式か。これなら俺でもできるぞ。どの辺がわからないんだ?」

 言うまでもなく、全部わからない。

 そもそもユーリは勉強なんて一瞬たりともしたことがないのだ。にも関わらず、いきなり問題を解けなんて言われて解けるわけがない。幼稚園の生徒に中学三年生の問題を解けと言っているのと同じ状況に陥っているといっても過言ではないのだ。

 純也たちの中学校に入学する際に、入学テストというものがあったが、そこはちょっとしたズルをしてなんとか凌いだ。ちょっと不思議な力を使った。それだけのこと。深くは語らない。

 既に数日間授業を受けているが、特に数学とやらは本当に何を言っているのかさっぱりだった。入学テストの時と同じように今回の宿題も凌いでもよいのだが、良心の呵責がそれを許さなかった。

 とはいえ、手段を選んでいられない状況になったら、そういう力を使うしかないと、ユーリは考えている。

「全部わかりません。こんな記号ばっかりの文字の羅列を見てどうしろっていうんですか。だいたい解を求めろって、何を求めればいいのか分かりません。解ってなんですか?」

 ユーリは問題の意味が分からないことに不貞腐れながら投げやりに答えた。

 純也はそれを聞いて口元をヒクつかせながら、

「おいおい……。ひょっとして、問題がどうこうとかそれ以前の問題なのか……。これはもう司なんか目じゃないほどの逸材なんじゃないか? なんとなく、本当になんとなくだけど、勝手にユーリは知的な感じのイメージだと思ってたからさ……。いや、ちょっと考えればわかるよな。元々人間じゃなくて猫なんだからな。なんかゴメンな。俺が勝手にユーリのことを誤解しててさ」

 申し訳なさそうに目を伏せる純也。

 完璧にこちらを馬鹿にしているその態度に無性に腹が立ってきた。

「ふ、ふしゃ~!」

 感情の赴くままに、ユーリは椅子を蹴り飛ばして、背後にいた純也に襲いかかった。

「ぐおっ!」

 純也はユーリを抱きとめて、後方のベッドに倒れ込む。

 結果として、ユーリは純也の首元に顔を埋める形になった。部屋のなかに充満している匂いよりも濃い雄の匂いがユーリの鼻孔を刺激する。

 なんとも心地よい感触がユーリの心臓をくすぐって、ずっとこうしていたいと思った。純也の肌に触れているだけで、純也の匂いを嗅いでいるだけで、本当に心が安らぐようだ。

 当の純也は困った顔で、ユーリを引き剥がそうか迷っている様子だった。

 本当に純也はわかりやすい。その表情を見るだけで、彼が何を考えているのかなんてのは手に取るようにわかる。

 そんな純也の反応も本当に面白くて、向こうがアクションを取るまでずっとこのままで居ようと、ユーリは心に決めた。

 純也の息遣いを感じる。純也の心臓の鼓動を感じる。そしてユーリ自身の鼓動も純也と同じように高鳴っていた。

 胸の奥が締め付けられたかのように苦しくなるが、その苦しさには何とも言えないような心地良さがあった。

「お、おい。ユーリ……?」

 戸惑いのこもった純也の声。

「なあ、そろそろ離れてくれないか?」

 だったら、自分の力で引っぺがせばいいのにと思う。男である純也との力比べじゃ、ユーリにまず勝ち目はないだろう。

 体全体を純也に密着させると、接着面積に比例するように純也の身体が強張っていく。

 永遠にこの時が続けばいいのにと願った。だけどそれはぜったいに叶わない願い。叶えてはいけない願い。

 だから今この瞬間を少しでも多く、身体のすべてを使って味わいたいとユーリは思った。

 だけど終わりと言うものは本当に唐突に、他人の手によって告げられるものだ。

 廊下から響いてくるドタバタとした足音。純也はいち早くその正体に察したようで、本気でユーリを引き剥がしにかかる。

「まずい! ちょ、離れてくれ!」

 足音の正体は司だ。司の足音が刻一刻と純也の部屋に近づいてきているのだ。

 マズいことなんて何もない。そう言ってやりたかったが、ユーリは口をつぐんだ。

 本当はもう少しこうしていたかったのだが、この現場を司に見られれば、本気で純也は困ってしまうだろう。さすがにそれは申し訳ない。そう思って、ここはおとなしく引き下がることにした。

 ユーリはあっさり身を引いてベッドから下りた。純也はその様子を見て、ほっと一息つく。

 それから二人で顔を見合わせて、

「宿題、しましょうか」

「あ、ああ……」

 純也は、ぼーっとした様子で返事をした。

 ユーリが椅子に腰かけると同時に、勢いよく純也の部屋のドアが開かれた。

「お兄ちゃん! 今日の宿題がヤバイの! ピンチなの! ってあれ? ユーリちゃん?」

 司は、本来純也の部屋にいるはずのない人物を目にして首を傾げた。

「あ、司ちゃん、おかえりなさい~」

 ユーリは何事もなかったかのように、手をひらひらとさせて司に微笑みかけた。

 ユーリの隣に突っ立っている純也は落ち着かないように視線を彷徨わせている。その様子を見て、ユーリは噴き出しそうになったが、どうにか我慢した。


 純也はまだ心臓がバクバクとしていた。ユーリに触れられていた首元がじんわりと熱を帯びていて、その熱が体全体に伝わっていく。

 ――頭がぼーっとする。

 勢いよく純也の部屋の入ってきた司が部屋の入り口で何かを言っているが、その内容がまったく頭に入って来ない。

 ――純也の世界は灰色になっていた。

 心臓の奥から沸いてくるようなこの気持ちはなんだ。美月に対する気持ちと似ている気がするけど、それとはちょっと違って、なんだか心地よい気分だった。

「ちょっとお兄ちゃん!」

 純也の耳元で叫んだ司の声で、純也の世界に色が戻来ると同時に、体全体を支配していた熱がゆっくりと引いていく。

 元通りになった世界の中――目の前では眉を潜めて、司がこちらを睨んでいた。

「あ、ああ。わりい。んで、どうしたんだ?」

「どうした、って――だから、宿題を教えて欲しいんだってば。って、それはどうでもいいの。どうしてユーリちゃんがいるの? 二人で何してたの?」

 司から顔を逸らし、ユーリの方を向くと、ユーリはおまえが説明しろと言わんばかりに、純也と目を合わそうとしない。

 疾しいことなんて何もないんだから、焦る必要なんかない。事実をありのままに述べることになんの問題があるのだろうか。

「ん、ああ。さっきユーリが宿題教えてほしいって訪ねてきたんだけど、司がまだ帰って来てなかったし、そういうわけなら俺が一肌脱いでやろうと思ってな。司が毎日のように宿題を聞いてくるおかげで、中三の内容はほとんど完璧になってきてるからな」

「お兄ちゃんがユーリちゃんの宿題を見ようってわけ?」

 その言葉が本当か確かめようと、司は口を結んで、目に力を込めて純也の目を睨んでくる。

「むむ~」

 数秒間にらみ合いが続き――睨んでいるのは司だけだが――司が口を開いた。

「っと、そうだった。あたしも宿題教えてもらいにきたんだった。というわけで、おにいちゃんよろしく~」

「はいはい。それじゃ、ここだと狭いからリビングでやるか」

「は~い。じゃああたしお茶を用意するね」

 そう告げると、風のように、ぴゅ~っと音を出素ような勢いで、司が部屋を出て行った。

「司ちゃんを見てると、なんだか元気が沸いてきますね」

「そりゃあ、何よりだ。それよりもさ。ユーリの勉強のレベルってどれくらいなの?」

 さっきとは異なり、ユーリが襲い掛かってくることもなく、彼女は冷静に告げる。

「わたしはずっと猫だったんですよ。人間がするような勉強なんてしてるわけないじゃないですか」

 顔を赤くして、唇を尖らせながら答えるユーリが、半ばムキになっているように見えるのはきっと気のせいではないだろう。

「まあ、そりゃあそっか」

 純也は額を抑えて下を向く。少し考えればそんなことはわかる。失念していたといえばそれまでだ。

「それだったら、宿題を片づけるのって無理があるんじゃ……」

「いえ、いざとなったら、なんとかしますので大丈夫です」

 そう言って笑ったユーリの横顔は、手段を選ばない悪人のようなゲスい顔をしていた。

 純也はそれ以上何も追及しなかった。いや追及できなかったという方が正しいのかもしれない。

 とにかく場所をリビングに移動し、四苦八苦しながらも、二人の宿題をなんとか片づけた。

 司とユーリの宿題を片づけたはずなのに、三人の中で一番疲弊していたのは純也だった。理由は単純だ。結局のところ、ほとんどの問題を純也が解く羽目になったからだ。

 いつも勉強面でお世話になっている幸人は、こんな風に苦労しているのかと思うと友人に尊敬の念を抱かずにはいられない純也であった。


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