冬の太陽
薄暗く、どんよりとした空の下、私は自転車に乗って家を出た。
誰にも止められることも、誰にも気にかけられることもなく、冷たい二月の空気の中を突っ切った。
好都合だと思った。
けれど、誰かに「やめなさい」の一言でも言って欲しかった気がする。どこに行くのかさえ、聞いてもらえないだなんて思わなかった。勝手ながら、少し胸がつんとした。
もう何もかもが嫌になっていた。
将来のこと、中学のこと、今の数少ない友達のこと、失ってしまった友達のこと、自分自身のこと――
そんな風に、大雑把な答えならいくらでも出せる。
それなのに、その何がそんなに嫌なのか、いったい何が恐ろしいのかと聞かれると、うまく言葉にできない。それが何より一番恐ろしい。こんなに恐怖しているのに、それを言葉に置き換えられないのだ。
暫く自転車を走らせていると、防風林の間から朱く染まった海が姿を現した。私は自転車を停めて、木々のわずかな隙間に腰を屈めて潜り込んだ。もう空は大分暗くなっていて、朱く染まった海の上には、まるでぽんと置いたかのような、気味の悪いほど丸く赤い太陽が、ゆっくりと水平線の真下へ吸い込まれようとしていた。
――置いていかないで。
その瞬間、この太陽に着いていきたいと思った。
防風林を抜けると、誰もいない砂浜が広がっている。遠い水平線の向こうから吹き抜けてきた穏やかな海風が、肺いっぱいに流れ込む。
その時、この風と同等の存在になりたいと思った。誰にも見えず、気にもされない。
もう嫌だ。限界だ。正体不明の恐怖、不安、誰に対してなのかもよくわからない、行き場のない怒り、苛立ち。
自分の行いの何が悪かったというのか、どうすればこの状況から抜け出せるのか、ずっと考えてきた。毎日毎日、自分と向き合う努力をした。けれど、その『自分』はいつもどこかそっぽを向いている。
そんなことを、幾度となく繰り返し、余計に自分を追い詰めてしまった。だから、今日はここに来た。
今、海に入ったらどんなに冷たいことだろう。
私が帰って来なかったら、残された人達は何を考えるだろう。 そしたら、私はどこへ逝くのだろう。
一歩一歩、波打ち際へと進んだ。
寄せる冷たい波が、薄汚れたスニーカーを湿らせる。
前方の太陽は海の底へと沈むように、ゆっくりと、音も無く、誰に見守られることもなく、当たり前のように消えていく。
――ごめんなさい。
その時だった。
「太陽は、海に沈んでも戻ってくるだろう……?」
聞いたことのない、低くずっしりとした誰かの声。
「明日になれば、何事もなかったかのように、反対側から戻ってくる」
辺りを見回してもそれらしき人影はない。どこにも、ないのだ。
声は続ける。
「お前は、戻ってこられるか?」
「戻らない。私は何処へも」
これは、きっと幻聴だ。ただの幻だ。今の私は普通じゃない。そう思った。
「ここへ沈んだら、二度と元の姿に戻ることはない」
「構わないよ。もう」
「化け物になる気か。死して尚、さ迷うつもりか。……ならば、教えてやろう」
ごうっという音と共に、今まで吹いていた風とは違う突風が、私の体を押してゆく。
声を上げる暇もなかった。
私は海底へと引きずられ、ぐいぐいと暗闇の中へ押し込まれていった。二月の海はとても冷たく、私の全身に容赦なく突き刺さる。
口、鼻、耳……同時に冷たい海水がなだれ込む。体のどこへ入っているのかもわからない。言葉には言い表せないような苦しさと、恐怖がどっと襲いかかる。いくら両手で水を掻いても身体は浮かず、自分の口や鼻から吐き出された気泡だけが水面に向かって泳いでいく。何もかもが手遅れだった。
――ああ、あんなこと、言わなければ良かった。
こんなことならまた、戻りたい。まるで何事もなかったかのように。
もう、すべて手遅れだと思った。
「聞いた。確かに聞いたぞ」
頭の中で、ぼんやりと声が響いた。
それから目を覚ますと、私がいたのは次の日の朝だった。
何事もなかったかのように、私は自分の部屋に戻ってきていた。
カーテンを開けると、透き通る朝の光が部屋いっぱいに入り込んだ。
いつもより優しく、暖かい朝日だった。
「あなたが連れてきてくれたの?」
私は朝の空気を吸い込んだ。