第十三話:美術室
西に面している校舎の窓から夕日が差し込んでいる。窓から見える夕焼けは綺麗な正円を描き、放たれる熱が空気を歪め微かに揺らいでいる。
ここが美術室か。
やれやれ、朝から駆けずり回ってばかりだ。
「ちょっと邪魔するよ――って、人いないなあ」
室内にいるのは一人だけだ。一心不乱にキャンバスに向かっている。絵の巧拙は俺にはわからん。
っていうか、無視かよ。
「あー、ちょっといいかな。聞きたいことがあるんだけど」
……、反応なし、か。
邪魔されたくないのはわかるけど、何か言ってくれてもいいんじゃないかな。
画布に向かって一人筆を走らせる男子。バッジは緑色の筆だ。
つまりこいつは出来のよくない芸術組だってわけだ。へん、芸術家気取っといて落ちこぼれかよ。
……と、これじゃいくらなんでも浅ましすぎるな。変なフィルターを通して人を見るのは止めよう。
しかし美術室にほとんど人がいないのは計算外だったな。美術部員が活動しているんじゃないかと思ったんだが……。
美術部員だったっていう見澤の話を少しでも聞ければと思ったが……外したかな。
「何の用?」
うぉう。
「聞いていたのかよ」
その割にはこいつ、キャンバスに向かったままだ。
「何の用かと聞いたんだけど?」
やれやれ、なんて友好的な態度だ。
「何の絵だ?」
「ん、見てわからない?」
「柿の種」
「夕日だよ」
「だから今しか描けないってことだろ? 俺のことはいいから続けろよ」
「……ん」
しかしさっきから騒がしい音楽が流れているな。吹奏楽というよりは、ポップスサウンドと言ったほうが良さそうだ。……軽音部ってやつか。
それにもっと奥のほうからは合唱の声がする。なんかあまり集中できそうな環境じゃないな。
この建物の名前は確か、芸術部だったか。おそらく芸術方面の部活が全部この建物に入っちまってるんだろう。
……人がいない理由がわかった気がする。
……夕日の絵、か。
絵の巧拙はわからん。わからんが、なるほど、何か伝わってくるものがある気がする。
クラスの色による優劣の差はあくまでも目安に過ぎないって、朱姫が言ってたっけな。
ん? 筆を放り投げたぞ?
「ん、もういいや。集中できない」
「邪魔したかな」
「いや、音がうるさい。ピアノの方がいいな、僕は」
そういう問題か?
「で、何の用? 会ったことはないよね」
「吾川蒼輔。転入生だ。人を捜しているんだ」
「ん、明神猛。高等部三年緑組。誰を?」
「見澤灯。去年の12月24日に失踪したと聞いている。美術部だったらしいんで、彼女の友人でもいないかと思って」
「転入生がどうしてそんなことを?」
当然の質問だな。
「ただの興味本位だ。こういったら気に障るかも知れないが」
「別に気にしやしない。だが、見ての通り部員はいない」
「猛は、美術部員じゃないのか?」
「ん、確かに僕も美術部だが、見澤さんについて多くを知っているとはいえないな。人付き合いが苦手なんでね」
わかる気がする。
「他の美術部員はどこにいるんだ?」
「聞いての通りここはあまりいい環境じゃないんで、真面目な人はみんな別の場所で描いているみたいだ」
「猛が真面目じゃないみたいな言い方だな」
「ん、僕はあまり真面目じゃないな。絵なんて、気が向いたときにしか描かない」
「それでそれだけ描ければ上等だな。美術部員で、見澤と最も親しかった友人は?」
「さあ――絵は結局のところ個人種目だからね。しかもうちは部員が仲のいい部じゃなかったように思うな。もっとも僕の知らないところで部員たちは仲良くやっていたのかもしれない。ん、いずれにせよ、僕にはわからないな」
……うーん、ここは外れかな。
「今さら捜したところで、見つかるのかな」
ん?
「だってもう4ヶ月も経っているんだろう。その間出てこなかったんだから、急に見つかるはずがないと思うんだけど」
「それが道理だな。だが可能性がある以上、それに賭けてみたいと思う」
「……君はなかなか楽観的だ。…………ん、僕の知っている限りで、見澤さんと仲の良かった美術部員はいない。それよりも、彼女には信頼するクラスメイトがいた」
「住吉穂乃歌だろ。そっちとはもう接触している。というか協力してもらっている。なんだ猛、結構見澤のこと知っているんじゃないか。仲良かったのか?」
「ん、僕と仲のいい人間はいないよ」
「やれやれ、それでいいよ。見澤の失踪の動機について、思い当たることはないか?」
「ない」
「見澤は絵が上達してきたと友人に言っていたらしい。美術部員として、どう思う?」
「ん、彼女の絵が上達していたのは事実だな。そのことがモチベーションにもなっていたんだろう。失踪前――昨年の秋から冬にかけてか――見澤さんの絵は目に見えて上手くなっていた。……見るか?」
あるのか。
見てもよくわからないと思うんだが……。
「ほら、これだ。これが一年前の絵。これが冬ごろの絵だ。どうだ、全然違うだろう」
うーん、よくわからん……。
両方ともスポーツをしている場面の絵だな。確かに上手いと思うんだけど、どっちがどうといわれてもさっぱりわからん。
「むしろ失踪直前の絵のほうが、人間の形が崩れているような気がするんだが」
「ん、その通りだ。そしてそのことでスポーツの場面における迫力をよく表現しえている。つまり見た目の整合性に囚われず心に感じたままを画板に表現する方法を彼女は会得しようとしていたんだ」
熱っぽいなあ。
……心に感じたまま、か。
「なあ、絵から作者の心性を感じ取るってのは可能なことなのか?」
「絵にとって最も重要なことは作者の心理を如何に表現し得るかということだと僕は思っている。現実の正確な写実ということに関しては、絵はカメラに及ばない。それよりも絵は作者がどう感じたか、それをどう表現するかというのが大事なんじゃないか」
「絵画論はいいよ。この絵――失踪直前に描かれた絵に負の印象はないよな」
「ないな。この絵だけじゃなく、彼女の絵はどれも屈折がなかった。例えばこっちを見てみろ」
あるクラスの休み時間の風景ってところか。数人の学生が思い思いの場所に集まってクラスメイトと談笑している様子が描かれている。
「全体的に淡く明るい色使いで彩られ、線も細く軽く、休み時間の学生たちの開放的な空気を表現している。これを僕が描いたとしたらもっと暗く、端のほうでつまらなそうにしている生徒が存在する絵になっていたはずだ」
お前なあ……。
「これを見ても灯が普段どう世界を捉えていたかが理解できる。芸術家としては情念のようなものが足りないきらいがあるが、しかし一人の人間としてはひねくれたところのない非常に好感の持てる人間だったといえるだろうな」
……なんか、見澤の失踪とは関係のないものがわかってきたような気がする。
「いずれにせよ、失踪直前の見澤が悩みとか憂鬱を抱えていたって線がないことは、この方面からも示唆されるわけだ。だが、だとするとやはり問題になるのは動機だ。猛、お前見澤に恨みがある人間誰か知らないか?」
「ん、知らないな。見澤さんはだれかれから恨みを買うような人じゃなかったと思うけど」
「なら逆に、誰かからストーカーみたいな、偏執的な妄念を抱かれていたとか。……まさかお前か?」
「どうして僕がストーカー行為なんてしなくちゃならないんだよ」
うーん……やっぱり行き詰まりか。
勘弁してほしいな。
「……蒼輔、見澤さんは、どこへ行ってしまったんだろう。どうしてどこかへ行ってしまったんだろう。もうここへ戻ってくることはないんだろうか」
やれやれ、ここにも見澤灯を案じる人間が一人、か。
人が一人いなくなるというのはたぶん、大変なことなんだな。
どうしても、見澤灯は見つけなくちゃならない。
だが、どうすればいい?
くそ、俺は無能だ。最善の手が思い浮かばない。
「蒼輔、二つ、頼みがある」
「なんだ?」
「蒼輔はこのあとも見澤さんを捜すんだろう。その過程でもし、彼女が描いていた絵を見つけたら、僕にも見せてほしいんだ」
「絵だったら、そこにしまってあるんじゃないのか」
「ん、部員はここ以外の場所で描くって言っただろう。見澤さんは比較的ここでもよく描いていたが、彼女、別の場所でも何か描いていたらしいんだ。それは僕が頼んでもどうしても見せてもらえなかった」
「……もう一つは?」
「見澤さんを見つけたら、いつでもいいからここへ連れて来てほしい。実は彼女をモデルにした絵が描きかけなんだ。それを完成させたい」
「二つ目の頼みはわかった。最初の頼みは聞けない。それは、見澤が見つかったとき、自分で頼んで見せてもらえ」
「ん……見つかるか?」
「正直、わからん。だが、見つかるさ。今はそう言うしかないな」――――
「――と、今日俺がやっていたことはこんなところだ」
「うーん……」
京一も穂乃歌も机の上のコーヒーに手をつけていない。見澤灯の捜索が行き詰りつつあることをふたりとも感じているんだろう。
やれやれ、集まって互いの成果を報告しあったところで、成果がないに等しいんじゃどうしようもないな。
「ま、コーヒー飲もうぜ。俺は飲む」
これってやけ飲みか?
「やっぱり見澤の失踪以降、カードキーの紛失届けはない、か」
「久万先生に確認してみたけど、やっぱりそうみたいだね。もちろん紛失したのに届けを出していない生徒がいる可能性はまだ残されているけど、たぶん」
「これで見澤が盗んだカードキーを使って寮から抜け出したって線は消えたことになるな。穂乃歌、見澤が残していった荷物の中にカードキーはあったのか?」
「わからないっ。ご両親に確認してみたけどっ、そこまで把握してるわけじゃないって」
「……見澤の部屋は失踪当時のままなのか?」
「んっ? そのはずだよ。灯が戻ってきたときのために、ご両親がそのままにしているんだって」
見てみたいな。カードキーもそうだが、失踪の手がかりになるものが何か残っているかもしれない。
「他に今日一日で何か成果はなかったのか?」
「ないね。とりあえず考え付いた限りの人間に灯さんの話を聞いてみたけど、誰も有益な情報は持っていなかった」
「あたしもっ。灯と仲良かった子にもそうじゃない子にも話聞いてみたけど、やっぱり誰も何も知らないって」
「そうか。勘弁してほしいな」
一番わからないのは、失踪の動機だ。
自発的な失踪だとするならば、失踪前の見澤に動機らしいものが見受けられない。これが拉致などの犯罪に関わることなのだとしても、だったら誰にその動機があるのかという疑問に行き着かなくてはならない。
京一と穂乃歌には見澤の交友関係の中から見澤に恨みのありそうな人間を探してもらっていたんだが、成果はなかったみたいだな。
「そういえば、久万先生に聞いたんだけど、灯さんの絵が入選したんだってー」
「なんだそりゃ」
「失踪前にコンクールに出品してた絵が、そのコンクールで入選したって」
「そうか。絵が上手くいくようになったってのは、俺も聞いている。でも、上手くなったってのと失踪は関係ない気がするよな……」
「悩んでいたんならともかくね」
「穂乃歌、その辺のことは見澤からは聞いてないのか?」
「えっ。あー、えっと、えっとーっ、そ、そうだね。ちょっとは絵が上手くなったよってのは、灯、言ってたかなーっ。あはは」
「……穂乃歌、お前明らかに様子がおかしいぞ。……何か隠しているな」
「えっ、ま、まさか。そんなわけないじゃん」
「穂乃歌さん。蒼輔は真剣に灯さんを探してくれてるんだから、隠し事はよくないと思うよ、たぶん」
「いや、別にいいよ」
「「え、いいの?」」
ふたりでハモるなよ。
「穂乃歌が言えないと判断していることなら、無理に聞くつもりはないよ。失踪に関係あることなら、言えるときがきたら言ってくれればいいし、関係ないんならそのまま秘密のままでいい」
「蒼輔……」
「どうだ、俺かっこいいだろう」
「うんかっこいいよ蒼輔。すごい」
はっはっは京一が拍手してくれてる。いや、つっこんでくれよ。
「蒼輔っ、ごめんね。灯と約束したから、言えないことはある。でも、灯の失踪とは関係のないことだから。そのはず、だからっ」
「わかった。それでいい」
「でも実際、手詰まりになった感はあるよね、たぶん。これからどうするの、蒼輔」