双つの恋を歌う ――― 第一話
心地の良い朝。
暖かい陽射しが窓から射しこみ、春の日の訪れを感じさせてくれる。
まだ少し肌寒い気もするけど、これから暖かくなり、さらに暑くなっていくのだ。
今はまだ、この寒さを堪能するとしよう。
「――――て」
ふと、何か、耳に聴こえた。
穏やかで優しそうな声。
「た――――ちゃん、――きて」
誰かが、俺の名前を呼んでいる。
誰だろう。俺の名を呼ぶ、この柔らかい綿毛みたいな声の持ち主は。
しばし逡巡するも、まだ目覚めきっていない俺の脳では、その結論に至ることもなく。
「たく―――ん、起き―――」
体がゆさゆさと揺れる。
それがこれ以上のない刺激となって、俺を再びまどろみの世界へと運んで行く。
あぁ、そうさ。
今、俺はとてつもなく眠いのだ…。
「もう! 起きてよ、拓海ちゃん!」
声。俺を呼ぶ声。
誰だ? よく知っている声だ。だけど頭が働かない。
目を少し開ける。寝ぼけたままながらも、とりあえず俺を起こそうとする奴の姿だけは認識できた。
「……わかばぁ」
「あ、やっと起きてくれたよぅ」
「…………おやすみぃ」
「ね、寝ちゃだめぇーっ!」
◇
「おや、おはよう、拓海くん」
「おはよっす、おじさん」
階下に行くと、そこには家長の姿があった。
とりあえず挨拶する。なんたって居候の身だけに、失礼な態度は取れないわけで。
ちなみに居候とは、当然、俺のことだが。
「まだ眠そうだね」
「若葉が起こしてくれなきゃ、ずっと寝てましたね、今日は」
「はは、そうかい。コーヒーはいかがかな?」
「あ〜、お願いします。とびっきり濃いのを」
そうお願いして、洗面所へ向かう。
まずは顔を洗って目を覚まさなきゃならない。
それからトイレに行ってちょちょいと用を足し、リビングで濃い目のコーヒーを飲む。
それが俺の朝のサイクルだ。
……まぁ、言葉にした通り、若葉が起こしてくれるのが前提にあるわけだけど。
「ふぅ……目ェ覚めた」
冷たい水のおかげで意識も覚醒する。
濡れた顔をタオルで拭いて、次は頭の上で跳ねまくってる寝癖を直さないと。
「拓海ちゃん、朝ごはん用意できたよ」
リビングからの声が聞こえた。
さっとブラシをかけ、髪形を軽めに整える。
目ヤニなし、寝癖なし、よし完璧。
「腹減ったぁ」
リビングのテーブルに並べられた料理。
どれも湯気を立ち上らせ、その美味しさを際立たせようと、自己主張をしている。
俺がいつも座る席にはすでにコーヒーも用意されていて、恭しくそこに着席した。
「ん〜、良い匂い」
「とびっきり濃い目だよ。胃がひっくり返るくらいのね」
「どれどれ…」
コーヒーを一口啜る。
深い味わいを思わせる芳醇な薫り、口に広がる苦味の中にある旨み。
……文句なく、最上級に、美味い。
「相変わらず、美味いです」
「そうかい? それは良かった」
――――矢崎 秋人おじさん。
俺の両親が不在なことを不憫に思い、わざわざ俺を矢崎家に居候させてくれている人。
職業は、なんと驚くべきことに、お医者様。専門的なことは詳しくないけど、心臓関係の部署に属しているらしい。
そして二人の娘を持ち、その片割れは、さっき俺を起こしてくれた若葉なのである。
「お父さん、そろそろお仕事の時間じゃないの?」
「おっと、もうそんな時間か。それじゃ若葉、拓海くん、家のこと頼んだよ」
用意された朝食を口に放り込み、おじさんは荷物を持って家を出て行った。
おじさんの朝は早い。むしろ今日なんか遅いくらいで、いつもは俺が起きる前に出勤してしまうのだ。
俺も就職をしたらああなるのだろうか。考えるだけで生きる気力を失くしそうだ。
「拓海ちゃん、急がないと私たちも遅れちゃうよ」
「へいへい」
急かされるままに朝食を終わらせ、席を立つ。
階段を上がって部屋に戻り、ちゃちゃっと制服に着替えてから、再び階下へ降りた。
「遅い〜っ」
「お前が早いんだ」
「どっちでもいいから! 早く行かないと遅刻だよ!」
――――矢崎 若葉。
さっき紹介した、秋人さんの二人の娘のうちの姉という立場にいる、世話焼きっ子。
俺と同い年、同学年のくせに、何かと俺の保護者面をする。別にうざいなどと言うつもりはないけど、高校生にもなって“拓海ちゃん”はないだろうと、それだけは言いたいものだ。
「あ、ちょっと待って!」
「あん?」
「お母さんに挨拶してこなくちゃっ」
「ああ……」
矢崎家に住むのは、総勢四人。
父親の秋人おじさん、その娘二人、そして部外者で居候の俺。
一般的な家庭においているべきはずの人。母親なる人物。
その人は、俺がこの家に居候し始めた十年前、慢性的に患っていた病気のために、この世を去ってしまった。
「おはよう、お母さん。じゃ、行ってきます」
綺麗な人だった。
優しくて、温かくて、柔らかい笑顔が似合う、“母親”だった。
俺の思い出の中にいる若葉の母親は――――そう、絵に描いたような、理想の“お母さん”だ。
「……拓海ちゃん?」
だから、俺も、久しぶりに挨拶しようと思う。
遺影の前に座る若葉の横に腰を下ろし、線香を手にとって、火を灯す。
そして両手を合わせ、目を瞑る。届くはずのない言葉が、届くはずのない人に、届くように、祈る。
「……」
しばしの沈黙が流れる。
一分ほどの黙祷のあと、どちらともなく、目を開けて、お互いを見やった。
「行くか」
「そうだね、遅れちゃうよ」
「おう」
「……拓海ちゃん」
「ん?」
「ありがと」
そう言って立ち上がる若葉の顔は、なぜだか、とても嬉しそうだった。
ゆっくり更新していこうかと思います。
出来れば、長い目で見守っていてください。