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僕の奥さん

僕の奥さん2

作者: 夏路殻巣


「桃ちゃん、今日は検診の日だっけ?」

「そうよ。……だからナニ?」


 その日も千秋はせっせと洗濯物をベランダに干していた。

部屋の奥では、洗濯機がゴウンゴウンと唸りながら本日二回目の撹拌をしている。

ここの所続いていた雨がようやく上がり、今日は久し振りの晴天だった。


「いや、晴れて良かったねって。桃ちゃん雨の日に外出るの嫌いじゃない」

最近、少しサイズが大きくなった彼女の下着を丁寧に洗濯鋏に挟みながら、千秋は眩しい太陽の光に目を細めた。


 千秋の妻、桃子のお腹は今や水瓜の様に膨れ、妊娠八ヶ月を迎えていた。

安定期に入り、つわりも落ち着いて精神的にも安定する時期らしいのだが、それはどうやら桃子だけは例外の様だった。

洗濯物を干す千秋の背中に、今もびりびりと刺すような視線が……。


「何でこんな暑い日に検診なんか行かなきゃいけないのよっ」

大きなお腹に、重くて自由に動けない身体。それに加えて、真夏を迎えるこの季節が、彼女の苛立ちを更に増幅している様だった。

桃子は苛々とそう言うと、扇風機の風を真正面に受けながら、眉間にしわを寄せて手に持ったアイスを口に頬張った。

「……そんなこと言わないで行かなきゃ。赤ちゃんに何かあったら困るでしょ」

空になった洗濯かごを抱えながら部屋の中に入ると、千秋はかごを洗濯機の横に起き、テーブルの上に用意しておいた離乳食に小さなスプーンを差し入れた。

「……ふんっ後は産むだけなんだからもういいでしょ。検診たってけっこう高いのよ?何回も行けないっつうの」

「……まぁ、そうだけど……」


「パパぁ。ごあんちょーらい」

「まんま、ちょーらい」

「はいはい。たろちゃんもじろちゃんも良く食べてエライねぇ」


愛らしい食欲旺盛な双児に離乳食を食べさせながら、千秋はちらりと桃子を見た。


(安定期に入ってから桃ちゃんずっとここから動かないなぁ)


桃子の周りには、検診で外に出る度に買い込んで来る大量の菓子袋が空の状態で放置され、スナック菓子特有の匂いが部屋中に充満していた。

昨日は深夜にフライドチキンを買って来いと言われ、仕方なくコンビニのチキンを購入したのだ。

とにかく最近の桃子の食欲は、千秋の想像を遥かに超えていた。


(確かあんまり太ると産道に脂肪が付いて難産になるって言ってたよな……)


「天気もいいし、近いんだから運動がてらがんばって行って来たら?何なら僕も一緒に……」

そう言った瞬間、千秋は自分の言葉が失言だった事を思い知った。

「はぁっ?」

壁にもたれ掛かっていた上半身が前傾姿勢になり、その苛立った視線は千秋を睨み付けていた。

「運動したけりゃ一人ですればっそんなに行きたきゃ千秋が検診受けてくればいいでしょっ」


その瞬間、投げ付けられた菓子袋からカールが数個飛び散るのを、千秋は愕然としたショックの中見つめていた。

(……このままじゃ桃ちゃんが難産に……)



 「で?また帰って来たのかよ」


銜えタバコを吹かしながら、春樹は呆れた様子で、再び帰って来た千秋を見下ろした。

「……だって」

ソファーに座りながら千秋は小さくそう呟くと、溜め息を付いて曲げた人さし指を軽く噛んだ。

いつもと違って何だか元気がない。

千秋が指を噛むのは、幼い頃からの悩んでいる時の癖だった。

「……また何かあったのか?」

(あの女……千秋がこんな元気無くす程、一体何しやがったんだ)

胸の内で沸々と込み上げる怒りを押さえながら、春樹は優しくそう言うと、灰皿にタバコを押し付け、そっと千秋の横に腰を下ろした。

 間近に、こんな至近距離で千秋を見るのはいつ以来だろうか。

千秋は月に何度も帰っては来るが、兄弟と言うものはある一定の距離を持って接するものだと、自分に戒め、春樹は極力、あまり馴れ馴れしい接触は避けて来たつもりだった。

(……ちっ近すぎた……っ)

ソファーの不安定なクッションに、何度もたがいの腿と腿がが触れあう。

話し掛けた事で、千秋の瞳が間近に春樹を見つめていた。

色素の薄い大きな瞳に、艶やかな黒髪。まだ少年のような華奢な骨格は、同じDNAを受け継いだとは思えない程キレイに整っている。

(ああ何度見ても羨ましいぜ)

もし自分が千秋だったら、と何度夢に見た事か。

だが体育会系で、身体を鍛える事が趣味の春樹には、おそらく無用の長物の様にも思える。

筋肉隆々の美男子なんて何だか似合わない。

やはりこの顔は千秋だからしっくりくるのだろう。

だがその外見のせいで、千秋には男友達でも、良からぬ邪気を放った変態ばかりがよく集まった。

その度に春樹が影で一匹ずつ追い払っていたのだが、まさか変態女に掴まってしまうとは。


「……桃ちゃんが最近だいぶ太っちゃって……」

「……ほう」


(どんな深刻な悩みなのかと思えば……それがどうした?)

俯きながら、軽く曲げた右手の指を何度も噛む様子から、大分深い悩みのような気もしたが、奥さんが太った所でこちらには何の影響もない。

どちらかと言えば、醜くなった変態女を捨てさせる好機の様にも思えた。


「それが帰って来た理由か?太るくらい人間やってれば誰だってあるだろ」

またまた訳がわからなかった。それの何が深刻なのか。

すると春樹のそっけない言い方が気に触ったのか、千秋は突然、双児を抱いたまま隣の春樹の肩を掴んで詰め寄った。

「なっなんだよっ……おい太郎と次郎が……っ」

千秋が突然動きだした事で、胸に抱かれていた双児がどこに掴まる事も出来ないまま、ソファーの下にずり落ちそうになっていた。

慌てて腕を伸ばし、双児を抱えて再び千秋を見ると、千秋の瞳からは涙が溢れていた。

「桃ちゃんのお腹には八ヶ月の赤ちゃんがいるんだよ?このまま太って難産にでもなって……っ」

「……難産?」

「……難産で僕と双児を遺して死んじゃったりしたら……っ」


(……そりゃラッキーだろ)


心の中でそう思いながらも、春樹はあの変態女の為に涙を流す千秋が不憫でならなかった。

あんな女の為に泣くなんて勿体無さ過ぎる。


「そんな簡単に死なねぇよ。そんな事言ったら人類のデブはみんな出産で死んでるだろ」

腕の中で、何が起きたのかわからないままキョトンとしている双児の頭を撫でながら、春樹はそっけなくそう言った。

その言葉に納得したのか千秋は落ち着きを取り戻すと、そっと春樹から双児を預かり、再び胸の中に抱いた。


「……で?どうせあの女はまた何かに感化されてんじゃねぇの?」

落ち着きを取り戻す為に一呼吸置いた春樹は、改めて静かに聞いた。

「ああ……そうなのかな。妊婦なのと暑いので苛々してるだけだと思ってたけど……」

相変わらずのおっとりぶりでこっちが恥ずかしくなる。

妊婦だからって苛々を無抵抗な千秋に当てつけて良い訳がない。それをあの女の身体の事を考えて悩むなんて、千秋には怒りと言う感情がないのだろうか。

「あの女の事だ多分そうなんだろ。グルメ本とか大食い大会ビデオとか見たんじゃねぇの?

……また自己中に千秋を巻き込みやがって。何か最近読んでたりはまってるものなかったか?」

「あ……うん」

そう言ってしばらく考え込んでいた千秋は、突然何か閃いた様に声を上げた。

「ああ、そう言えば僕が仕事に行っている間に見たアニメにすごくはまってたよ。えっと……『トリコ』……とか」

「『トリコ』?なんじゃそりゃ。どんな内容なんだ?」

「最近の少年誌に載ってるマンガだよ。確か『美食家』とか『グルメ』……とか」

「ああ……それだ。それに感化されてるんだろ。多分。」

「ああそうかも!そう言えばやたら大きい骨付き肉をかぶりつきたがる様になったし、『いただきます』の時に、妙に気合いを入れて言ったりするんだ」

「……間違いねぇな。『美食家』とか言うくらいだから、やれ外食に連れて行けだの、キャビア食いたいとかほざいてんじゃねぇのか?」

「そうそう!それに僕が肉とか塩分の強いものばっかり食べると身体に悪いよって言うと、『釘パンチ!!』とか言って叩くんだ」

(なにぃ!!)

「それに両手の指先に力を入れて『ナイフ!』『フォーク!!』とか叫んで、お尻刺して来たり

もするんだよっ?……これって夫婦でもセクハラだよねぇっ?」

(なぁにぃいいい!!)



「……もうお前あの女の所へ帰るのやめてずっとここに居ろよ」

(……疲れた)


 気付けば小さな双児は千秋の腕の中で静かな寝息を立て、リヴィングの窓から入る日射しは、少し日を落とし薄暗くなっていた。

二人の様子を微笑ましく見ていた両親が、それに気付いて部屋の明かりを付けた。

「……やだよ」

感化された正体を知った千秋は、頭を抱えて項垂れていた。

「でもあの家に居ても、動かない奥さんはどんどんデブになるし、千秋の生活感は人生に疲れた主婦並みに濃くなる一方だぞ」

「……僕は桃ちゃんが元気に赤ちゃんを産んでくれれば、デブになったからって桃ちゃんを嫌いになったりしないよ……っ」

必死に庇っている所を見ると、実際にどれくらい太ったのかわからないが、おそらく相当な変化だったのだろうと想像出来た。

千秋自身もこれからの更なる変化を想像して迷っているのだ。

『外見を気にせず本当に愛せるのか』を。


「さぁ……それはどうかな」


夕闇と共に、春樹は自分の中に悪魔が降り立つのを感じた。


「……なぁここにいろよ。せめてあの女が子供産むまでさ……」

春樹はそう囁きながら、千秋の黒髪を優しく撫で、そっと自分の胸に抱き寄せた。

「え……っ」

「なぁ、あの女はお前を振り回すだけで、本当に千秋を愛してくれているのか?」

その言葉に、千秋の頭がぐっと下を向くのを春樹は見逃さなかった。……思った通りだ。

「……隆一君は優しかったじゃないか。お前を気分次第で愛したり捨てたりしない。隆一君だって今もお前が戻ってくれる事を願ってるはずだ」

「……隆一が?」

春樹の胸元から見上げた千秋の瞳が、豊かな感情に溢れ、きらきらと艶めいていた。

毎回、実家に帰って来た時は、雨を欲しがる砂漠のような顔をしているのに。

一体何を納得して夫婦生活を続けているのだろうか。

繋がれ、監禁でもされていない限り、自分だったら結婚したその日に逃げ出すだろう。


「……そうだ。隆一は千秋を欲しがっているんだ」

「欲しい……?」


気付けばいつの間にか両親の姿がなかった。

(気を利かせたのか?)

生活に疲れた千秋が、思わぬ受入先に心をときめかせている。

今なら、取り戻せるかも知れない。


そう心の中で小さくガッツポーズをしたその時だった。

玄関脇にある電話が、グットなムードをザックザックに切り裂いた。

突然の音に跳ね上がった千秋の身体は、春樹の胸元から外れ、中々電話に出ようとしない春樹に、千秋は仕方なく立ち上がって受話器を取った。


「……はい遠山です」

「千秋っ?何やってんのよご飯作りに帰って来なさいよっ!!」

その怒声はリヴィングにいた春樹の耳にも届いた。

「あ、ごめんっ今帰るから……っ」

びくびくと、声が怯えているのがわかる。春樹の怒りは頂点に達した。

「……ちょっと貸せ」

「あ……っ」

千秋から強引に受話器を奪うと、春樹は苛立ちを押さえた低い声で話した。

「あのさぁ、いい加減にしろよ変態女。……俺の千秋を雑に使うんじゃねぇよ。結婚したからっていい気になるなよ」

それは隣で聞いていた千秋も青冷めるような迫力だった。

「あら?その声は千秋のお兄さんの春樹君?」

だが意外にも桃子の様子は普段とあまり変わらなかった。

「……だから何だよ?飯ぐらいてめぇで作りゃいいだろ。いちいち呼び出すんじゃねぇよ」


戦いの火蓋が切って落とされた。

はらはらと落ち着かない様子の千秋を完全無視して、春樹は受話器の向こうの変態女と直接対決に挑もうとしていた。

「はぁ?結婚しようって言ったのは千秋の方だし?夫婦は助け合って生きて行くもんでしょ。妊娠中の妻が旦那に料理を頼んでどこが悪いのよ?」

開き直った女はとても強い。

桃子の正当に聞こえる理由に、言葉が出て来ない。

その少しの間に、桃子は鋭いジャブ(心理戦)を打って来た。

「あんたこそ『俺の千秋』ですって?ブラコンも二十歳過ぎれば気持ち悪いだけよ変態兄さん」


(変態兄さん?)


そのショックは相当のものだった。思わず動きが止まった春樹に、今度は右ストレート(心理戦)が炸裂した。

「……財布の中に千秋の写真入ってるでしょ?言っちゃおうかなぁ』

(……何ぃ?)

「何でそれを……っ」

思わず声をひそめた春樹の耳に、悪魔の女が囁いた。

「双児のお披露目にそっちに行った時よ。春樹君、子煩悩だからずっとだっこしててくれたじゃない。その隙にちょっとね」

(な……っなんて恐ろしい女……!)


ただの変態女だと思っていた女が、デーモン小暮だった事に春樹は言葉を失った。

「他にも知っているわよ。ベットの下に千秋のパンツが隠してある事とか、高校の時の水泳の授業を隠し撮ってためた写真で、毎晩オナニーしている事も」

「!!」

「ふふふ。何で知っているか知りたい?」


不敵に笑う桃子に反抗する力は、春樹にはもう残っていなかった。

燃え尽きたジョーのように、今にも灰になりそうだった。

「……何で……」

「今ね、便利なものがたくさん売っているのよ。超小型の高性能カメラ。どこに仕掛けたかは教えないけど、……春樹君あなた丸見えよ」


(……怖!!この女は絶対に敵に回しちゃいけないタイプだ!!)


本能がけたたましく警鐘を鳴らしている。

『カカワルナ!』『カカワルナ!』『カカワルナ!』

春樹は黙ったまま静かに電話を切った。


「……兄さん?」

ぶるぶると、春樹の受話器を持つ手が震えているのを心配した千秋が、そっと声を掛けた。

春樹は精一杯の外面で必死にかっこいい兄を演じた。

「……千秋、やっぱり妊婦を不安にしちゃいけないよ。今夜は帰った方がいい」

「あ、桃子が寂しいって言ってたの?」

「ん?……あ、ああ」

「そっか……うん。僕やっぱり帰るよ。ありがとう兄さん」

「ああ……」


嬉しそうに部屋を出て行った千秋を、真っ白な灰になった春樹は無の境地で眺めていた。

そして千秋が玄関を出て、少ししてから車が車庫を出て行く音が聞こえた。

(ああ……お前の奥さん怖すぎるよ千秋……)

ソファーから立ち上がる事もできずに、いつまでもぼうっと座ったままの春樹に、いつの間にか奥から現れた七十過ぎの父親がそっと声を掛けた。


「こわくなぁい。こわくなぁい」


(……怖いわ!!)


弱点を握られた春樹はいつの日か桃子への逆襲を誓うのだった。


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