第二十八話:監房
突然浴びせかけられた冷水に反応して、蒼輔の肉体は目を覚ました。
意識が機能を回復するよりも先に、痛いという感覚だけがあった。身体の中をサイが歩き回るような鈍い痛み。
再度浴びせられた冷水に、反射の機能が起こり蒼輔の体が跳ね上がる。急な肉体の反応に痛みがサイからネズミに変わる。
それでも蒼輔が悲鳴を上げなかったのは、意志の強さではなく身体に刻み込まれた慣れのおかげだった。肉体に記憶された訓練の傷跡は蒼輔の意識に冷静さを強要する。
そのため蒼輔は考えるよりも先に深呼吸を一つだけした。酸素が脳内に染み渡っていく……。
肺はまだやられていないようだ。呼吸が苦しくない。
コンクリートの味がする。
身動きが取れないらしい。後ろ手に手錠をはめられ、足にも手錠。手錠は鉄製で容易に壊すことはできそうにない。枷と枷との間隔は狭く、自由に動かせるというには程遠い。当然バランスが取れるわけもなく、俺は今地面にうずくまっているようだ。
濡れた顔を拭うこともできない。
目の前にあるのは青黒いコンクリート。照明が弱いのか辺りはやけに薄暗い。寝返りを打って見上げた天上も壁も硬質の鉄を思わせる青黒いタイルだ。
頭の芯を乱打されているような頭痛はずっとある。多分浴びせられたスタンガンの後遺症だ。他に痛む場所や動かない場所はないようだ。もちろん自由に動けないこの状態で全身の感覚が正常に動作しているという自信はない。
意識ははっきりしている、はずだ。めまいや吐き気もない。精神を混乱させるような薬を飲まされた形跡はないな。
そう、俺はあの時青色学校で電流を浴びせられ気絶させられた。気配は感じなかったが、あの場に誰か潜んでいたんだろうか。
穂乃歌は今どこにいるんだろう。無事なんだろうか。
現在の自分の状況は、スタンガンで気絶させられたあと枷をはめられ、どこかの建物に監禁されているというところか。もちろん採点するなら最悪の点数だ。勘弁してほしいな。
楽な姿勢で快眠するか、せめて自由に起き上がりたいところだが、手錠が邪魔でそうもいかないな。
「ほうほう、起きたかね、吾川蒼輔君」
頭上から声が落ちてきたが、その方向を向くことができない。不自由な体を無理に捻って起こそうとするのを、別の誰かが抑えてきた。
「構わん。まともに動くこともできないだろう」
俺の体を抑えていたやつが、指示を受けて今度は乱暴に俺の体を引き起こす。俺はさっきの声の主を真正面に捉えることになった。
「久万先生、か」
「ほうほう、意識ははっきりしているようだな」
「状況がよくつかめないんだが、まずは茶でもいっぱいもらえるか」
「気丈だな。さすがは『協会』から派遣されてきたエージェントだということか」
協会と言ったか。参ったな。もう俺の素性はばれているみたいだ。
しかし久万は一体どうして俺のことを拉致したんだろう。
「何をいっているのかわからない。なにかの間違いだと思うんだけど」
とにかく俺はシラを切り続けるしかない。
久万がうなずいた、と思うといきなり俺の右頬に痛みが走った。俺の後ろに控えていたやつが殴ってきたらしい。
「言葉には気をつけたほうがいい。もう君の素性は全部わかっているんだ」
一体どこからばれたんだ。俺のことを知っている人間は、讃神学園には俺と清美お姉さんしかいない。清美お姉さんはあれでも元プロの調査員だ。簡単に情報を漏らすようなへまをするはずはない。もちろん俺もどこかでミスをしたような覚えはない。それとも――。
「素性も何も、俺はただの高校生ですよ。わけがわからないな。早く解放してもらいたいんだけど」
今は何も考えていてはいけない。拷問を耐え切るためには、自分自身で設定を信じきらなくてはならない。俺は讃神学園にやってきた素朴な高校生だ。スパイや『協会』などに全く関係のない。
ぐっ。また一撃、今度はボディブローだ。胃が圧縮され、そこにたまっていたものが食道を駆け上がりそうになる。喉に力を入れて必死で押し戻すが、嫌な味が喉の奥のほうに残る。
一言ごとに一撃入れていくつもりか、こいつら。
「ほうほう、ここで君の素性について詮索したいわけではない。ただ君の目的が知りたい。一体君は『協会』から何を命ぜられている?」
何をといわれても――いや、今はとにかく思考をしてはいけないんだ。俺はただただ身に覚えのないことを問われて困惑する一般生徒を演じなければならない。
……しかし俺の命ぜられていることはそもそも島内待機だ。ことさら秘密にしなければならないこととは思えない。その前の見澤の捜索命令にしても、どうしても世間に公表してはいけない類の任務ではない。
わからない。そもそも久万は一体何者だ? 何故俺を拷問にかけるようなことをする。
「勘弁してほしい。とにかくわからないものはわからないんだ。早く寮に帰らせてほしい」
「こんなものを持っていたようだが、それでも君はただの学生だというつもりかね」
久万は俺の目の前でバタフライナイフを取り出て振って見せた。久万はゆっくりと鞘をはらっていった。久万の手のひらの中から刃が姿を現し、照明を受けて鋭くきらめいた。
あれは俺がこの島に来て学生から回収したバタフライナイフだ。スパイとして持っていたわけではない。
「それはたまたま持っていただけだ」
久万は俺の言葉には耳を貸さず、ナイフの切っ先を俺の右目の前につきたてる。それでいてゆっくりと、ゆっくりと、まるでナメクジがその身を這わすように俺の眼球へと近づけてくる。
俺の顔が反射的に正面からそむこうとするのを、後ろの人間が押さえつける。同時に彼の指が俺の右目をしっかりと見開かせた。
「私は拷問というものが好きでね」
ナイフは遅々と俺の右目に向かって進んでくる。遠近感が上手くつかめず、彼我の距離がよくわからない。
「本来なら爪を一枚二枚もらってもいいところなんだが、今回の場合はそうもいかない。そもそも君の口に大した期待をしているわけでもないんだ。『協会』のスパイなら口を割るはずもないからね」
ナイフはゆっくりと角膜に触れ、その状態で止まる。なにかの拍子で俺の頭が動いたら、俺の右目は刃に突き貫かれるだろう。
久万が笑った。下卑た笑いだ。
「さて、まだいうことはないかね」
「勘弁してくれ。本当に何のことだかわからないんだ」
「ほうほう。この続きは、君が生き延びたときにやろう」
久万は笑みを浮かべながらナイフを鞘に収める。それから後ろも見ずに部屋から出て行った。部屋の壁には重そうなドアがはめ込まれている。鍵がかけられたのかどうかはわからないが、まだ部屋に一人残っている状態ではどうしようもない。
手錠の輪は小さいのでいくらなんでも抜けられそうもない。輪と輪をつなぐ鎖は鉄製らしく、腕の力だけで引きちぎることもできない。
足は手よりも幅があるが、歩くには小さすぎる。歩いている間中何度も転ぶ。惨めな気分だが仕方ない。
「どこに連れて行こうってんだ?」
さっきから俺を押さえつけていたやつは、俺を部屋から連れ出したきり何も話さない。見た目からすれば高校生だ。讃神学園に通う学生だろうか。バッジもつけている。青組だ。
だが俺が何を話しかけても全く答えがない。機械かなんかじゃないんだから、少しは反応があったもいいと思う。
しばらくして別の部屋に投げ込まれた。同行者は部屋には入らない。部屋の内装はさっきとほぼ同じで、こっちのほうが少し広いようだ。四囲は壁で出入り口は一つだけ。壁の上隅にスピーカーとカメラが設置されている。
部屋の中にはふたりの男――これもどうやら学生らしい――がいて、俺を這いつくばらせて押さえつけてくる。四肢が不自由な状態では、どうにでもしろと思うしかない。
「吾川蒼輔、聞こえるかね?」
部屋の上隅に設置されたスピーカーから音声が聞こえてくる。久万の声だ。
「君は今からテストを受けてもらう」
テストだと?
「簡単なことだ。君は身に降る火の粉を払うだけでいい。われわれの研究の成果が、名高い『協会』の調査員とどちらが上か試してみたくなったのでね」
「研究の成果ってなんだよ」
スピーカーに話しかけても答えがあるわけがない。
急に手足が軽くなった。何をやっているのかと思えば、俺の手足の錠を外してくれたらしい。
何がしたいのか知らないが、そんなものに付き合う義理はない。俺は自由になった体を翻すとさっきまで俺を押さえつけていた一人の足を払って床に叩きつける。間髪いれずにもう一人の顎に一撃いれ、ひるませたところを押さえつけて意識を落とした。
後も見ずにドアに殺到したが、期待は外れて鍵がかかっていた。
「見事な動きだ。さすがには『協会』の調査員だ。だが、今度はそう上手くいかないぞ」
急にドアが開いて、中から大男が出てきた。彼も学生のように見える。が、普通の学生と違うのは筋肉のつき方が玄人のそれというところだった。格闘技のチャンピオンのようにも見える。
その男が入ってくるなり上段蹴りを食らわせてきた。すんでのところでかわす。
――疾い。それに鋭い。
蒼輔は本能的に攻撃態勢をとった。蒼輔の長い間にわたる訓練の経験が目の前にいる男を危険な存在だと直感させていた。
「さあ、われわれの研究の成果が上か、それを君が上回るか、ここで見届けさせてもらうよ」
久万は設置されたカメラの映像をどこかで見ているらしい。
研究の成果だかなんだか知らないが、人に決闘させておいて自分は高みの見物か。
胸糞悪い。
絶対に無事に生還してやる。