蝉時雨
スランプ中であるということを、ここに言い訳させていただきます。
「今年は蝉が少ないなあ」
今日も祖父はタバコを咥えて窓際に立っていた。
外の気温は三六度。こんな日がもう何日も続いている。
「まあ、別にいいよ。どうせ、五月蝿いだけだし」
ソファーにだらっと腰掛け、溶けかけたアイスを食べながら私はぼそりと呟いた。
こんな日がもう何日も続いている。
「ところで凛、おまえ、いつ向こうに帰るんだ?」
窓の外をじっと見つめたまま、祖父は少し寂しそうに言った。
「東京は暑いし、うるさいし……できるだけ長くこっちにいるよ。宿題は全部持ってきたし」
私はチョコミントのアイスを食べながら、それに答える。
「そうかい、ゆっくりしていきな」
田舎の祖父の家に来てから、もう二週間が経つ。まあ、言い換えるなら、それは夏休みのうちの二週間を無駄に消費してしまった、ということでもあるわけで……
私はまだ、ろくに日本の「夏」を謳歌していない。ただこうやって、涼しい家の中で本を読んだり、テレビを見たり、今みたいにアイスをかじっているだけ。……宿題? 知らない。どうでもいい。なんとかなる。今までだってずっとなんとかなってきた。
本当は祖父に何処かへ連れて行って欲しいところだが、この前祖母が足を悪くしてしまったばかりだ。
流石に家に一人にしては出掛けられない。
父も母も仕事だし、右手に数えられるほどの数少ない友達は、旅行だのバイトだの部活だのでろくに遊びに行く約束もできやしない。
やっぱり、今年の夏はこんなふうにだらだら過ごすしかないのか。
それから二日後、気温が三八度を超えた日のことだった。
――海を見たい。
何故かふと、そう思った。
水になんて入らなくてもいい。ただ、あの吸い込まれるような、深い青色を見たいと。
日焼け止めも塗らずに、私はふらふらと漂うように家を出ると、カンカン照りの太陽の下を、一人ふわふわと歩いて行った。この時ばかりは、やけに蝉の鳴き声が五月蝿かったような気がする。うんざりするような死に際の大合唱が、今でもはっきり頭にこびり付いているから間違いない。
「もう少しだ。もう少しで……」
一歩一歩、歩みを進めるごとに海の波打つ音が大きくなってゆく。真っ青な水が、緑の海藻の生えた岩にぶつかって砕ける音がする。
そして海鳥の鳴き声と、子供たちのはしゃぐ声。
「あれ?」
しかし、海岸に着いてみると、そこには誰一人いなかった。ただ真っ青な海と、広い砂浜が、どこまでも広がっているだけだった。
私は浜に打ち上げられた大きな流木に腰を下ろし、辺りを見渡した。
「誰もいないの?」
「そんなことないよ」
突然、後ろから幼い声がした。
びっくりして振り返ってみると、そこには十歳くらいの少年が立っていた。
少年はまた言った。
「そんなこと、ない」
「どうして?」
私は思わず聞き返した。
「ホントは、みんな、ここにいる。おねえちゃんだけ、外れちゃったみたいだけど」
少年はそう言うと、私の隣にすっと腰を下ろした。
「でも、ぼくはこっちのほうが、なんかすき。こっちのほうが、ゴミも出ないし、きれいで静かだもんね。飼えなくなった動物を捨てに来る人もいない」
彼の言っていることは、よく理解できなかった。ただでさえ頭がぼうっとする。だけど、無性に耳を貸したくなる。
もっと、話を聞きたいと思う。
「ぼくは、もうずっとここにいるよ。もうきっと、ここにしかいられないんだと思う。ずっと」
「ここに?」
「うん。ホントはね、もっと、人がいたんだけど、みんな、しばらくしたら、帰っちゃう。おねえちゃんも、きっとそうなるんだね。ぼくも、そのほうが、いいと思う」
そう言うと少年は立ち上がり、波打ち際へ歩いていくと、すぐに何かを拾って帰ってきた。
それは、薄くて小さな、だけどとても綺麗なピンク色のサクラ貝だった。
私はおもむろに尋ねた。
「……ねえ、君は帰らないの? いつ帰るの?」
「ぼくは、きっとまだ帰んないよ。それに、ずっとこうしてたいんだ。ここでしか、生きられないし、こうしていることが、ぼくにとっての、シアワセだと思う」
少年は少し寂しそうに、だけど少し、しあわせそうに微笑んだ。
「でも、きっと、おねえちゃんはちがうとおもう」
「違う?」
すると、私の手の中に何かが渡された。
「サクラ貝、くれるの?」
少しでも掌に力をいれようものなら一瞬で砕けてしまいそうな桜貝。
「それじゃあ、きをつけて。もうそろそろ、もどったほうがよさそうだからさ」
「うん。そうだね」
なぜだか私もすんなりその言葉を受け入れて返事をした。
――そうだ。戻らなきゃ。
「あ、そうだ、ねえ!」
帰り際、私は少年に呼びかけた。
「今度は、人のいる浜で会おうね!」
なぜだかそんな言葉がぽん、と出た。もちろん、そんなことができないことはわかっていた。
「さあ、どうだろうね」
少年は少し照れくさそうに、首をかしげながら言った。しかしその顔は、どこか嬉しげだった。
と、その瞬間、目の前がかすれ、何も見えなくなった。
「……凛! 凛!」
気がついたときには、そこにはもうあの海岸も、少年の姿もなかった。
ただ、白い天井が広がっていた。端のほうに灰色の染みが見える。
病院?
「凛! まったく、心配したのよ。このまま死んじゃうんじゃないかって」
そこには祖父母の姿があった。
――なんだ、ただの夢だったのか。
どうやら自分はこの暑さで体調を崩したらしい。そう思った。
あとで、ズボンのポケットの中にあの桜貝を見つけるまでは。