第三十八話:名のない少年
桜谷は自らの言葉の効果を確かめるように一度口を閉じ、なめまわすようにじっと俺の顔を眺めてくる。音はないはずなのに鼓膜の奥底で重低音が響き続けている。
少し気持ち悪くなってきた。めまいがして吐き気がする。ここ数日の無理が今になって祟っているのかもしれない。体は頑健なはずなんだが。
ふと穂乃歌を見る。穂乃歌は片時も俺の額から銃口を放さない。瞳孔には生気がなく焦点が定まっていない。それなのにずっと幸せそうな笑みを浮かべている。
「穂乃歌、お前大丈夫か?」
「なにがっ?」
「いや、なんとなく」
「蒼輔も、もういい加減降伏しなよっ。あたしだってほんとはこんなことしたくないんだよっ。蒼輔が桜谷先生にごめんなさいすればそれで済む話なんだからっ」
穂乃歌はちゃんと話がわかっているんだろうか。今さら謝ってどうこうという話ではない。ここまできたら桜谷はなにがあっても俺を殺すつもりだろうし、俺も彼女に降伏する気はさらさらない。
でも少しだけ嬉しいな。ほんとはこんなことしたくない、か。真意はどうあれ、俺と穂乃歌が過ごした時間は全くのでたらめではなかった。俺が感じた友情は、毛筋ほどでも穂乃歌も感じてくれていたんだ。
「裏切られても穂乃歌のことが心配か。貴方はとことんまで甘い人間だな」
「あんたになにがわかる」
「少なくとも貴方以上に、貴方のことはわかっているつもりだけど」
桜谷はゆっくりと俺のほうへと歩を進める。桜谷の声音は低く重く響く。声が口から飛び出してきて、俺の体にまとわり着いてくるみたいだ。ただの空気の振動のはずなのに、耳から俺の体内にまで入り込み、俺の身体の自由を奪う。
「気分が悪い?」
「俺を催眠にかけるつもりか」
「私はただ話しているだけだ」
「信じると思うか?」
「よろしい。信じる信じないは貴方の自由だ」
疑ってかかる人間を催眠にかけることはできない。心構えをしろ。俺は桜谷に気を許したりしない。
「貴方の名前は?」
俺の名前?
「名前だと? 知っているだろう。吾川蒼輔だ」
「それが今回の任務に際して与えられたコードネームであることはわかっている。貴方の本名を言ってもらいたい」
「名を知ることが催眠の手法か?」
「言っただろう。催眠にかけるつもりなどない」
「吾川……、……蒼輔だ」
「よろしい。スパイとして、それは正しい答えだ。だから答えなくてもいい。想起しなさい。貴方の名を。全ての過去の記憶を掘り起こして、今までに一度でも貴方が名を呼ばれることがあったのかを」
胸につかえているものがある。呼吸が荒くなっている。酸素を上手く取り込めない。桜谷はなにを仕掛けてきている?
俺の名前?
「名前だと?! それがなんだっていうんだ!」
目の前が暗くてよく見えない。何故俺は怒鳴っているんだ? 冷静にならなくてはいけない。正常な思考はスパイの命綱だ。
「名は境界。名づけることで人はそのものと他のものを区別する。全ての認識の前には名前がある。逆に言えば、名づけられることで初めてそれはそれとして存在することができる。考えなさい。貴方の名を。貴方を貴方たらしめているその名前を」
「お前にそんなことを、言う謂れはない!」
そう、きっとこれは桜谷が何かを仕掛けているから動揺しているんだ。耳の底を揺さぶる低い声音。皮膚の上を這うように見つめる視線。そういった、狼狽を誘う方法を駆使して桜谷は俺を揺さぶりにかかっているんだ。
「名づけられていないものは存在していない。例えそこに在ったとしても我々はそれを認識することができない。なぜなら我々は言葉で事物を認識するからだ。名のないものは世界とつながることはできない。世界の中に居場所を見出すことができない。自らを認識することができないからだ」
桜谷の声が二重になって聞こえる。遠くから聞こえてくるようにも思え、かと思えば耳元で響いているようにも感じる。幻聴を聞いているみたいだ。その声を聞いていると俺は意識が体から抜け出ていくような気分になってしまう。
俺の名前――? そんなもの……それがどうしたっていうんだ。
「そこには机がある。そこには椅子がある。そこにいるのは住吉穂乃歌だ。ここにいる私は桜谷文月だ。誰にでも名前はある。誰でも自らを自らの名前で以って認識する。私は私を私の名前で認識し、私は貴方を貴方の名前で認識しよう。教えてほしい。貴方は誰?」
誰にでも名前はある。ダレニデモナマエハアル。その通りだ。名のない人間など存在しない。ナノナイニンゲンハソンザイシナイ。その通りだ。ソノトオリダ。
俺は俺の名で以って自らを認識しなくてはならない。
俺の名は――オレノナマエハナンダ?
わからない。きこえない。呼吸が上手くできない。酸素が足りないんだ。
「目を背けてはいけない。貴方は考えなくてはいけない。貴方は探さなくてはいけない。貴方が何者であるのかを」
やめてくれ。やめてくれ。聞こえない。なにも見えない。目のまえは真っくらだ。上手くものごとを考えることができない。おかしい。こんなことはあってはならない。集中しろしゅうちゅうしろ。どうようするんじゃない。かんがえるなかんがえるな。なにもきくななにもみるな。こきゅうがうまくできない。さんそをくれ。
おれのなまえ――オレノナマエハナンダ?
「す、スパイは何者でもない存在だ」
「よろしい。奇しくもそれは正しい答えだ」
うなずかれて拍子抜けする。おかしい。間違えた。やってしまった。てっかいさせてくれ。じかんをもどしてやりなおしたい。
「貴方は何者でもない」
みみをふさいでしまおう。そうすればなにもきかなくてすむ。
なのにおかしい。てのあいだをすりぬけてさくらだにのこえはきこえてくる。
「貴方は最初から誰にも名づけられていない存在だ」
きこえない。
キコエナイ。
「『A.G.P.』が戦時研究のひとつだったことは既に述べたね。戦後解体された研究を三人の研究者が引き継いだ。一人は忽那大。彼は他のふたりと袂を分かち忽那学園を作った。他のふたりの名は津和是昌と睦月錠一。津和博士と睦月錠一は既に存在していた別の組織の招聘を受けた。それが『全国探偵同好協会』――通称『協会』と呼ばれる組織だった。『協会』は『A.G.P.』をスパイ育成に利用しようとし、実際にそれは利用されている。育成どころか睦月博士はスパイを『製造』しようとさえした。文字通りアーティフィシャル――人造の人間というわけだ。博士は人間の遺伝子を研究し、最適な組み合わせを想像した。ある二つの優秀な遺伝子を選別し、しかるべき処置をした後試験管の中で組み合わせ、人間を創造した。それが貴方。名のない貴方。貴方には父母はおらず、研究のために造られた貴方には名前さえ与えられなかった。生まれた子供は実際優れた身体能力と頭脳を持っていた。『アカデミー』で行われた各種テストで貴方は格別の成績を残したはず。大して努力をせずとも」
……そうだ、確かに俺には父母の記憶がない。いつも大人たちは俺に訓練を命じ、俺がそれをこなすとそっけなく去っていくだけだった。親しい人間はいない。そのことに疑問を感じたことはなかった。生まれてからずっとそれが当たり前だったからだ。名前を呼ばれた記憶もない。大人たちはあれをやれこれをやれと命令するだけで、一度たりとも俺を名前で呼んだことはなかった。桜谷の言うことは当を得ている。
桜谷の言うとおり、俺はアカデミーで誰よりも優秀な成績を収めていた。大人たちの動きは一目見ただけで寸分の狂いなく模倣することができた。教科書に書いてあることは一読するだけで全て理解することができた。どうしてみんなこんな簡単なことができないのだろうと、疑問に思ったことがある。
なんの……なんの疑問に思うことはない。それはそのように造られたからそうなっただけのことだったんだ……。
俺は選ばれた人間なんじゃないかと思ったことさえあった。そうだな……俺は特別な人間だった。俺は特別な――いいや、人間じゃない、そんなものが人間であってたまるものか。
俺はだれでもない。俺は……おれは……にんげんですらなかった。
「貴方に名前があるとすれば、それは『プロト01』という呼称になるかもしれない。貴方は最初の製造成功作にして試作体。『協会』は貴方の性能を検分したうえで、本格的な人間の量産に入るつもりだろう。それこそが睦月博士の『A.G.P.』。私たちとは別の道を行く『A.G.P.』といっていい。『アカデミー』という施設はスパイ候補生のための施設というより『A.G.P.』によって生まれた人間の育成のための施設なのだろう。ある意味私たちよりも非人道的な行いをしている集団だな。非難するつもりはないが」
なぜだろう。まっくらだったしかいがいまはまっしろだ。まっしろでなにもないせかいにいまおれはいる。
「おれは……ぼくは……なにものなんだ……? ……ぼくは……ボク?」
「名のない人間は何者でもない。誰にも認識されていないし、今ここに存在しているとすらいえない。理解できる? 貴方は今生きてさえいないんだよ」
いきてない…………イキテナイ……? ナンダ、ソレハ……。
ワカラナイ…………ワカラナイ…………ワカラ、ナイ。
ボクハダレダ? ボク? オレ? ソレハイッタイダレダ。ソレハイッタイナンデスカ。ワカラナイ。ワカラナイ。
ナニモナイ。ココニハナニモナイ。ドコニモ、ナニモ、ナイ。
マッシロダ……ココハスゴクマッシロダ…………。
マッシロ…………。
アア………………。
彼がうずくまったまま動かなくなったのを確かめると桜谷はため息を一つついた。それから安堵とも失望ともつかない表情を浮かべ、腕組みをしたまま、長い時間彼を睨み据えながら思索を続けた。
「あっけない。精神が脆弱すぎる。こんなものが睦月博士の成功作だというのか? 何故博士は彼に感情を持たせたのか。持たせたのか持たせてしまったのか。これが単なる失敗なら最初から破棄すればよかっただけのこと。テストがしたかっただけ? ……よろしい。感情が邪魔なら、情操を司る機能を切除すればよかっただけのこと。もしくはマインドコントロールにかけるか。せめてしかるべきバックグラウンドくらいは捏造してやっていれば……しかしそれでは人格の独立性が強くなりすぎてしまう。やはり完全な支配下に置くためには感情は邪魔なだけの存在なのではないか? ……よろしい。いずれにせよ、ゼロからここまで人間を作り上げたのは驚嘆に値する。しかし未だ私の脅威になるものではない、ということか。今回は少し過剰に反応しすぎたようだ。よろしい」
桜谷は満足げにうなずくと傍らで彼に銃口を向け続けていた穂乃歌に視線を移した。両腕を固定し続けていたせいか穂乃歌の指先は少し震えている。桜谷はいつも穂乃歌と話すときはそうしていたように、陽だまりのような微笑を穂乃歌に向けた。
「もうこれは必要ない。殺しなさい」
「はいっ」
桜谷の命令に穂乃歌は疑問を感じる様子もなくうなずき、狙いを定めるとゆっくりと引き金を引いた。
にこやかな表情はしかし泣いているようにも見えた。