第三十九話:おはよう
ぼんやりと浮かんでいる。
ぼんやりと浮かんでいる。
ぼんやりとただ浮かんでいる。
ぼんやりとただただ浮かんでいる。
ここはどこだろう。
ここにはなにもない。全く物体らしいものは見当たらないし、どこからもなにも聞こえない。そもそも空気があるのかどうかだって怪しいものだ。ふと考えてみれば上と下も定かでない。頭のあるほうはわかる。頭のあるほうが上なら簡単な話だが、頭のあるほうへ落ちていっているという心地もするからややこしくなる。落ちているならそっちは下だ。だが本当に僕が落ちていっているのかもよくわからない。
そういえば視界の中に色がない。黒でもなければ白でもない。明暗もどうやらないようだ。暗いと思えば瞬いているようでもあり、光と思えば影が広がる。映像を捉えようとしても像はどこまでもおぼつかなく、ふわふわと頭の先から霧散していってしまう。要するに目を閉じたときと同じだ。閉じた目で何かを見ようとしても、暗いようで明るいようで、像はいつまで経ってもあやふやなままで結ばれることがない。
視界といって思いついたが、もしかしたら五官が働いていないのかもしれない。なにも見えないしなにも聞こえない。なにも匂わないしなにも感じない。味がしないのは、何かを食べているわけではないので当たり前なのだが。
もしかしたら死んでしまったのかもしれないな、と思わなくもない。一体誰が死んだんだろう。それはともかく、なるほど、死ねば何も見えるわけもないし何も聞こえるわけもない。感覚などとどのつまりは五官がするものなので、身体が死ねばそれらを感じることでできるはずもない。そう考えれば、幽霊が何かを見たり聞いたりするはずはないのだ。死後の世界とはこういうところだったのかな。
しかし死んだとすれば、今考えている、これは一体なんだろう。この、考えている、言葉で考えている、これは一体なんだろう。物を考えるのは脳だ。脳は生きているのだろうか。しかも眠っているのではない。眠っていては考えることはできない。夢を見ることはできても思考することはできない。それともこれは夢なのか? 夢でないという根拠はない。夢なのかもしれない。それとも、実はやっぱり死んでいて、死後の世界でただ考えているのかもしれない。魂というものが本当に存在するのなら、魂だけになっても思考くらいはできるのかもしれない。どれだけ考えても思考だけでは証明しようのない話だ。
そういえば、なんだか温かい。すごく満たされるような心地よさだ。死後の世界か。天国とやらにいるのかもしれないな。天国なんて、行きたいと思ったことはなかったんだが、なるほど、悪くないものだな。
…………ん?
……温かい?
五官が死んだのに温かいってのはおかしいぞ。
しかし……、そう、熱いってわけじゃない。多分満たされた気持ちを温かいって表現しただけなんだろう。よく晴れた春の日差しの中にいると、気温が高くなくても温かいと感じてしまう。それと同じ現象だろう。
「なにを馬鹿なこと言ってるんだろうね。温かいのは、単に君の頭が私の膝枕に乗っているから温く感じているだけなんだけどね。天国になんて君は行っていないよ」
ああなんだそうなんですか。
……っておい。
おかしいな、声が聞こえたぞ。周りを見渡してもなんの姿かたちも見えない。空耳だろうか。耳がないのに空耳ってのも変な話だが。
「ほらほら、ボケはいいからいい加減早く起きなよ。早く起きないと取り返しのつかないことになってしまうよ」
えと、どちらさまですか?
「あーあ残念。私のこと忘れちゃうなんて。いくら大変なことがあったからって、そりゃないんじゃないかな、ちょっと」
あ、もしかして天使とかいうやつだ。
「あのね、今は漫才している場合じゃないんだよ。君はそんなところで寝ていては駄目だ。君が起きてくれないと困るんだよ」
起きる……?
起きるというのはおかしい。それは今まで起きていたことのある人がするものだ。死人が起きるとは言わない。
「それならなにも問題ないよ。現に君は生きているんだから」
それは違う……。それは違うんです。僕もさっき自分は生きているのだと思っていました。でも違っていました。僕は生きてなどいなかった。僕はこの世に存在してはいなかったのです。
「情けない。ああ、情けないな。これが私の直感を凌駕した人間の言葉だなんて、本当に残念だよ」
……何の話?
「私はね……いや私の話なんてどうでもいいのだけど、とにかく君は生きていた。生きていなかったなんていわせない。私が言わせないし、私だけじゃない、君が出会ったたくさんの人々が、そんな世迷言を言わせやしないよ」
僕が出会った人?
「そうだよ。思い出してごらん。君が今までに一緒に過ごした人たちを。彼らは確かに君を認め、君と共に生きていた。そうした人たちがいる限り、君の存在はなかったことにはなりはしないよ」
いいえ、いいえ、違うのです。僕は誰とも出会ってなどいません。思い返して浮かぶのは、たくさんの顔のない大人たちばかりです。彼らは誰も僕と親しく口を聞こうとはしませんでした。誰も僕の名前を呼んではくれませんでした。そして僕も彼らの名前を一度たりとも呼ぶ事はありませんでした。ゆえに彼らの面影は常におぼろで、あやふやな像でしか記憶を結ぶことができません。それなのに僕は彼らと出会っていたといえるのでしょうか。
「情けないな。本当に情けない。君の中にいる人々は、本当にそんな人たちだけ? 君の事を見ようともせず、ただ上辺だけを通り過ぎていった実態のない大人たちだけ? 思い出して。もっと注意深く。君を愛し、君が愛した人々が、その人たちの名前が、君の内側には必ず刻み付けられているはずだよ」
そんなことを言われても、どれだけ記憶を探っても思い出されるのは過酷な訓練の日々ばかり。大人たちは無表情にその日の訓練内容を告げ、なにも知らない僕はただ淡々と大人たちの命令をこなした。一度もできなかったことなどない。そのように造られていたのだから、一度もできなかったことはない。
「違う」
え?
「思い出すべきはそんなところじゃない」
でも、他にどんな場所というのですか。
「わかっているはずだよ。目を背けるな。君自身の記憶の中を、はっきりとその眼で覗き込むんだ」
空虚だ。そんな場所には何もない。
「怖がるな。今くじければ二度と戻って来れなくなる」
頭が痛い。くらくらする
僕が記憶している名前――?
「そう。君は覚えている。君の中にそれは必ずある。思い出して、君が生きていた証を」
証……僕の中にある生きていた証。
怖い。怖い。どこかで機関銃をぶっ放す音が響いている。おもちゃの兵隊の大行列だ。魔女の不気味な笑い声がする。体をあっちこっち暴走して飛び回っているように感じる。天空と地底の間をキャッチボールされているみたいだ。
ふと、あるふたりの影像が浮かぶ。あのふたりは一体誰だろう。僕の記憶の中に浮かんだ後姿。あれは――すごく懐かしく、安心する、ふたり。
悪魔が物陰から冷ややかな視線を投げ込んできている。地面に開いた穴から手首が伸びておいでおいでと手招きする。太陽に目と口が生えていてのんきな笑みを浮かべている。
どいつもこいつもやかましい。俺は今考え事をしているんだ。
ふたりがぴたりと立ち止まってこちらを振り向く。見覚えのある顔だ。
あれは、あのふたりは――京一に穂乃歌だ。
神田京一と住吉穂乃歌。俺にとってかけがえのない大切な友人。
そうだ……、俺は、誰とも出会っていないわけじゃなかった。讃神学園にやってきて、初めて大切な友達を作ることができた。穂乃歌と京一を忘れるなんて俺はどうかしている。
穂乃歌と京一だけじゃない。讃神学園で俺はたくさんの人々とであった。水樹に利春に夏海に猛。俺はあいつらと友達になることができた。高木刃子や立花克司だって、敵として張り合った仲だ。あいつらの名前を俺は覚えている。あいつらは俺を俺として認めてくれていた。
それこそが俺が生きていたという証だ。
「そう、君は生きていた。この島で、君は誰からも君自身として認識されていた。君は生きていたんだよ。そのことを絶対に忘れちゃいけない。もう君は君自身の名前を見つけることができるね。君はこれから自らの存在を認識しながら生きていく。それは一つの誕生。君は今このときから新たな人生を歩んでいくんだ」
俺の名前。俺の大切な人たちが認識し、俺がこれから名乗ることになる名前。
「さあ教えて。君の名前は?」
俺の名前は――
「俺は吾川蒼輔だ」
俺は目を開ける。暗闇に慣れた目がまばゆい光を受けて思わず瞬く。目は次第に光に順応し眩しさを感じなくなっていき、視界が開けた。
目の前には朱姫がいる。
「おはよう、蒼輔」
「ああ、おはよう、朱姫」
「よく、戻って来れたね。うん、素晴らしいね」
「ああ。勘弁してほしいな」
朱姫はなにが嬉しいのか、にこにこと笑っている。俺は床に仰向けに寝転がり、それを朱姫が心配そうに覗き込んでいる格好だ。
というか、床に寝ているのか、俺は。コンクリートの床が頭に当たって痛い。なんだかとても気持ちのいい夢を見ていたような気がするんだけど、気のせいだったんだろうか。
「君が呼びかけてくれたんだな。絶望の淵にいた俺を、朱姫が助けてくれた」
「私はなにもしていないよ。戻ってこれたのは蒼輔が自らを掬い上げたから。感謝をするなら蒼輔が出会ったたくさんの友達に感謝をするんだね」
「そうか……ああ、そうだな」
「さ、お目覚めの挨拶はここまで。今はそんなことよりしなくちゃならないことがある」
「なんだ?」
急に疑問が湧き上がって来る。目の前に朱姫がいる。朱姫は一体どうしてここにいるんだろう? そうじゃない。それも疑問だが、大した問題じゃない。問題は、俺がどうして生きているのかということだ。なんだか嫌な予感が腹の底から立ち昇ってきた。そう、俺が今ここで生きているのはおかしい。さっきまで俺は死ぬ寸前まで追い詰められていた。自分を見失ったのは一因だが、あくまでもそれは副因に過ぎない。あの状況で桜谷が俺を見逃す理由はなかった。
俺は辺りを見回す。
穂乃歌と桜谷はどこへ行った?