第三十三話:副会長の高慢
またドアを慎重に開けていた朱姫が俺を手招きする。わずかに開けられた隙間から覗き込む。
廊下の突き当たりに壁にはめ込まれたドアらしいものが見える。すぐ横に操作スイッチ。
エレベータか。あれに乗れば脱出できるんだろう。
問題はそのすぐ前に見張りがいることだ。朱姫の言うとおり、俺たちのことはもうばれているんだろう。逃走者を見逃さないように目を光らせている。
「あれに乗ってきたのか?」
「そうだと思う」
「ご丁寧に、銃を持ってやがるな」
一人らしい。朱姫の言うとおり、銃を持ってきたのは正解だった。ここから一発でしとめることは難しくないだろう。
「待った。殺さないほうがいい」
「行動不能にするにはそれしかない」
「君は人を殺したことがある?」
「あるわけないだろ」
「信じる。だったらこれからも殺さないほうがいい。人殺しなんて嫌だよ」
もちろん俺だって人殺しなんてしたくない。だがスパイをやっていく上で人を殺さなくてはならなくなることもあるだろう。今やるか、後でやるかの違いでしかない。
「他に方法があるか?」
「私がやる。援護は任せたよ」
なにをするのか、と思うまもなく朱姫は飛び出していった。
足音に気づいた監視者が一瞬驚き、すぐ銃口を朱姫に向ける。
舌打ちするよりも早く蒼輔は照準を合わせる。
殺すなだと? ――狙いは足だ。
朱姫はまっすぐ相手に向かっていく。
怖いって感情を知らないのか、あいつは。
時折走る朱姫が相手に重なって照準が合わせにくい。
合わせてみせる。訓練はこんなときのためにしてきたんだ。
引き金を引く。銃声。やつが足を跳ね上げて転倒する。
倒れた瞬間走り着いた朱姫がやつを押さえにかかる。
いいタイミングだ。
蒼輔も駆け出す。血が吹き出るが知ったことじゃない。
朱姫は上から彼を押さえ込んでいるが、彼は体をジタバタさせて抵抗している。
少女の膂力と男の腕力では差がありすぎる。彼は次第に朱姫の圧力から逃れつつある。
どうにか間に合った。朱姫の横から手を出して彼の頚動脈を絞める。すぐにぐったりと体を横たわらせた。
「無茶するなよ。勘弁してほしいな」
「すばらしいね、蒼輔は。でも来る必要なかったのに」
朱姫は心配そうに蒼輔の腹に触れる。朱姫の手のひらが血に染まっていく。
「すぐに手当てしないとね」
「心臓が止まるよりはマシだ」
辺りに他の見張りはいないようだ。操作盤のスイッチを押す。金属音がしてエレベータのドアが開く。乗り込んでスイッチを押すとベルトが音を立てながら箱が上り始めた。
上りながら、朱姫は口に手を当てて何か考え込んでいるようだ。
「……蒼輔。さっき私が、殺すなと言ったことは忘れていい」
「どうしたんだ、急に」
「少なすぎる、と思わない?」
「何がだ」
「もし私たちの逃走を阻みたいなら、エレベータの前にはもっと人員を詰めているべきなはず。たった一人というのは考えられない」
「……罠か」
「可能性はある」
罠とすれば、上で誰かが待ち受けているのか。
「多勢に無勢だな」
「逃げられればいいけどね。その傷じゃ無理でしょう」
朱姫は俺の傷を見ながら言う。開いた傷から血がどんどん流れているみたいだ。
「痛くない」
「でもめまいはあるよね。それに疲労も。早く充分な治療をしてゆっくり休まないと死んでしまうよ」
朱姫に隠し事はできない、と思っていたほうがいいらしい。確かに時折ふらっとする。血が足りない。いつ倒れてもおかしくない状態だ。
銃撃戦になった場合、五人くらいなら倒す自信がある。俺が逃げ切れるかどうかはともかく、朱姫だけは逃がさなければならない。
「羊にでもなるつもり?」
「どちらかが逃げ切れれば活路が開ける。一人犠牲になって片方が生き残れるならそのほうがいい。生き延びる可能性が高いのは朱姫のほうだ。違うか?」
「……あーあ、自分の無力を思い知るよ。上手くやろうと思っても、いつも結局完璧にはできないんだ」
「俺が合図をしたら走り出せ。後ろは振り返るな」
「蒼輔、一つだけ、無理なお願い聞いてくれる?」
「なんだ?」
「全部終わったらデートしよう」
ピン、と音がして浮遊感がなくなる。上階に着いた合図だ。
ドアが開く。
高木刃子の姿がそこにあった。
「ふん、手間をかけさせてくれるものですね」
辺りは電灯がついていないため暗い。窓から入ってくる月明かりだけが世界に色をつけている。高木の声は闇の中から聞こえてくるように錯覚する。
暗闇の中に無数の殺気がある。おそらく銃口が向けられている。俺たちを逃がさないように幾人かが囲んでいるようだ。
いきなり撃たれてはたまらない。俺と朱姫は無抵抗を示すために両手を挙げながら前に出る。
ここはどこだ? 倉庫のようにも見えるが。
「廃校舎だよ」
朱姫が小声で囁く。
思い出した。以前学内を散策していたときに見つけた廃校舎だ。
俺たちがいるエレベータホールは半地下になっていて、高木のいる場所とは階段を隔てて低くなっている。
「ここを登ってドアを開ければすぐ外に出られると思う」
広い場所じゃない。四、五人なら何とかなるかもしれない。ふところに隠してある拳銃は瞬時に取り出すことができる。
「そのまま戻っていただけますか? あなたたちに外出許可は与えていないはずですが」
「自らの意志でここへ来たわけじゃない」
「あなたたちは私に従わなければならないのですよ」
高窓から降り注ぐ月明かりが高木の姿を照らしている。高木はゆっくりと階段を下りてくる。装備もなく無防備な状態だが、下手に動いたら俺たちは蜂の巣にされるだろう。
「支配者が被支配者に命令するのは当然のことでしょう」
「私たちはあなたの奴隷ではないですよ、刃子さん」
「山輪朱姫、まさかあなたが私に牙を向いてくるとは思いませんでしたよ」
「会長も私の協力者ですが」
「ふん、どうしてあの方は弱者に優しいのでしょうね。私たちの理念を理解できないはずがないのに」
「いえ、あなたは間違っています」
高木は口をゆがませて笑う。
「面白い冗談を言いますね。一体どこが間違っているというのです?」
「あなたは人間のすばらしさを理解していない」
「人間はすばらしいですとも。私のように高潔で優れた思考力を持った人間は実に至高の生命ともいえる存在でしょうとも。それともあなたは生きとし生ける者みなすばらしいと童子のたわ言を申すつもりですか?」
「人間はみな醜悪で劣悪で必死で懸命なすばらしい存在です」
朱姫は高木を見据えながら言い切る。
「刃子さんには見えませんか? 様子のおかしい友人を想う人間の慈愛が。道を外してしまった友人を救おうとする人間の矜持が。いなくなった友人を心配する人間の純真が。その子のために絶え間ない努力を続ける人間の献身が。それが見えないあなたに他人の人生を左右する資格はありません」
「強者が弱者を使って何が悪いというのです。われわれの研究は人類に次なる成長を遂げさせるための栄誉な行いなのですよ。本来彼らはその高貴なる研究にたずさわることのできなかった。被験体という形でかかわることができたことに感謝すらすべきなのです。さらに言えば、われわれの研究が成った暁には、この世の弱者を全て強者へと生まれ変わらせることすら可能になるのです」
「栄誉な行いとやらのために平穏な暮らしをしていた人間を誘拐してもいいって言うのか」
「ふん、吾川蒼輔。見澤灯のことですか? 彼女はわれわれの仲間になりうる能力を持った人間でした。残念ながら、われわれの理念に共感してはくれませんでしたが」
「どんな崇高な理念も人一人傷つけていい理由にはならない」
「何故です? 人間には優秀劣等の区別があります。人間に他者を服従させられる能力が備わっているという事実こそが他者を虐げてもよいという理由になりえます」
高木刃子には血も情けもないのか。こいつも久万や石手と同じだ。高木の堅固な選別思想の前には、俺や朱姫の声は虚しくこだまするだけだ。
「一つ聞きたいんだが、お前はどうやって見澤灯を六寮から連れ出したんだ?」
「連れ出したというのは人聞きが悪いですね。見澤灯は自らの足で寮から出てきたのですよ。ふん、失踪のミステリーですか? 別に私は不可思議な状況を作り出したかったわけではなく、たまたまできたものですよ。あの日、見澤灯には話がしたいと時刻を告げてあったのです。夜半、彼女は時刻どおりに寮から出てきました」
「夜中はエントランスが開かないはずだけど」
「深夜でも外から開けることはできます。そうでなければ学生が締め出されてしまいますからね。われわれの仲間にも六寮に住んでいる学生がいます。その者と一緒に迎えに行きました」
「出てきたところを誘拐した」
「最初は誘拐するつもりはありませんでした。既に『A.G.P.』の説明は終えていて、そのときは諾否をもらう予定でした。エントランスから出てきた見澤灯は悲壮な顔をしていました。開口一番、あなたたちには賛同できない。自分が聞いたことは全部警察に話すといいました。予想していなかった事態ではありません。そのために会見を深夜にしたのですからね。彼女の返事を聞いた後、われわれは彼女を力ずくで押さえにかかりました。そしてこの地下の研究所へ閉じ込めたのです」
「怒りで言葉もないよ」
「六寮生に協力者がいたのですから、いみじくもあなたが前に仕掛けた誘導尋問は真を穿っていたとも言えます。もちろんいくら当たっていようが証拠がなければ虚言者の遠吠えに過ぎませんが」
「高木刃子、お前は確固たる証拠を持って来いといったな。俺が証拠だ。俺がここで見聞きした全てがお前たちを弾劾するための証拠になる」
「ふん、詭弁ながら一定の理を認めましょう。しかし問題ありません。あなたたちはここで死ぬのですから」