一会(いちえ)
「ほんっとに人の話も聞かないし、我が儘ばっかり言うクソばばあだったんだ」
そのしかめっ面のおじさんは、さらに眉間の皺を深くしてそう言った。最初に見かけた時から恐そうな人だなって思ってたのに、その顔は全然恐いと思わない。
僕は瓦礫の上の方に載っている木の板のようなものを起こして下を覗き込むが、探している手押し車は見つかりそうになかった。
「おじさんのお母さんは一人暮らしだったんですか?」
僕と同じように、おじさんは物をどけて積みあがっている瓦礫の下を覗きこもうとしているところだ。
「ああ。早くに父親は亡くなった。……強情だったからな、あのばばあ。俺は仲も悪かったし一緒に住むつもりなんてなかったけど、うちの兄貴は一緒に暮らそうってもちかけてたみたいだ。でも、死ぬまでこの家を離れるつもりはないって誘いはいつも断ってた」
この家。
その言葉が僕にはピンと来ず、なんとなくまわりを見回してみる。一面瓦礫の山だ。きっと、この場所に家が建っていたんだなと想像してみようとしたが無理だった。
「にいちゃんはなんでこんなとこいるんだ?」
「え……僕ですか? 僕は会社の支店がこの地域にあって……」
突然僕の方に話が振られたので驚いてしまった。おじさんが僕のことに興味があるとは思えなかったから。
「被災したわけじゃないんだな?」
無表情なおじさんの顔からはどういう意味で聞かれているのか読み取ることはできなかった。もしかして、よそ者がこの辺りをぶらついてるのがあまりいい気がしないのかもしれない。
一瞬そう思ったが、正直に「はい」と答えるしかなかった。
僕が住んでいるのは震災地域とは遠く離れた所だ。
もともとこちらの支店に会社の研修のために来る予定があったのだ。幸いな事に支店のある辺りはほとんど地震などの影響をうけなかった。もちろん通常営業というわけではなかったが予定されていた研修をそれなりにこなし、それ以外は会社の方針で近隣の避難所で掃除などを手伝ったりして研修期間を過ごしている。
「そうか。よかった」
おじさんの反応は端的だった。僕のことを気遣ってくれたのだとようやくわかった。
このおじさん、口は悪いし態度もぶっきらぼうだが、きっといい人なんだろうと思う。だから僕は思わず声をかけてしまったのかもしれない。
僕はまた「はい」とだけ答えた。
しばらく会話が途切れ、二人、黙々と瓦礫を掘り起こす。
今日は休みだったので少し遠くまで行ってみよう、と無計画に歩みを進めていた時だった。何かを探している様子のこのおじさんを見かけたのは。
……ニュースで震災の映像を見て、怖いなぁって思って。ほんとは会社の研修だって、あんまり行きたくなくて。それでもほとんど影響のない地域で、安全も確保できるからって言われて渋々参加して。
毎日、テレビで流れる被害の様子も現実味が湧かなくて。日々増える死者の数も、なんだか多すぎてそれがこの世からいなくなった人間の数だってことと頭の中で結びつかない。ただの数字の羅列にしか見えなくなってきて。
ここに来て避難所の手伝いをしてても、僕にできることなんて何もないような気持ちが日に日に募っていった。
少しでも気分を変えたくて歩いていた僕は、意識せず被害がひどかった場所にたどり着いた。
そして、普段なら絶対声をかけたりしないだろう恐そうなおじさんに何故だかためらいなく話し掛けていた。
「うちのばばあの手押し車を探してるんだ」とおじさんは言った。
手押し車?
僕の頭にハテナマークが浮かんだのがわかったのか、おじさんは続けた。
「年寄りが歩く時に杖がわりに押してる小さい荷車みたいなやつだ」
ああ。荷物入れたり椅子みたいに座ったりもできる老人車とかいうやつだと思い当たった。うちのおばあちゃんも使っている。
ばばあ、というのもおじさんのお母さんのことだろうなと合点がいった。
「車輪がうまく回らなくなったらしいから、今度俺が直してやるって言ってたんだ」
おじさんは僕の方をあまり見ずにそう言った。
いまいち状況は分からないながらも、一人で真剣に探しているおじさんの様子をみて、僕も手伝います、と一緒になって瓦礫の中を探し始めてからかなりの時間が経っていた。
瓦礫をひたすら除けていく地味な作業が続く。
おじさんはぽつりとつぶやくように言った。
「……俺が家を出て都会で暮らしはじめてからも、顔を合わせるたび何かにつけて口げんかばっかりしてた。兄貴に比べて俺は出来が悪かったしな」
僕はおじさんの方を見たが、おじさんは僕の方を見ていなかった。
「ばばあの方も俺を見るたびに憎まれ口ばっかりでな。お前の顔なんか見たくないから帰って来るな、とか平気で言いやがった」
「そうなんですか」
それはひどい。よっぽど仲が悪かったんだろうか。
「あんだけ口が達者であんだけ勢いだけはあるばばあだったのに。津波が来たくらいで死んじまうなんてなぁ」
おじさんは、少しだけ顔を上げて額の汗を手の甲でぐいっと拭った。まだまだ寒い時期だが、瓦礫をどかしていると汗ばんでくる。
「……ご遺体は見つかったんですか?」
失礼かもしれないと思ったが、気になって聞いてみた。津波に襲われて生死不明のまま行方がわからない人もたくさんいるはずだ。
「俺は直接見に行ってないけどな。兄貴が見つけた」
なんて返せばいいのかわからず、僕はただ無言でうなづいた。でもおじさんはこっちを見ていないから僕がうなずいたことに気付いていないかもしれない。
「所持品で身元が確認できたんだ」
おじさんは、大きな木片を向う側にごろんと転がしながら言葉を続けた。
「所持品、ですか?」
名前の分かる免許書とか保険証とかそういうものを持ってたんだろうか? たくさんの中から名前の分からない人を探し出すのはかなり難しいようだから。
「銀行の通帳だ」
「通帳?」
確かに通帳には名前が書いてあるが、普段から持ち歩くようなものではない気がする。とっさに通帳を持って避難しようとしたのかもしれないな。それならわかる。
「兄貴と俺の名前の通帳、持ってたんだ。俺も兄貴もそんな通帳があることすら知らなかったんだがな。毎月毎月積み立ててあって結構な額になってた。あのばばあ、死んでも俺には一銭も残すつもりはない、なんて言ってたのにな」
「……逃げる時にその通帳を持って行こうとしたんですね」
きっと、とても大事だったんだ。その通帳。
「そうだな」
おじさんもわかってるんだ。憎まれ口ばっかりでも、このおじさんのお母さんはおじさんのこともお兄さんのこともとても大事だったんだ。
おじさんだって、お母さんの手押し車をこんなに必死で探してる。見つかれば、修理してどこか必要な所に寄付でもするつもりのようだった。きっと、それができればお母さんも嬉しいはずだ。
おじさんはお母さんのために探してるとは言わなかったけど、いつもケンカばかりしてたからお母さんとこんな風に約束をしたことは滅多にないと言っていた。
それなのに、
「にいちゃん、そろそろ帰らないと日ぃ暮れるぞ」
おじさんは急にそう言って僕の方を見た。
「えっ……。はい。でも、まだ……」
見つかっていない。
「俺ももう行かないと。明日は仕事あるし、今日中に帰らねぇとな」
おじさんはそう言いながら近くに置いていたリュックを拾い上げて帰り支度をはじめた。
「でも、手押し車、見つからないままでいいんですか!?」
思ったよりも大きい声が出て、自分でもびっくりしてしまった。
「……こんな状況で、見つかる可能性が低いことはことはわかってたんだ。にいちゃんだって、この瓦礫ばっかりの光景見て、それがわかってたのに手伝ってくれたんだろ?」
わかってる。わかってるけど。
「でも、直してあげるってお母さんと約束したんでしょう?」
そのお母さんはもういなくても。
「いいんですか? このまま帰って」
おじさんは僕の方を見て少しだけ困ったように笑ったように見えた。本当に少しだけ。
「ここには手押し車は残ってないことがわかっただけでいい。ばばあも死んだ。『今度』が来ることが当たり前だと思って、結局俺はばばあに親切にしてやることもできなかったし、手押し車すら直してやれなかった」
おじさんの顔は泣き顔でも怒った顔でもなかったけど辛そうだった。
「そのことはずっとこの先後悔するだろうが、それでも前に進んで行くしかない。今日、ここで手押し車を探したことは記憶に焼き付けるし、にいちゃんが手伝ってくれたことも忘れんよ」
何故だかわからないけど、僕は急に涙が出てきた。
「にいちゃんは俺と一緒に手押し車を探してくれた。それだけで俺には十分だ」
「……いえ」
何も言葉が出てこなくて、ただ俯いた。もどかしい。
そんな僕に、おじさんはただ一言、
「ありがとうな」
そう言って、そのままゆっくりとした足取りで歩き去って行った。
おじさんの後ろ姿をみて思う。
皆、たくさんの物を失って。いっぱい理不尽なことがあって。それでもどうしようもないことだって山ほどある。
僕にはここで何か出来ることがあるだろうか。
手押し車さえ探し出すことが出来なかったのに。
でも、おじさんはありがとうと言ってくれた。
少しは役に立ったんだろうか?
人の役に立ちたいと思っても、自分の出来ることなんてちっぽけで、いつももどかしい。
僕には、何が出来るだろうか。
日が、沈みかけていた。