大きな兎
僕はたまに、不安で不安で仕方がなくなるときがある。
それが、どこからやってくるのかは、いまのところわからない。
そういうときは大体、一生懸命考える。
自分が心配しているものは、一体なんだ? その心配を、取り除けそうなものは何だ? そもそもそれはどこからやってくるんだ?
頭の中で、同じところを何度も何度もぐるぐる回る。でも、答えは出ない。その答えが出そうになると、なぜか突然、ふっつりと頭の中で何かが途切れ、すべて振り出しに戻ってしまう。僕はそれが嫌で仕方がない。
なんだかとどきそうだけど、どうやってもとどかない。
そんなときに僕は……いや、そんなときだったからなのかもしれない。あのとき以来、あれの姿を一度も見ていないから。
雲一つない真っ青な空の下に、金色の重たい頭をずっしりと垂れた稲たちが、田んぼの中で刈り取られるのを待っていた。その田んぼを突き抜けるように続く、一本の舗装されていない砂利道を、僕はたったひとりで歩いていた。
どこへ行くわけでもなく、何をするわけでもなく、ただひたすら歩きにくい砂利の上を歩いていた。
この道が終わったとき、どこに着くのかはよく知っている。だけどなぜか怖い。
ひとりでこんな方まで来てしまったからなのか、それともいつもの得体の知れないあの不安なのか、考えてはみたけれど、結局いつものように答えは出ないまま、俯いた顔を上げた時にはもう、緑色の猫じゃらしとススキが一面に広がる野原の中にいた。さっきのように、どうしようもない気持ちになると、よくここに来てしまう。なんとなくだけれど、何か、大きくて、偉大なものに見守られているような気分になる。
そういえば、じいちゃんがここは何か神聖な場所だって言ってたような気がする。
草の中にごろんと寝転がると、何匹かバッタが跳んだ。そして相変わらず、空には何もなく、ただただ真っ青なだけで、なぜだかこの日に限ってそれがますます不安を掻き立てた。
「おい」
野原に寝そべって、かなり時間が経ったとき、ふと誰かに呼ばれた気がした。だが人の気配はない。
気のせいだ。
そう思った。だが、
「おい、小僧」
違った。また聞こえた。
僕は立ち上がってきょろきょろと辺りを見回した。やはり、人の姿はない。
「どこ? だれ?」
僕は呼びかけた。すると、返事はすぐ後ろから聞こえてきた。
すぐ後ろの、しかも足元から。
「ここだ、小僧。踏み潰すなよ?」
そこにいたのは、
「兎か?」
灰色の毛をした、ごく普通の野兎だった。
「……おまえ、喋れるのか?」
僕は尋ねた。
「なんだ。人の言葉を話す獣は気味が悪いか?」
兎は途切れ途切れにゆっくりと言った。その声はとても重々しく、ずっしりと頭の中に響き渡った。
「僕は別にそんなこと、思ってないよ。それよりどうして僕をよんだの? 何か用かい?」
「ここは俺の場所なんだ。なのに、何故お前がいる? こんなに長い時間、こんなところにたった一人で、なんの用だ?」
兎は自分の大きな耳をぴんと立て、少しむっとした顔で言った。物凄い数の髭が生えている。
「なぜって、僕がここに来たいと思ったからだよ」
「……それだけの理由か?」
「ほかにいらないよ。それだけで、十分な理由だ」
僕がそう言うと、兎は少しだけ安心したように両耳を後ろに傾けた。
「嘘は、ついてないようだな。ではここを……焼きに来たわけではないのか」
すると、今度は完全に両耳を背中の方に畳んでしまった。
「僕みたいな子供はそんなことしないよ」
僕はそう言って、兎のほわほわした首筋に手を伸ばしたが、兎はぷい、とそっぽを向いてそれを拒否した。無言だったのが、なんだか悲しかった。
「確かに、子供は、俺の住むところを荒らしたりはしないだろう。実際、お前は、きっと俺や仲間に手出しするような人間ではないのだろうな。だから、いつも俺は迷っている」
「何を?」
そう言うと、兎の目つきが少し変わった。
「ちょうど、こんな風に、お前みたいな子供と出会ったとき、殺してしまうか、見逃して生かしておくか、どうか」
そのとき、僕はあることに気がついた。影だ。兎の影の、何かがおかしい。
やけに大きかった。いくら影とはいえ、その大きさは異常だった。
僕は恐る恐る尋ねた。
「おまえは、何?」
「俺は、ただの、兎だ」
「……嘘だ」
「じゃあ、この野原と、この山を、守るという、勤めを持った兎だ」
「そのために僕を、その……ころすの? 殺してしまうの?」
「俺と、他の仲間の障害になるようならば、殺すかもしれないな」
兎は、どこか悲しげな目をした気がした。
「俺のような存在は、常に、常にそんな感じだ。常に、不安と、迷いがついてまわる。どこかの人間と同じように」
「それは――」
僕は兎の言葉に食いついた。もしかしたらこの兎は、僕の知りたいと思っていることを知っているんじゃないか? そんな気がした。
「それは、何なの? その、不安の正体は」
僕の中にだけ、張り詰めた空気が流れるのを感じた。
「もし、正体がわかるのなら、不安という言葉など存在しないだろう。正体がぼんやりしているから、そんなものが生まれる」
「それじゃあ、それはどこからやって来るの?」
はっきりした答えがもらえそうな気がしていたのに……そう思いながら、僕はまた、兎に尋ねた。
「見えないところから来る。誰にも見えない。ずっと先にある、自分が持つべき膨大な時間と一緒に押し寄せてくる。そんなときは、何も考えないようにするのが、一番いい。答えの出ないことをずっと考えていても、得るものは少ないだろう。前だけを向いておけ。そうすればナガレから外れてしまうこともない」
兎はそう言い終わると、ぐっと背中を伸ばして大きなあくびをした。その顔がなんだかとても間抜けで面白くて、僕はくすっと笑った。兎はそれを見ていたが、顔色ひとつ変えずに立ち上がった。
「お前は、もうここへは来ない方がいい。お前が普通の人間だとわかった以上、もう俺は、お前に用はない。それで、お前に口を出すのもここまでだ。厄介者と見なされたくなければ、自分の塒に今すぐ帰れ」
そう言うとススキの中へ姿を消してしまった。ちょうど、それと同時に――
「奏太ァ! そこにいるんかい? 奏太ァ!」
「じいちゃん」
じいちゃんが探しに来ていた。
「奏太ァ、もう飯だぞォ、はよ戻ってこい。そこには山の主さんがおるんじゃ、長居すっと、ばち当たるぞォ」
僕は元気良く返事をしてじいちゃんのところまで駆けていった。
帰り際、ちょと気になって、あの野原を振り返った。すると、そこには確かにあの兎がいた。多分、あの兎で間違いないはずだ。
ただ、さっきよりもずっとずっと大きく、二本の足で立ち上がり、影のようにゆらゆらと漂い、そして森の中へと消えていった。
じいちゃんが来たから、逃げたのか。
そう思った。
あれからというもの、僕はたまにあの野原に近づいてみるけれど、兎の姿も、大きな影のようなものも見ていない。
それでも、あの兎の言った言葉は、どうしても忘れられない。