第三十六話:怜悧な科学者とその人形
まだ陽光になりきれていない朝の淡い光が島内を照らしている。今日は雲ひとつない快晴らしい。澄んだ水色は宇宙の果てまで突き抜けていくような気がする。早起きの小鳥のさえずりがその空の中を過ぎ去っていく。春の早朝は少し寒い。
蒼輔は遠くの木陰から職員部の様子を伺っていた。
緑学校の保健室からここに来るまでにすれ違った人間はふたり。どちらもジャージ姿でジョギングしていた。運動部が日課の朝のトレーニングをしているといった感じで、『A.G.P.』の追っ手とは思えない。蒼輔は脇の樹林に隠れてやり過ごした。どこにも早起きな学生はいるものだ。そういえば今日は授業はあるのだろうか。この騒ぎでは授業どころではないかもしれない。
職員部の周りには人の気配は感じられない。意外だ。俺をおびき寄せるからには何人か人数を伏せているだろうと思っていたが。それとも俺が察知できていない別の罠がどこかに仕掛けられているんだろうか。
とにかく警戒しながら構内に入る。今のところ不審な様子はない。
中に入った瞬間蒼輔はハッとして身構えた。職員部の中を走る道の真ん中に人影がある。石手博通だ。彼は誰かを待ち受けているように腕組みをして立っている。
誰かとは考えるまでもない。俺のことだろう。
物陰から姿を現すと石手はすぐ声をかけてくる。
「吾川。遅かったじゃないか。待ちくたびれたぜ?」
「人質とは卑怯なことをするじゃないか。穂乃歌はどこだ。すぐに解放してもらう」
「待てよ。人質の件については俺は関与していないぜ。よくあの状況から逃げ出せたな。大したもんだよ」
「まず穂乃歌の安全を確認させてもらう。そうでなければお前たちの要求に従うわけには行かない」
「この件には関与していないと言っただろう。だから住吉穂乃歌の安否については俺は知らないし、お前への要求も俺は知らない。そもそも俺はお前の敵じゃないからな」
「『協会』を裏切っておいてよくそんな口が聞けたもんだ」
「はっは、俺は協会を裏切ってなぞいないぜ。よく言うだろ、敵を騙すにはまず味方からってな。そういうことにしといたほうがやつらに取り入りやすいと思ったまでのことだ」
「誰がお前の言うことなんか信じるもんか」
「はっは、スパイの悲しいところだね。敵はおろか味方にすら信用しちゃもらえない。別にお前に信用してもらう必要はないがね。だがお前のおかげで俺も仕事がやりやすかったよ。礼を言う」
「どういう意味だ?」
「そもそもお前の本当の任務は『A.G.P.』の撹乱にあったのさ。俺の任務が『A.G.P.』の調査にあったのは本当だ。だがやつらだって馬鹿じゃない。俺を信用しているかどうかはともかく、重要機密を簡単に新参者に任せてくれやしない。そこで、お前だ。俺とは別のエージェントが島に潜入したという情報を流すことで彼らの視線をお前に逸らせ、その隙に俺は調査する。情報を流したのは俺だがね」
「俺はまんまと利用されたってわけだ」
「それがスパイさ。利用されるだけ利用されて、いざとなったらボロ雑巾のように簡単に捨てられちまう。ふざけた商売だよ。吾川、久万を殺したのはお前か?」
「あの状況でどうやって殺せるっていうんだよ」
「だよな。銃弾から考えてもおそらく内部の犯行だ。仲間割れか? 別に犯人を詮索するつもりはないが。まさか本当にあそこから生還しちまうとは思わなかったぜ。悪運の強さはピカ一だな」
「久万のことは通報しちゃいないんだろうな」
「当たり前だ。『A.G.P.』のことは外部に漏らすわけには行かないからな。おそらく久万は『失踪』することになるだろう。が、だからこそ今の彼らにはお前と山輪朱姫が厄介なのさ。お前たちを生かしておいては研究が瓦解する恐れがある。既に彼らは暴走気味だがね。吾川、お前が行くべき場所はわかっているんだろうな」
「見当はついている」
「それなら結構。『A.G.P.』の成果の核心は、実は全て彼女の頭の中にあるのさ。俺が得たレポートは枝葉に過ぎない。吾川、彼女は手ごわいぜ。せいぜいあがいてくれよ。お前があがいた分だけ、俺にとってはチャンスになるんだからな」
同行はしないという石手に別れを告げて教員棟の中に入る。以前来た場所なので構造は把握している。建物の中に人影はない。やはり途中の道には誰も待ち伏せていないようだ。エレベータに乗って上階を目指す。静謐のコンクリート作りの建物の中にいると時間が止まったように感じる。まるで空気がその場所へと俺をいざなっているかのようだ。五階の廊下にも静寂だけがあった。不必要なくらい落ち着いている。ただ淡々とルーティンワークをこなすかのように道のりを進んでいく。そこに必ず穂乃歌はいるはずだ。不思議とそう確信している。絶対に助け出してやる。死なせてしまうなんてへまはしない。頭と体は万全に動いている。
ドアの前に来た。ノック。それからドアを開ける。
「吾川蒼輔か。よろしい。よく来た」
桜谷文月はいつものように泰然自若とした態度で蒼輔を出迎えた。
室内は前に来たときと変わりなく、四囲に並べられた本棚が威圧感を放っている。桜谷は前と同じように机の椅子に座り、背もたれにもたれて腕を組んでいる。桜谷の机の上にあったワープロは脇によけられ、入り口からでも彼女の姿をよく認めることが出来る。
「ここへは迷わずに来れた?」
「廃校舎で一度俺の前に姿を現しただろう。意識ははっきりしていなかったが、多分あんただろうと思った」
「よろしい」
室内に他の人間はいないようだ。道中もそうだったが、俺を殺そうとしているにしてはまるで無防備だ。余裕の表れだろうか。今俺がいきなり桜谷を攻撃しようとしたらどうするつもりだろう。
「ま、掛けて。一度話がしたいと思って呼んだんだ」
「穂乃歌はどこだ。早く解放しろ」
「穂乃歌のことが心配? 貴方は彼女のためにここに来たの?」
「当たり前だ」
「そう。どうしてそう思うの?」
どうして、だと? どうしてもくそもない。友達を助けたいと思うのは当然のことだ。
「そうだろうか。人が人に対して情愛を持つことは確かに当然だ。だが貴方は違う。貴方はスパイとして作られ育てられてきたはずだ。親愛の情などは不要なものに他ならない。不思議ね。それとも後天的に身に着けたものなのか? 貴方は『アカデミー』においてどのような生活を?」
やはり『アカデミー』のことまでご存知らしい。だが『アカデミー』のことに一体何の意味があるんだ?
「特段のことはなにもしていない。肉体鍛錬に語学習得、人を騙すための話法やスリの仕方、重火器の扱い方に格闘技術の習得。あとは数学とか科学とか、普通の教科の時間もある。子供だからな」
「よろしい。交友関係は? 共に学ぶ級友がいたわけではないね」
「一体これは何の尋問だ? まるで面接だな。穂乃歌は一体どこにいるんだ」
「いいから答えなさい。貴方の生活には同年代の友人はおろか、親しくする人間はいなかった。そうだね」
「そうだ。ずっと宿舎と教室との往復だったからな。教官とは基本的に一対一で、無駄な私語をする時間なんてない。友達と言えるものが初めてできたのは讃神学園に来てからだ。それがどうした」
「わからない。不思議で仕方がない。後天的にそれが芽生える環境にあったとも思えない。まして先天的には……。どうして貴方に人を想う気持ちなんかがあるのだろう。人と繋がりたいと思うのは人類の本能、だがそれは劣弱な人間にのみ必要な劣悪な思想だ。なのにどうして……」
「意味のわからない問答はいい加減にしてもらおう。穂乃歌がいないのならあんたには用はない。だが彼女が今どこにいるのかは吐いてもらうぞ」
「感情が高ぶっているね。怒りは生命の原動力となるけど、冷静な判断力を奪う。今、発露させるべき感情ではない。感情のコントロールすらできないの? こんなものが完成体だと……? ……やはり津和博士の失敗作と断ずる他ない、ということか……」
何をつべこべ言っている。自分がどういう状況にあるのかわかっていないのか?
手荒な真似は、まして女性にはしたくないが、そんなこと言っている場合ではない。
一歩間を詰める。桜谷が諦めたように息を吐く。
「そんなに穂乃歌に会いたいのか。よろしい。では、入りなさい」
桜谷が誰かに指示を出すように机の上に向かって言う。どうやらどこかに集音マイクが仕掛けられており、室内の声が外にいる誰かに伝わっているらしい。
やはり俺を呼ぶに当たって、何の備えもしてなかったということはないらしい。だがもう遅い。位置関係的に、何が入ってこようが桜谷を拘束して盾にすることができる。桜谷を人質に、穂乃歌との交換を迫ることもできるかもしれない。
桜谷の指示を受けたものがドアを開け、室内に入ってくる。
――見慣れたショートカットになぜかジャージ姿。まだ純真さを残していることを思わせる大きな瞳の少女。
「穂乃歌!」
姿を見せたのは住吉穂乃歌だった。そこにいるのは彼女一人で、穂乃歌は自らの意志で室内に歩を進めた。
「穂乃歌。よかった。無事か」
「うんっ。蒼輔も、助かったんだねっ。よかった。でもっ、こんなところまでっ、来ちゃったんだね。来なければよかったのにっ」
「なんだよそれ。なに言ってんだよ」
穂乃歌がゆっくりと両手を掲げ、蒼輔の額を差したところで止まる。
その両手には拳銃――『A.G.P.』の連中が持っていた改造銃――が握られていた。
ちょうどそれは穂乃歌が蒼輔にホールドアップを仕掛けているような形となった。
「なにやってんだよ穂乃歌。なんだよそれ」
困惑する蒼輔をよそに、穂乃歌は確認の視線を桜谷に送る。
「これでいいんですよねっ、桜谷先生」
「よろしい。上出来だ、穂乃歌」