第三十話:『A.G.P.』
気がつくと俺は宙に浮いている。もがいても地面からほんの数センチのところで足は空を蹴る。
寒い。
とにかく寒い。傷めた箇所は燃えてるんじゃないかと思うくらい熱いのに、感じることは寒いということばかりだ。
俺は死ぬんだろうか。
恐怖を感じることが最もよくないと大人たちは言っていた。恐怖があるから人は身を強張らせ、反応に柔軟性が失われる。それは身体ばかりでない。心も同じことだ。自らの心に執着を失くせば、自然と恐怖は失われる。
死んじゃってもいいやと思えってことだ。
ただしこれは気持ちだけことで、実際に生を諦めてもならないらしい。生還の好機を捉える気持ちを失うからだ。
生を捨てながら生に執着する。
簡単に言ってくれる。
実際に死の恐怖に直面している俺には、空々しい戯言にしか聞こえない。
克司にノックアウトされた後、目覚めたときにはまた身動きが取れなかった。今度は天上から吊り下げられた手錠に両手を拘束されている。強制的に万歳させられて宙に浮いている状態だ。無防備な腹が不安を増大させる。不安定な軸のせいで体全体が強張る。足がつきそうでつかない地面が精神力を消耗させる。ぶら下がった鎖は鉄製で容易に壊れそうでない。さすがに生還の気力がそがれる。
勘弁してほしいな。
「ほうほう、起きたかね」
俺の目の前に久万が立ちふさがっている。さっきと同じ部屋なのか別の部屋に移されたのか、部屋に特徴がないためよくわからない。とにかく冷え冷えとした印象だけを受けるのは、俺の今の状況を反映しているんだろうか。
「ああ、まず茶をいっぱい」
久万の顔が醜くゆがむ。
瞬間、俺はボディブローをもらっていた。鎖がきしめいて振り子のように体が揺れる。強張った腹筋のおかげで腹はさほど痛くない。
「はっは。久万先生は手荒ですなあ」
腕の鎖をきしませながら揺れている俺を誰かが抱きとめた。そいつは殴られた箇所をいたわるように腹をなでる。
「石手博通」
「よう吾川。元気そうで何よりだ」
「あんたも久万の仲間なのか」
「久万一派みたいにいわれるのは心外だがな。『A.G.P.』において、俺はあくまで久万先生とは対等だ」
「『A.G.P.』とは何だ」
「教えてほしいか。うん、それもいいな」
「石手どの。邪魔をせんでもらいたいが」
「いいじゃないですか。俺も同じスパイとして、最後に吾川と話がしたい」
「同じスパイだと?」
「そうだ。俺もお前と同じで、『協会』に所属する調査員だ。調査員『だった』と言い換えてもいいかもしれないな。なにせ今では彼らの仲間なんだから」
久万を振り返った石手が同意を求めるように笑いかける。久万も同意を与えるようにうなずき返す。
「どういうことだ」
「『協会』は讃神学園で『A.G.P.』と呼ばれる謎の研究が進められていることを極秘に察知したのさ。そこで詳細を調べるため一人の調査員――俺のことだが――に潜入調査を命じた。技術者を装って彼らに近づいた俺はまんまと彼らの仲間に迎え入れられた。もっとも『協会』の誤算は、俺が彼らの理念に心酔しちまったということだった」
得意気に話す石手の横に久万が近づいた。
「それ以上は核心を話すことになりませんかな」
「いいじゃないですか。どうせこの後殺すんでしょう?」
殺す、か。心臓がきりきりと痛い。やっぱり俺には執着があるらしい。
「冥途の土産をもらった主人公は生還するのが決まりだぜ」
「よく減らず口が叩けるもんだ。この状況から逃れられるってんなら、むしろ俺は見てみたいね」
「ほうほう、まあいいでしょう」
仕方ないといった様子で久万は椅子に座り、黙り込む。
石手は続ける。
「まず『A.G.P.』について話そう。『A.G.P.』とはアーティフィシャル・ジーニアス・プラン、『人造天才計画』のことだ。優秀な人間を人工的に造り出しちまおうって計画だ」
「……なんだそりゃ」
「歴史を動かすような優れた人間は自然発生的にしか生まれない。不合理なことだと思わないか。もしも人工的に天才的な人間を量産することができるなら、これは人類史上画期的なことだ。人間の技術、いや技術だけではない。科学技術も思想哲学も何もかもが飛躍的に進歩するだろう。人類の歴史を新しいステージへと進めることができるんだよ。だからわれわれは考え始めた。そして研究し続けている。如何にすればより優れた人間を作り出すことができるかの研究、それが『A.G.P.』だ」
「馬鹿げている」
「そう思うか? だが人間なんて所詮遺伝子の集まりに過ぎない。遺伝子の足し算引き算によって優劣が決まるのなら、人工的に遺伝子を組みかえることによって優れた人間を生み出すこともまた可能なはずだ。どうだ吾川、われわれの理念を否定できるか?」
「優れた人間、なんて定義できない」
「そうかな。歴史を見ろ。人間は常に強者が弱者を征服し、服従させることで発展してきた。定義できないとお前は言う。だが勝者は常に存在する。そして人類史は勝者と敗者を作り弱者を淘汰することで文化文明を発展させてきたんだ」
そんな演説吹っかけられたって、俺はそんなこと考えたこともない。
「多様性というかもしれない。弱者あっての発展と、そんな議論も可能だろう。だが果たしてそれは本当か? 弱者もまた必要な存在なら、何故彼らは虐げられる。日陰に追いやられ迫害される。――はっは」
石手の顔が醜く笑う。
「人間はしょせん弱肉強食なんだよ。だからわれわれの考えには意義がある」
「人間から痛みを失くすことが有意義な研究か?」
「それも要素の一つだ。痛みなどというものがあるから恐怖が生まれ、身体に強張りが生じ能力を十全に発揮できなくなるんだからな。だがあんなものはただの試行に過ぎない。そもそも恐怖がなければ判断力に瑕疵が生じると俺は思うのだがね」
「兵器としてなら優秀だ」
久万が横から口を出した。石手がうなずく。
「ま、そういうことだ。身体機能のみ――ただ動くだけの人間兵器としてなら痛みを失くした人間もそれなりに役に立つとはいえるだろう」
こいつらは一体何を言っているんだ? 兵器としてなら優秀だと? まるで人を人間扱いしていないかのようだ。
「あいつらに何をした」
「脳が痛みを感じなくしただけだ。お前が先に戦ったほうは強力な麻薬を打つことで脳の働きを極度に低下させている。後に戦ったほうは頭にメスを入れた。脳を一部切除することで機能を停止させたんだな」
脳を切り取っただと?
「よく成功させたもんだ。久万先生、あなたのメス捌きは外科医顔負けだ」
「そんなことが許されるはずがない!」
「ほうほう。何故、許されないんだね」
久万は立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。手に持っているのはバタフライナイフだ。
「君は髪を切るね。爪を切るね。不要なものは身体から切り離していく。同じことだ。優等な人間に痛みが必要ないのだとすれば切り離すことは許される」
切っ先が腕に触れ、ツと静かに振り下ろされていく。かすかな痺れの後に痛みが生じる。それから脇に流れるものがあるのを感じる。
「痛みは人間に必要な要素だ」
「はっは、そうかも知れんな。少なくともこの間まで自分にあったもんだ。違和感は半端ないだろう。皮膚に刺激がないことで精神に混乱をきたすかもしれない。だが安心しろよ。精神操作も俺たちのお手の物だ」
こいつらは何を言っても動揺を見せない。
「必要なら精神を安定させる薬を処方してやることもできる。それでも駄目なら、今度は恐怖を感じる部位を切除してやればいい。そうなりゃ彼は一生安らかな状態で生きることができるぜ。……ま、そいつが『人間』なのかどうかは俺は知らんがね」
「お前たちのしていることは生命への冒涜だ」
「なんとでも言えよ。俺たちは既に倫理を超越したところにいるんだ」
俺の言葉はこいつらには届かない。機械というならこいつらがそうだ。俺は人間と話している気にならない。
「見澤を誘拐したのもお前らか」
「そうだ。しかし見澤君は被験者ではなかった。彼女は私たちの理念に賛同してはくれなかった」
久万はナイフを収め席に戻っていく。
「何故拉致した?」
「普通の生活に戻るには、彼女は知りすぎたのだよ。私たちは彼女に計画の全貌を話した。しかし彼女はうなずいてくれなかった。あまつさえ計画のことを世間に公表するとまで言い出した。それは困る。監禁するしかなかった」
「彼女に何を飲ませた」
「記憶を失うような薬だよ。見澤君を元の場所に戻させるためには、薬を飲ませるしかなかった。残念ながらわれわれの今の技術ではピンポイントに忘れさせたいことだけを忘れさせることはできない。しかも脳に障害が残ってしまう恐れがある。私たちとしてもその薬の投与はできるだけ避けたかったのだけどね」
頭に血が上っていくのを感じる。血が腕から吹き出る。だが拘束された手足はもがくばかりで動かない。
「何故、何故そんなことを!」
「それはお前のせいだよ、吾川」