第121話:事後
お待たせしました。
重い瞼を持ち上げると天井が見えた。ただし、建物のそれじゃない。ベッドの、だ。まさか自分が天蓋付きのベッドで寝る日が来ようとは。
「頭が痛い……」
身体的な意味じゃなく、精神的な意味で。天井を見てのお約束ネタをやる気力すら起きない。倦怠感がすさまじい。
昨晩、何があったかは、はっきりと覚えている。カミラに食われた。いや、カミラを食った……でもないな。お互いに貪り合ったってのが妥当だろうか。まあ、なるようになってしまったのだ。どうも向こうは最初からその気だったようで、料理のことごとくがそのための仕込みだったらしい。どれだけ用意周到なんだか。
ただ、それだけじゃ済まない話もある。
腕を持ち上げ、ウィンドウを起こすとログを確認する。嫌な単語が並んでいた。次にステータスを確認する。嫌な単語の1つがもたらした結果が反映され、酷い事になっていた。
「はぁ……」
溜息が漏れる。後始末のことを考えるとログアウトするのが恐い。かなり、やらかしたからな……
その時、音を立てずにドアが開いた。
「お目覚めでしたか」
その声はカミラのものだ。口調も声色も違うが、昨晩聞いたカミラのものに間違いない。
「お加減はいかがでしょうか?」
「それをお前が聞く――」
上体を起こし、愚痴の1つでもと開きかけた口が、それ以上動くのを拒否した。
「なあ、カミラ……何だその格好?」
しばらくして、ようやく声を出すことに成功する。
「異邦人の男性は、こういう装いを好むと聞きましたので」
あっさりと答えるカミラ。いや、まあ、そういう奴もいるだろうし、二次元では定番ネタではある。ただ、仮想現実の中でとは言え、実際に目にすることになるとは思わなかった。
誰がカミラにそんな事を吹き込んだのか。いや、予想はできている。昨晩、彼女が身に着けていた、明らかにGAO由来には見えなかった下着と、出所は一緒だ。多分。
「シザー、あるいはスティッチという名前の異邦人に心当たりは?」
「売り込みと納品に何度か。お知り合いですか?」
やっぱりか……あいつらが営業しに行った娼館の1つはここかよ。こんなものまで教えやがって……
「俺の防具や服を作ったのが彼らだ。で、何か用だったんじゃないのか?」
なるべく顔から下を見ないようにして尋ねる。
「はい。朝食の準備ができましたので、様子を見に」
だからその格好――いや、その理屈はおかしいか。
「もう少しお休みになりますか?」
「いや、起きる」
いつまでも寝ていられないし、昨夜のあれこれがアレなこのベッドで寝ていたくない。
「湯の準備もできていますが、どちらを先に?」
「先に風呂をもらうよ」
とりあえずさっぱりしたい。メシはその後でいい。
「その前に……鎮めるのをお手伝いしましょうか?」
俺の身体の一点に、何かを期待するような視線をカミラが注いでいる。仕方ないだろう、朝なんだから。GAOもこんな部分まで再現しなくてもいいのに。
「……不要だ。風呂の手伝いも要らん」
逃げるようにベッドから降りた。マッパだったが気にしない。今更だ。
「ああ、それから」
振り向くことなく、念を押す。
「出てくるまでに、頼むからちゃんとした服を着といてくれ」
「お気に召しませんでしたか?」
「刺激が強すぎる……」
クスリと笑うのが聞こえたが無視した。勘弁してくれ本当に。
汗その他諸々を洗い流して風呂を出ると、朝食が配膳されていた。表面をカリカリに焼いた厚切りベーコンと、スクランブルエッグに芋のサラダ。主食は麦粥だ。
「朝から、よくここまで食べましたね……」
それらを全て平らげ、何度かおかわりまでした俺に対する、カミラの呆れたような感想。いや、美味かったし。それにベーコン以外には薬草も混ぜてあったし。こちらへの気遣いは有り難くいただかないと……嘘です、それもあるけど美味かったのが一番の理由です。ささやかな仕返しも含んでるけども。
「さて、食欲も満たされたことだし……」
食後の薬草茶を一口して、普段着姿でテーブルの向こうに座っているカミラに問う。
「何故、あんな事を?」
薬草茶のカップを置いて、カミラは微笑を作った。
「あなたが、欲しかったから」
カミラ程の美女にそう言ってもらえるのは光栄なのかもしれない。が、それを素直に受け取れない理由もある。
「【魅了の魔眼】を使ってでも、か?」
ログに残っていたカミラの行動。その中にあった嫌な単語その1だ。それを指摘すると、意味ありげにカミラが笑う。
「私の【魔眼】は、対象に心から想う相手がいると効果がないのですよ。それが、一方的な想いであったとしても。あなたの相棒に聞いた限りでは、相手もいないようでしたが念のために」
クインに聞いたって、こうなったのはある意味あいつのせいか!?
「悪かったな、独り身で……」
どうせ今の俺はフリーで、そうなりたい女性もいないよこんちくしょう。
「心に想う相手がいる場合は、意趣返しだけで済ませようと思っていたのですけど、こちらとしては好都合でした。それに、あなたの方から求めてもらえましたし」
その言葉で、自然と溜息がこぼれ落ちた。実は、【魅了の魔眼】の抵抗には成功していたのだ。つまりその後で、それに関係なく折れてしまった事になる……他に行為を強制するような要素はログにも残ってないしな……
薬草茶を口に運ぶ。澄んだ香りと適度の苦みが、気を落ち着かせてくれた。あー、薬草茶が美味い。美味いなぁ……
「ここまで満ち足りたのは何十年ぶり……いえ、もっとでしょうか」
昨夜の事を思い出したのか、カミラは唇に指を当て、妖艶な笑みを浮かべた。昨日の今日じゃなきゃ、これだけでもクラッときただろう。
「あれだけ吸えば腹いっぱいだろうよ……」
今、俺のHPとスタミナは、通常の2割ちょっとあたりまで減っている。更には基礎ステータスの生命力と体力の数値も激減中。理由は昨晩、カミラに吸われたからだ。【活力奪取】で。
「かなり厳しいところまで吸ってしまった事については、申し訳なく思っています。耐えられると分かっていたので、つい」
俺の生命力と体力は、以前《翠精樹の樹液》をたらふく飲んだ事で、一般プレイヤーを大きく引き離しているはずなのに、この有様だ。減った数値だけ見ても、俺じゃなかったら死んでいる。
「我慢できなかったのか?」
「今までにフィストが食べてきた物の中で、一番美味しかった物と美味しくなかった物を思い浮かべてください。後者を数十年食べ続けた後で、前者を目の前にした時、どこまで我慢ができますか?」
その問いで脳裏に現れた美味い物トップは、ジャイアントワスプのシチューだ。不味い物トップはフォレストランナーの肉を焼いた物だろうか。あの肉を食べ続けるだけでも拷問だが、そんな悪夢が続いた後でシチューを出されれば……うん、無理。調理しないまま出されてもかぶりつくかもしれん。と言う事は……
「もし俺に相手がいたとしても吸ってたって事じゃないのか、それ?」
「飢死寸前での事でしたら、そうなっていたでしょうけど、今回は帰ってきたばかりでしたから。フィストに相手がいたなら、間違いなく我慢できましたよ」
対象が独り身であることはカミラにとって重要な部分なんだろうか。それに帰ってきたばかりだから我慢できたって事は、外で『吸ってきた』って事か。となると、だ。
「……吸う方法って、他にもあったんじゃないか?」
吸う対象は選んでいる。その上で、相手を殺してしまうような場合は吸ってないと見た。なら、今回の俺と同じ方法じゃないはずだ。
「ええ。生物の体液から摂取することもできますし、対象に触れるだけでも可能です」
「体液からの摂取って事は、動物の血とかを飲むだけでもいいのか?」
「ええ。ただ、効率が良くありません。それに飲まなくてはならないのがちょっと……血そのものが美味しいとは思えないので。頻繁に買い求めるわけにもいきませんし。普通の人族から直接吸うと、死なせてしまいますから、限界が来る前に外に出ては、動物や魔獣から直接吸い取っているのが現状です」
店を休んでたのはそれが理由か。確かにおおっぴらに大量の血を仕入れるなんて事はできんわな。娼館の女主人が継続的に仕入れる物としては不自然すぎるし。
「今後もフィストに協力してもらえると、私としてはとても嬉しいのですが……今回のやり方が一番効率良く吸えて、私が一番美味しいと思える方法ですので」
カミラは蠱惑的な笑みを俺に向け、ちろりと唇を舐めた。うお、目の前に捕食者がおるわ……
「いいぞ。狩りの時に集めた血を届けてやるよ」
相手が期待しているであろう答えを外して、そう提案する。カミラの表情が、残念そうなものに変わった。
「私では、満足できませんか?」
「そうじゃない。次に食われたら、多分俺は堕落する」
今の提案だってとても魅力的に思えているのは事実だ。それ自体が嫌だと言うわけじゃない。俺だって健全で健康な男なんだから。だが、次に溺れてしまうと、抜け出せなくなるという確信めいた何かがある。それ程に昨晩は強烈だった。今ならまだ踏み止まれる、はずだ。
「貴重な食材を逃すのは残念だろうけど、諦めてくれ」
カミラにしてみれば俺は、吸っても死なせる事がない優良物件なんだろうけどな。
俺の言葉に女主人は目を瞬かせた。そしてクスリと笑う。
「血液の納入は正式に依頼させてください。ですから、その都度、フィスト本人がこちらに顔を出してくださいね? 欲を言えば、依頼に関係なく、訪ねてきてくれると嬉しいですが」
「……どういう意味だ?」
「フィストは今、相手がいないのでしょう?」
何だそれ……いや、そっちの意味で……? いやいや、それはおかしいだろ。何だ? 何を企んでいる!?
「堕落してもいい、と思ってもらえるように、努めようと思いますので」
楽しげにカミラが笑みを作る。あーもう、どこまで本気なんだこいつっ!? 駄目だ、この件については深く考えない方がいい。これはからかわれてるだけだ。そう決めた!
「合わせて、フィストにお願いが」
居住まいを正し、真剣な面持ちでカミラが言った。
「今回の件で、あなたの中に疑問が生じたと思います」
疑問、ね。あるとも。カミラが何者であるのか、という事だ。
外見は人族にしか見えないが、少なくとも、人族そのものじゃないはずだ。寿命も人族のそれではないようだし、大書庫で読んだ亜人関連の本には該当しそうな種族は載っていなかった。【魅了の魔眼】と【活力奪取】はプレイヤーの修得可能スキルにも現時点では載っていない。これが種族固有のスキルなら、ファンタジー視点で見れば似たような特性を持つ種族はいくつかあるけど、微妙に違う気がするし。
「私が何者であるのかは、お話しします。ただ、どうか一切の他言と調査をしない事を約束していただきたいのです」
他言をするなと言うのは分かる。でも、調査の禁止ってのはどういう意味だ?
「調べられたら困るような事があるのか?」
「いえ、知りたい事があるのでしたら、私ができる限りお話しします」
知られたくない事があるわけじゃないのか。だったら、調査の行為そのものが問題ってことになる。うわ、これって『お前は知りすぎた』フラグか?
「難しく考える必要はありません。ただ、お伝えする事実を胸に留めておいてほしいだけです」
真っ直ぐに、カミラが俺を見つめてくる。僅かな緊張と不安が見て取れる目だった。
ひょっとしたら、聞かないままの方がいいのかもしれない。でも、ここまで聞いてしまうと気にならないわけがない。
ゆっくり息を吸い、ゆっくり吐き出して、俺はカミラに答えた。
「じゃ、そろそろ行くぞ」
俺は席を立つ。情報はもらえたし、血液の納入の件も話を詰めた。ここに留まる理由はない。
「長く引き留めてしまったな」
「いや、情報も聞けたし、土産ももらえたから」
今回得た新情報は、結局俺の胸の中にしまっておく事にした。というか、迂闊に表に出せない危険物だ。下手をしたらあちこちに飛び火してしまう。いつか公表できる日が来ればいいんだが。
土産は、カミラが持っていた薬草料理を含めた料理のレシピだ。土産と言うよりは、昨晩の件の慰謝料なんだろうけど。
「では、血液の方はよろしく頼む。それに関係なく来てくれるのも大歓迎だ」
女主人の口調と声で、カミラが言った。
「いい加減、勘弁してくれませんかね……」
「嫌がらせだと思われるのは心外だな……本気なんだが」
溜息と共に言葉を吐くと、カミラが表情を歪めた。いや、そう言われてもな……
「まあ、お前に相手ができたなら、きっぱりと諦めるから、その時は言ってくれ」
おや、そこで簡単に諦めてくれるのか?
「こんな能力、こんな商売だからな。それを理由に不和を引き起こしたり、奪い取ったりというのは望むところではないのだ」
表情に出たのか、カミラが嘆息する。そういう事なら安全か。いや、それって結局、俺がフリーのままだったら狙われ続けるって事に……どこまで本気か分からんけどさ。って、そうだ。
「カミラ、お前どうして【魅了の魔眼】と【活力奪取】を使った?」
使われてなかったら、カミラの正体について聞くこともなかった。【魔眼】はログを見るまでもなく何かをされたのは気付いたし、【活力奪取】も同様だ。特に【活力奪取】は我慢できたって言うんだし。システムログが残る事を知らないのは仕方ないにしても、疑念を持たれる事をしなければ、一夜の情事ってだけで片付いてただろうに。
「お前が魔術師なら【嘘感知】だって使えるだろうし、【魔眼】で確かめる必要もなかったろう?」
「どう転ぶにせよ、私の方からかなり強引に迫ったのは事実だ。だったら、そういう事にしておけば、お前も都合がいいだろう?」
魅了されたから仕方なく、って体裁を作ってくれたって事だろうか。そう言われても、【魔眼】には抵抗してしまったからな……
「吸ったのはまあ、生命維持的には我慢できても、嗜好的には我慢できなかっただけだ。あまりにも美味そうだったのでな」
「それで正体に疑いを持たれちゃ意味ないだろうに」
「それはそうだが。ただ、今までのお前の言動から、それを振りかざしてよからぬ要求をする男ではないのは分かったからな。お前なら大丈夫だろうと思ったから、というのもある。さすがに少し緊張はしたが」
「……そりゃどうも……」
優しげな笑みを向けるカミラから逃げるように、部屋のドアを開けると、
「ひゃっ!?」
外にはエルカが立っていた。
「お、お帰りかしら?」
「ああ。どうした、体調でも崩したか?」
顔を赤くしてるし、皆の看病の疲れでも出てるんだろうか。
「そっ、そういうのじゃないけど……」
何故か挙動不審なエルカ。チラチラと俺とカミラを見るが、それ以上何も言ってこない。
特に用があるわけでもないようなので、そのまま部屋を出てロビーに向かう。
「おお、フィスト殿」
ロビーではラスプッチン達が待っていた。何だ、まだ帰ってなかったのか。全員、ここに泊まったんだろう。ここはお約束のセリフを言わせてもらおうかと思ったところで、
「昨夜はお楽しみでしたね」
何故か先を越された。はい?
「いやいや、皆まで言わずとも分かっておりますので。さすがは救性主」
「まさかフィストがあれ程とは。お陰でこちらも張り切ってしまった」
リチャードとジョンまでが意味不明な事を言ってくる。何なんだ一体?
「あー、フィスト……」
言いにくそうにカミラが口を開いた。
「私のベッドに、館内通話用の魔具が置いてあったのは分かるか?」
「ああ。枕元にあったな」
各部屋と通話するためのインターホン的な奴だ。調薬室にもあったから覚えている。
「実は、だな……あれが起動してしまっていてな……」
恥ずかしそうなカミラの告白。あれが、動いていた、だと?
「……いっ、いつからっ!?」
「お前に主導権を奪われたあたりから、だろうな。あの時にぶつけた覚えがある。途中で気付いて切ったが、それまでのが、だな……」
そう言われれば、途中で急にカミラが慌てて逃げ腰になった時が……いやいや、ちょっと待て! それをラスプッチン達全員が知ってるって事は!
「まさか、館内一斉か!?」
赤い顔でカミラが首肯し、エルカが申し訳なさそうに俺を見る。気がつけば他の娼婦達も廊下の端や待合室の扉の隙間からこちらを覗いていて、何やらボソボソと呟き合っていた。ラスプッチン達は生温かい視線を俺に向けている。くっ……殺せっ! 殺してくれっ!
頭を抱えていると、視界に翠の毛並みが近付いてきた。クインだ。
クインは俺の匂いを嗅いで、じっと俺を見る。そして満足げに頷くと、機嫌良さそうに尻尾を振った。今までとは真逆の反応だ。何だろう、妙にイラッと来たんだが……
しゃがみ込み、クインの顔を両手で挟んで撫でる。そして、拳を強く握り締め、捻り込んだ。
ロビーに狼の悲痛な鳴き声が響き渡った。