ユウ
初投稿です。
何卒よろしくお願いいたします。
全三部で完結の予定です。
妻と初めて会ったのは、ある春の日だった。
柔らかな陽の降り注ぐその日、ふと風の凪いだその時。
何か視線を感じた気がして、視線を上げると彼女がこちらを見下ろしていた。
「あの、隣失礼していいですか」
僕は僕の下方に確固として存在する何らかの樹脂でできた白いベンチを感じながら、周りを見回した。
オフィス群の真ん中に立地するこの公園は、圧倒的にベンチが不足していた。
昼時になると、普段は閑散としているこの公園もまるで休日のテーマパークになる。
集うのは将来有望な子ども達ではなく、ほぼ大多数がこの僕のようなくたびれた会社員という違いがあるけれども……。
そんな彼女の手には小さな巾着袋。
はあ、そういうことか。
僕は口に揚げ物を運んでいた手を止めて軽く頷く。
そしてすぐに目線を茶色い弁当に落とす。
さしずめ席取りにあぶれたのだろう。
「良いですよ」
僕が言うと、彼女は音もなくふわりと隣に座った。
「ありがとうございます」
隣で袋を開ける衣擦れの音がしてくる。
僕は再び食料を胃の中に詰める作業に取り掛かった。
特段味わうことはしない。いつもの味にいつもの食感。
濃い目の味付けなのに舌が慣れたのか、塩味やうま味を感じることもなく、油っぽさを口の中に残して胃へと流れていく。
昼の休憩が終わったらまずは片づけなければいけないことがいくつかあったなあ。
なんて役に立つか分からないシミュレーションを脳内でしていると、ついさっき隣に座ったはずの彼女がベンチから立ち上がった。
「ごちそうさまです。隣ありがとうございました」
早。
そうつぶやいてしまった僕は、失言に気が付いて慌ててすみませんと言う。
「ええ、私昔から食べるの早いんです」
そこで僕は初めて彼女をしっかりと見た。
僕とそこまで年は変わらないだろう。僕より少し年下かもしれない。
肩もと近くで切りそろえられたつややかな黒髪。
淡い黄色のブラウスに、灰色のスカートからのぞくすらりとした足は深い黒色のタイツに包まれている。
小ぶりでどこか上品さを感じさせる端正な顔立ちだ。
「口に衣が付いてますよ」
そう言って彼女は微笑んだ。
口元を軽く触ると、さっき食べた揚げ物の衣がついていた。
顔にほんのり熱がこもる。
「どうぞ」
彼女は胸元のポケットからハンカチを渡してきた。
「あ、ありがとう」
僕は彼女から素直に受け取る。
真っ白なハンカチ。
汚れてしまうなと一瞬躊躇したが、結局好意に甘えることにした。
そうして口元を拭いている間に、いつの間にか彼女はどこかに行ってしまった。
僕はひとりでベンチに座っていた。
僕は気を取り直して、容器の底に残った揚げ物に手をつけた。
彼女もこの近辺に勤めているのだろうか。
心なしか体が宙に浮いているような高揚感を感じる。
不思議と気になった僕は、その考えにとらわれたまま会社へと戻ることになった。
それが彼女との初めての出会いだった。
今でも鮮明に思い出せる。
あの春の陽差しと柔らかな空気を。
少しずつ描き足されていく水彩画のように、記憶の中で木々は萌え、色褪せた空は遥かな宙に続いているような、どこまでも透明な青に染まっていく。
その中で微笑んでいる彼女。
それは恋というのだろうか。
そうとしか言えないだろう。
僕は思う。
コーヒーの匂いが鼻腔をくすぐる。
僕の一日はコーヒーから始まる。
ぼんやりとした視界。
開け放した窓から差し込む、午前六時の日の光。
昨夜からふり続けていた雨はどうやら上がったらしい。
隣のベッドはもぬけの殻。
僕は冴えない頭を左右に振ると、ほんの少しずつ視界は像を結び始める。
どこからか音楽が聞こえてくる。
クラシック音楽だ。
僕はいまだにこの曲のタイトルを知らない。
理子が好きな曲なのだろう。
一度気になって理子に聞いてみたことがあるが、理子もよく知らないと言った。
いわゆるバックグラウンドミュージックというものなのだ。
理子と一緒に住み始めてから毎日のようにかかっているが、実のところ僕も嫌いではなかった。
心が落ち着く、そんな気がする。
僕は穏やかな気持ちになって、朝の冷ややかな廊下を渡り、理子のいる部屋へ向かう。
「おはよう、昨日はよく眠れた?」
白を基調とした清潔感のあるリビング。
その真ん中に置かれたテーブルに、理子はちょこんと座っていた。
組まれた指にあごを軽く乗せて、首を傾げて僕を見た。
柔らかく細められた両目。
僕も理子にならってテーブルにつく。
「少しは寝られたかな」
最近は寝られるのが遅い時がある。
忙しいというわけではないのだが、どうもタイミングが悪いことが多い。
「でも悪くはないよ、ありがとう」
僕は理子に答える。
「そっか、良かった。なんとなく表情でわかるよ」
「そうかな」
「昨日より遥かに良い」
僕には分からない信号がどうやら僕の顔から発信されているらしい。
「コーヒー、飲んだら?」
僕の前には理子お手製のコーヒーと軽食。
コーヒーの白い湯気が中空に消えていく。
甘いミルクの匂いがほのかに香ってくる。
温かなカフェラテ。
そして添えられた皿の上にはトーストされたサンドウィッチ。
「いつもありがとう」
理子への感謝を述べつつ、僕はゆっくりコーヒーに口をつける。
体の中に熱が下りていき、僕は小さくため息をつく。
頭が覚醒してくる。
すっきりとしたコーヒーの飲み口と、僕の頭の中がまるでリンクしたかのようだ。
透明に澄み渡ってくる。
プラシーボ効果かな。
すぐにカフェインが効かないのは知っている筈なのに。
「おいしい?」
「おいしい」
理子の自信ありげな顔をあまり見ないように、僕は答える。
「まあ、当たり前かなあ」
理子も自分で淹れたコーヒーを一口飲むと、ぶっきらぼうな僕を見て微笑んだ。
「ねえ、そうだ。聞いてよ。このサンドウィッチなんだけど」
少しの間の後、ふと思い出したように理子は話し出した。
既にサンドウィッチが口の中にあった僕は、目を見開くことで理子への返事を発信した。
「この前たまたま知らない喫茶店に初めて入ったんだけどね、そこのサンドウィッチが絶品だったの」
理子はマドラーを動かす手元を見ながら言った。
「昔ながらって感じですごくおいしかったの。だから真似してみようかなって」
それからしばらくの間、彼女の料理のうんちくを聞くことになった。
普段そこまで料理をしない僕にとっては、遠い世界の話のように思えた。
……確かに、そのサンドウィッチはどこかで食べたことのあるような懐かしい味がした。
この懐かしさを再現できるのなら、その知識も価値のあるものなのだろう。
そんなことをうつらうつらと考えているうちに、朝の時間はあっという間に過ぎていく。
「それじゃ、行ってきます」
「行ってきます」
誰もいなくなった部屋に一声かけると、僕たちはマンションを出た。
午前八時。
僕たちは肩を並べて街へ繰り出す。
せわしなく駅へ吸い込まれていく会社員とは正反対に、僕たちは僕たちの会社に向かって歩を進める。
僕たちの住むマンションは、勤務先から徒歩三十分の場所にあった。
電車通勤というこの世の地獄から解き放たれている解放感。
彼らにほんの少しの罪悪感を覚えながらも、この徒歩圏内の奇跡に頭を垂れよう。
途中でコンビニに立ち寄る。
僕たちは思い思いの品をかごに入れる。
彼女の楽しそうな横顔をつい目で追ってしまう。
彼女とは社内恋愛だった。
初めて会ったのは会社の外だったが、彼女が僕の勤務先の会社の事務員だと知ったのは、偶然だった。
しかし、それからの僕というのは、全くの別人と言って良かった。
我ながらよくあんな勇気が出せたな、というのが正直なところだ。
隣で品定めをしている彼女を横目に、僕はポケットの中をごそごそと探る。
「これとこれどっちがいいと思う?」
理子によく分からない化粧品の選択を迫られるが、内心、知らんとつぶやく。
僕に聞いたところでまともな答えは返ってこないのはわかっているだろうに。
僕にお洒落という言葉は無縁だ。
そんなことは口には出さずに、ひとまず、
「理子が気に入った方で良いんじゃないかな」
と煙に巻く。
「正直分からないんでしょ」
僕はすぐには答えないで、飲料コーナーの前に行く。
「僕に分かるのは食べ物と飲み物のことくらいだよ」
「私も質問は選ぶべきだったかな」
「全く持ってその通りだよ」
僕はそう言って、新発売のコーヒー飲料を一本彼女に渡す。
毎回思うのだが、この手の質問に正解はあるのだろうか。
一人一人に得手不得手があるように、男女にも得手不得手はあるのだ。
「美味しくなかったら報告するね」
「美味しくても報告してくれよ……」
そうれもそうか、と理子は楽しそうに笑う。
僕も同じものを一本取るとレジに向かった。
悪くなさそうなパッケージはしているな。
理子と二人並んで、セルフレジで会計を済ます。
「これで仕事中も寝なくて済むね」
「理子は仕事中寝るの?」
純粋な疑問である。
僕はそんなこと間違ってもできないな……。
「もちろん冗談だよ。眠くなっちゃう時もあるってだけ」
理子は手を顔の前で振って否定すると、
「私も結構忙しいんだよ。君が思っているよりもね」
そう言って、コーヒーのペットボトルを僕に見せた。
「それは悪かった」
「分かればよろしい」
彼女の満足げな顔を見て、僕も微笑んだ。
僕は理子の仕事のことをよく知らない。
違う部署だし、僕の持っている知識はあくまで一般的なものだけだった。
だから彼女が買い込んだ、パンパンの買い物袋を見ても、僕は見て見ぬ振りをした。
人にはそれぞれ適正な量というものがあるのだ。
よくその細身の体に入るなと、僕はいつも感心する。
小食の僕にしてみれば、まるで宇宙の胃袋だ。
鼻歌が聞こえてくる。
どこかで聞いたことのあるメロディーだ。
彼女が隣で口ずさんでいるらしい。
あの名前も知らないクラシックだ。
ふと僕の口からもそのメロディーが溢れてきた。
「この曲の名前知っている?」
「僕が知っていると思う?」
「また訊く相手間違っちゃった!」
僕の頭の中に、ぼんやりとそれは浮かび上がってきた。
目を凝らせば、もしかしたら朝でも西の空にうっすらと見えるかもしれない。
ベタ過ぎて、僕は少し恥ずかしくなってしまう。
「後で調べてみようよ」
本当のことを言わないで、代わりにそんなことを言うと、理子は笑った。
「絶対調べるの忘れるのに一票」
「違いない」
僕の笑顔の裏にそれは隠れてしまった。
僕は一体いつになったら言えるのだろうと、ポケットの中を探る。
「それじゃあね」
理子は笑顔とともにエレベーターの中へと消えていった。
彼女の勤める部署と僕の部署は階が違った。
彼女を見送ると、僕は踵を返し階段へと向かった。
僕は足音を立てながら階段を下っていく。
僕の勤める記録課は地下二階にあった。
エレベーターを使うよりは、自分の足で降りて行った方が早く着く。
まだ朝なのにどことなく薄暗い階段を下りていくと、見慣れたドアが僕を迎えてくれた。
今時木製のドアだ。
地上に立つガラス張りこのビルには到底似合わない、古めかしいドアだ。
僕の丁度目のあたりの高さのところに、「記録課」と書かれた白いプラ板が貼り付けられている。
僕はこの半年間で見飽きてきたそのドアを開けると、おはようございますと、挨拶をした。
「おはよう」
部屋の中には中年男性が一人、デスクにかけていた。
中年男性、というと失礼だろうか。
でも僕は彼の年齢を知らないのだ。
僕の推測からすると、彼は五十代半ばくらいだろうか。
切り揃えられた黒髪は、ぺっとりと頭の形に沿って、油っぽい光を放っている。
白髪は全く見当たらないが、その若々しい髪の毛に反して、彼の顔にはくたびれた深いしわがいくつも刻まれていた。
気だるげな眼を僕に向けると、彼はこれまた気だるげな声を出して、両手を広げた。
「やあ、昨日はよく眠れたかい?」
彼の表情からは、何の感情も読み取れない。
ただ極度の疲れが体全体を包んでいるのだろうという、不確かな推測しかできなかった。
そんな彼も僕のことを気にかけているのか、しばし僕の目を見ると片目を意味ありげに釣り上げた。
「そこそこです」
「そうか、まあ無理しないようにね」
変わらない調子で言うと、僕の上司は再びデスクの上に目線を戻した。
この人は記録課での唯一の僕の上司だった。
「君のおかげで、進捗は良い感じだよ」
「そんなことないですよ、課長のおかげです」
一瞬だけ課長は僕を見ると、
「それはどうも」
と言った。
朝の何気ない会話も円滑なコミュニケーションを図るには大事なのだ。
何しろここには僕と課長しかいないのだ。
記録課には課長と部下の僕しか在籍していなかった。
僕はこの課への異動が決まった時、何回も自問自答した。
僕は自分のデスクに座る。
鞄から書類と写真を出すと、一通り目を通して課長に声をかけた。
「この前撮った写真です。現像してきました」
「お、現像してきたか。見せてくれ」
僕は立ち上がって、狭い部屋を横切る。
課長にそれを渡すと、課長は頷いてしばし眺めた。
口がもごもごと動いているが、何を喋っているかは聞き取れない。
ほとんど独り言のようだ。
彼の手の中にある写真は、僕たちのいるビルの一角を映し出している。
高層ビル街に建つそのガラス張りの建造物を、様々な地点から見上げた幾枚かの写真。
僕が一昨日、課長に指示されて撮った写真だ。
「ありがとう、よく撮れている。君も見てみると良い」
僕は促されて、手渡された写真を眺める。
くすんだ空の下にそびえたつビル。
何かの宣材写真課のように切り取られた弊社を見ても、何も特別な感慨は抱かなかった。
「少なくともブレはなさそうですね」
「それは実に良いことだ」
課長は気だるげに言った。
そもそもなぜ僕は記録課に異動になったのだろうか。
記録課での僕の仕事は、この課長にしたがって、社内とその周辺の写真を撮ることだった。
そして、それらをファイリングする。
この部屋の一階上には、僕が異動してきてから半年間毎日のように撮りためた写真が収められた資料室がある。
僕には撮影の技術があるわけでも、何らかの知識があるわけでもない。
ここはよく分からないところだ。
僕以外に適任な人はいただろうに。
いわゆる左遷なのか?
「今日はさ、新しい写真は撮らない代わりに、資料室を整理してほしいんだよ」
課長は僕に言うと、大きなあくびをした。
「半年の間で大分たまっただろう? たまには整理しないと仕事はうまく進められないからね」
「確かにその通りですね」
僕は課長の提案に頷く。
一体写真は何枚あるのだろう。
大半は記憶の奥底に沈んでしまっているのだが……。
僕は計算しかけて、やはりその計算を中断することにした。
全くの無意味だろう。
既にあるものはあるのだ。
今日一日かけて見ることになるかもしれないという悪い予感を振り払うように、課長に弱弱しい笑顔を向けた。
「ひとまず昼には帰ってきます」
「ああ、ここで待っているよ。自分のタイミングで帰ってきたら良い」
課長は落ち着いた声で僕に返した。
「私もこう見えて忙しい。君に付き合える程度にはここにいるさ」
そう話す割には何かをする様子もなく、ただじっと座って資料室へと向かっていく僕をじっと、瞬きもせず見送るのだった。
「ありがとうございました」
店員の明るい声を背に受けながら、僕はスーパーを出る。
外は綺麗な夕焼けだ。
鮮烈な赤色に僕は目を細める。
今日は一人の夕食だ。
ずっしりと重いビニール袋の中には、弁当と惣菜、そして少しばかりの甘味。
あとは今日明日分の野菜と肉も入っている。
なかなかの重量だ。
就業前に受信した理子からのメールによると、理子は今日残業で帰りが遅くなるらしい。
僕の方はというと定時で帰ることができた。
今日ばかりは遅い帰りを覚悟したが、いつも通り定時上がりすることができた。
日が落ち始めた街を僕はひとり、膨れ上がった買い物袋に足をぶつけながら歩いていく。
こんな日もたまにはあるのだが、僕は別に一人になったからと言って、街に繰り出すわけでもなく、すぐに家に帰るつまらない人間だった。
別段どこかに行きたいという気持ちもおこらない。
家にいるのが一番落ち着くのだ。
二番目に落ち着くのは……意外と会社かもしれない。
僕と課長だけという気安さが、ある種の心地よさを生んでいるのかもしれない。
ビル街の小さな神社を過ぎると、もう家路の半分を歩いたことになる。
少しずつ痛くなり始めた右手から、まだまだ元気な左手に買い物袋を移し替えようとして、なんとなくやめた僕は、気合を入れなおして「ベストポジション」を探す。
中で甘味がひっくり返った気がしたが気のせいだろう。
理子が好きなプリン。
僕が彼女に買っていく甘味はいつもプリンだ。
それは言い換えれば、僕が彼女について知っていることはひどく少ないということだ。
部屋の鍵を開けると、暗闇が僕を出迎えてくれた。
室内灯のスイッチを推すと、白い光が部屋を満たした。
靴を脱ぎそのままリビングのテーブルに向かい、買い物袋とともに腰を下ろした。
僕しかいない部屋はとても静かだ。
街の喧騒になれた耳が音を拾い集めようとして、何かシュワシュワとしたおぼろげなノイズを作り出そうとしているのが分かる。
僕はとりあえず悪くなってしまう前に要冷蔵のものを冷蔵庫にしまってしまうと、電子レンジで僕の夕食を温めた。
厚い金属の塊の中で僕の弁当は、ぐるぐると回りながら加熱していく。
加熱終了のタイマーのメロディーが流れる直前に、僕はレンジを開ける。
夕食を簡単に済ませると薬を何錠か飲んで、僕はベランダに出て洗濯物をしまう。
少し冷たくなってしまっているが、致し方ないことだろう。
畳むのは後回しにして、僕は理子の夕食を作りに台所に立った。
僕が理子について知っていることはひどく少ない。
彼女と毎日同じ場所にいるというのに、肝心なことはよく分からなかった。
思えば、彼女の本当の気持ちも実際に聞いたことはない。
それなのに結婚を申し込もうなんて、無謀な話だと普通の人は思うのだが。
彼女の生い立ちもよく知らないのだ。
代わりと言ってはなんだが、僕は理子にぽつりぽつりと自分のことをよく話した。
僕のつまらない話を理子は飽きもせず聞いてくれた。
子どものころの夢や、昔行った旅行の事、今の仕事の事。
「僕の話、つまらなくないかな」
「楽しいよ。あなたのことが知れて嬉しいもの」
理子は僕の目を見つめて言った。
理子は自分のことについては多くを語らなかった。
「私は夢が叶ったからさ。私の事よりユウの話が聞きたいな」
はぐらかしている?
「そんなことないよ」
笑って、僕の手を握った。
僕はいつの間にか眠りに落ちていた。
畳み途中の洗濯物に囲まれながら、いつの間にか僕は深い眠りの中に落ちていった。
朝になるまで僕が目を覚ますことはなかった。
例えようのないくらい深い眠りだった。
僕の仕事は記録をつけること。
社内についての記録を一手に担う重要な部署らしい。
今日も僕は課長の指示に従って、様々な角度から、様々な視点から、様々な風景を撮る。
今ではこの会社支給のデジタルカメラも大事な相棒だ。
少し古い型だが、それもまた良い。
まるで長い時間寄り添った「パートナー」だ。
快晴の空の下、鈍い光を返す小さな彼を握りしめて僕はその被写体を撮り続けた。
僕はその日、昼ご飯を近くの定食屋で済ますと、会社には戻らず写真屋へ向かった。
そこは会社指定の写真屋だった。
僕が撮った写真をここで現像するのだ。
会社からは徒歩五分程度の位置にある。
小さな建物だ。
それはビル街の中にぽつんと現れる。
個人経営らしい。
そこはムラカミフォトと言った。
「いらっしゃい」
店主のムラカミが朗らかに挨拶する。
無表情という表現がしっくりくるほどの仏頂面に似つかわしくない、明るい声が店内に響く。
ひどく細身の男性だ。年齢はおそらく僕と同世代だろう。
詳しく聞いたことはないが、僕ととても近しいと思う。
彼は僕を見ると、小さく片手を上げた。
「今日は良い天気だね」
声だけ聞くと今にも歌いだしそうな調子だ。
仏頂面との落差にいつものように少し困惑しながら、
「そうですね」
と僕は答えた。
「正直こんな店を放り出して、外に出たいくらいだよ」
綺麗に七三に分けられた髪を左手でなでると、ムラカミはため息をついた。
「君、僕と仕事を代わってくれないかな」
声だけ聞くとまるで最高の仕事を最高の気分でやっているように聞こえてくる。
「僕に勤まりますかね」
「勤まるとも」
ムラカミが言うと太鼓判を押されたような妙な安心感がある。
朗々たるバリトンだ。
「基本的に暇さ」
たまに眠たくなるほどのね。ムラカミは言う。
「何せ君以外に誰も来やしないからね」
はっはっはっと一音ずつ区切るように笑う。
「僕だけのために申し訳ないです」
「良いんだ。誰も来ないよりかは幾分良い」
「これでやっていけるんですか?」
「もちろん赤字だよ」
彼は真顔で言う。
「でも人生、利益だけじゃないだろう」
「慈善活動ということですか?」
「そういうことになるねえ」
ムラカミはそう言って、口の端にほんの少しだけ笑みを浮かべた。
店内にはどこかほこりっぽいにおいと、カウンターの奥にあるテレビの音があった。
採光のための窓がどうも少ないようで、店内は薄暗い。
外から入ってくると、明度が何段階も落ちたように感じる。
「今日も現像に来たんだろう?」
「ええ、よろしくお願いします」
僕はムラカミにデジタルカメラを渡す。
「しかし熱心だねえ」
ムラカミは感心したように僕に言うと、白いシャツに包まれた華奢な肩をすぼめてみせる。
「そのおかげでここもやっていけるわけだけれども」
「最低週に二回は来ていますからね」
「ありがたいことで……」
ムラカミは無表情に言う。
「じゃあ現像してくるから、そこらへんにかけていな」
「ありがとうございます」
僕は近くにあった小さないすに腰掛ける。
「少し時間がかかる。……まあ、そんなこと君もよく知っているか」
ムラカミはそう言って、カウンターの奥に消えていった。
テレビはどこかで見たことがあるような番組を映していた。
遠目から見ても画質が悪い。
何かのドラマのようだ。
昔の番組を録画したものだろうか。
男性が公衆電話で誰かと話している。
手持ち無沙汰になった僕の頭に、それはすっと入ってきた。
おそらく女性と電話しているのだろう。
画面は切り替わり、受話器を持った女性が映し出される。
顔は長い前髪に覆われてよく見えない。
テレビの音量はひどく低い。
カメラのファインダー越しの映像のような、ピントのぼけた音声が聞こえてくる。
何を言っている?
動く口元だけがスローモーションのように、僕の心に残像を植え付けて消えていく。
ムラカミが帰ってきたのは一時間後のことだった。
「寝ていたのか?」
「起きていましたよ」
僕が顔を上げると、ムラカミは茶封筒を携えてカウンターに立っていた。
「目にクマができているぞ」
僕は後ろを振り返る。
ムラカミが指さした方を見ると、大きな姿見があって、その中に僕がいた。
「そうですか?」
スーツを着た僕はいつも通りの姿で、僕のことを見ている。
「あんたに倒れられると稼ぎが減るからな」
「そんな大げさな……」
悪いところは特にないと言いかけて、
「気になっているんだろう?」
ムラカミは僕に問いかけた。
そしてずっしりと重い、写真がたくさん入った茶封筒を僕に手渡した。
この世界に宇宙人はいるだろうか。
私がこのような疑念に取り憑かれたのは、実に一年前のある日だった。
私はその日、いつものように自宅の書斎で静々と、長らく温めていた構想を書き起こしていた。
ふと窓の外を黒い何かが通り過ぎていった気がして、俯いていた顔を上げて、何気なく窓の方を見やった。
そこにはグレイがいた。
大きな黒い両目と僕の目が合う。
しばし私の様子を伺っていたが、やがて彼はひょろりとした体軀を翻して、塀の向こうへと姿を消した。
グレイとは彼の名前だ。
このところ私の家の庭に居着いた灰色の毛並みの猫である。
私は一息ついて、手元にあった珈琲を一口飲むと再び原稿に向かった。
つくづく思うのであるが、この世は嘘で溢れているように思う。
果たして何が本当で何が嘘なのか、私にはまるで判別不可能だ。
嘘の反対は本当ではないのだ。
嘘の反対は嘘であるし、本当の反対も本当なのだ。
不規則な速度で走るペン先は、緩く螺旋を描いて、過去の黒い線と黒い線が幾重にも重なり合い、やがて大きなクエスチョンマークを原稿の上に形作った。
もちろん私の頭の中での出来事である。
私の思考は今朝見た、ある記事の見出しに至る。
「これが本物の宇宙人だ!」
眉唾物の記事であるが、当時は信じられていたのだ。
地方の新聞の一面を飾ったその記事には、ピントの少しズレた、ぼやけた写真が添えられていた。
私たちがまず想像する宇宙人の姿をした「何か」が、写真の隅の方に小さく写っている。
どこかの幸せな家族、まだ小さな娘とその母親が二人でどこかの草原で、柔らかそうなその芝生の上で遅めの昼食をとっている。
空は雲一つない快晴だ。
どこまでも続いていそうな群青は深く、私に何か「もろく」煌めく鉱物を想起させるほどの、長閑な輝きを湛えていた。
二人の笑顔の端っこの方に彼はいた。
不自然なほどに大きい頭と、感情のまるで読み取れない両目。
口は驚くほど小さく、果たしてその大きさで何を語ることができるのかというほどにすぼんでいた。
私は驚愕と共に同情と親近感を覚えた。
この写真はどう考えても嘘なのである。
明らかに彼だけ質感が違うのだ。
彼はおそらくどこかのスタジオで撮影され、何かの方法でこの幸せな家族の写真に送り出されたのだ。
まるで接点のないこの三人は、ある詐欺師の手によって、合成写真という形で邂逅を果たしたのだ。
嘘も信じればまことになる。
私は嘘を信じる当時の人たちに驚愕を覚えた。
しかし、それ以上に彼のその表情が私の心を深く捉えた。
ペン先は、思索に耽る間もゆっくりと、そして絶え間なく動き続け、クエスチョンマークを描き続け、どうしようもなく黒く塗りつぶされたその太い線の中から、彼の光のない目が私の方を覗き込んでいるのが、私にも分かった。
彼の目には絶望が映っていた。
とんでもない役者である。
その一瞬を切り取った顔だけで、私に絶望を伝えてきたのだ。
どこまでも落ち込んでいくような(言い換えればそれはブラックホールだ)、あがいても抜け出せないような絶望。
何に絶望しているかは分からない。
私が感じることができるのは、純粋な絶望だけである。
気がつくと、窓の外は夜であった。
昼の時分から雲一つない快晴であった空は今も曇りなく、星々のきらめく夜空を私に見せてくれている。
あの星の光が届くまでに果たして何年が経っているのだろうか。
光の速さですら届くのに何千年とかかるこの輝きは、どこまで元の形を保っていられているのだろうか。
私が思いを伝えることですら難儀を極めるというのに、果たして彼は、遠い旅の果てにその思いをうまく伝えられたのだろうか。
私はその一点にのみ、彼と同じだった。
途切れ途切れの心の情報をつなぎ合わせて、私たちは何かを伝えようとしている。
彼は私で私は彼だった。
私は彼に深く同情した。
そこからは何物も出てこられないような黒い両目が、感情に渦巻く私の心の中心にいる。
それが一年前のある日の出来事だった。
私はぎゅっと目をきつく瞑り、どこかにいるあの人のことを思った。
もちろん、これは嘘の話だ。
「それじゃ今日はちょっと出かけてくるから」
そう切り出した理子に、僕は少し驚いた表情を見せた。
「この前言わなかったっけ?」
「ごめん、ちょっと記憶にないかも」
僕はこの一週間を頭の中で振り返ってみる。
どうにも思い出せない。
理子は少しの間の後、わざとらしく舌を出してみせた。
「あれ、言っていなかったかも」
いや、多分言っていなかったと思うけれども……。
「いや、僕がきっと忘れていたんだ」
ごめんねと言う理子。
「大丈夫だよ。一人なら一人なりに色々とやることがあるから」
僕は鼻を指でぽりぽりとかいた。
もう片方の手には今朝の朝刊。
右手の中で昨日の出来事が文字になって踊っている。
週末のクライマックスにふさわしい騒々しさだ。
「私が言うのもだけれど、たまには一人になるのも良いかもね」
理子は細い指で、机の上に形にならない図形をくるくると描き続けていた。
何かを言いかけて、やめたような時間が流れた。
「最近疲れてない?」
理子にしては珍しくはっきりと聞いてきた。
「疲れてないよ」
僕は今度こそ本当に驚いた顔を理子に見せた。
「なんか皆、僕に聞いてくるけれど、見ての通り僕は元気だよ」
皆優しすぎるのだ。
特におかしなところはない。
「もし辛かったら……」
「大丈夫だよ」
僕は理子の言葉を遮って笑ってみせた。
「……そう。なら良いけど」
理子は柔らかく微笑む。
「何かあったら私に言ってね。どんな些細なことでも良い。思ったこと何でも」
思ったこと何でも。
次は僕が形にならない図形を描く番だ。
うまくまとまらない考えが頭の中に浮かんでは、泡沫のように消えていく。
丸、三角、四角。
どこかで見たようなエクスクラメーションマークと、クエスチョンマークが彼女の顔に重なって見えた。
「どうしたの?」
顔をなくした理子が僕に不思議そうに尋ねた。
結婚。
「結婚」
「け、結婚?」
僕の脳内に浮かんできたのはハートマークだった。
「結婚ってどういうこと?」
「あ、いやちょっとさ」
僕はふと出てしまったその二文字に、自分で蒔いた種ながら動揺してしまう。
「最近身近で結婚した人がいてさ」
「そ、そうなんだ」
理子は目を二、三回まばたきさせると、すぐに笑顔を作ってにこりとした。
「友達なの?」
「そう」
今日も言えないのだろうなと、内心あきらめながら僕は答えた。
「古い友達なんだ」
「へえ、そういえばあなたの友達のことって、あまり聞いたことないな」
「数少ない僕の友達だよ。口に出して言うほどでもないくらいのね」
この友達とは、もちろん架空の存在である。
仮にムラカミということにしておこう。
やはり僕は疲れているのかもしれない。
「彼、ムラカミは妻に一目惚れだったんだよ」
彼女はいつものように、軽く組んだ指のうえにあごを乗せて、話し出した僕の目を見る。
「そうなんだ」
日曜の朝の光は彼女の瞳を照らし出す。
その瞳に移る僕は、まるで今朝の朝刊のようにクライマックスを迎えている。
まるで舞台の上だ。
僕は役者になった気分で「ムラカミ」の半生を話し出した。
そして僕が得た答えというのは、理子が結婚には前向きでないかもしれないということだった。
僕はがっくりと肩を落とした。
僕の確信は全くの勘違いということになる。
そもそも同じ部屋で一緒にいるということは、少なくともそういうことを意識するものじゃないのか。
話が僕たちに及びそうになると、理子は一人台所に行ってしまった。
僕の言葉と、ズボンのポケットに入っている指輪は一心同体だった。
どちらも途方に暮れていた。
行き場をなくしてしまった。
「これからどうする?」
「家事を済ませたら、出かけるね」
キッチンで皿を洗いながら、理子は僕に答えた。
「どこに行くの?」
「隣の駅に用事があってね」
隣の駅か。
「ちょっと色々買いたいものがあるんだ」
「僕もどこか出かけようかな」
「良いんじゃない? 息抜きに出かけても良いかもよ」
カーテンの隙間からは、明るい日差しが漏れている。
天気も良い。散歩日和だろう。
廊下の向こうから軽快な音楽が流れてくる。
おあつらえ向きに、洗濯機が洗濯終了のアラームを鳴らしてくれていた。
僕は椅子から立ち上がると、洗濯機から洗濯物をかごに移し替えて、リビングに戻ってくる。
カーテンを開けると、青い世界が僕を待っていた。
「干してくれるの? ありがとう」
「少しくらいは手伝わないとね」
外は風もない。
僕はかごいっぱいの洗濯物を一つ一つ干していく。
下に見えるバス停には、たくさんの人が並んでいる。
大人、子ども。子ども、子ども。大人。大人、大人。
あそこにも「ムラカミ」はいたのだろうか。
僕がベランダから戻ると、理子の姿は見えなかった。
自分の部屋に戻ったのかな。
僕はしばらくの間、開け放したカーテンの向こうの景色を眺めていた。
「夜までには帰るね」
程なくして着替えた理子が廊下の奥から出てきた。
「分かった」
僕は頷く。
質素な服装だ。
もっと似合うお洒落な服があるだろうに、といつも思う。
服装のセンスがない僕が言うのも、お門違いだとは思うが。
「別にゆっくりで良いよ。久しぶりの休日だろう」
僕は働いているようで働いていないようなものだ。
理子にこそ休日は必要だろう。
「そうかな? でもありがとう。お言葉に甘えてゆっくり見てくるね」
理子は柔らかく笑うと、バイバイ、と言った。
僕も「バイバイ」と言った。
鍵をかける音を残して、彼女は部屋を出る。
途端に部屋はがらんとして、広く感じた。
僕はひとり目をつぶる。
再び目を開けると、部屋が少し暗くなった気がした。
暗くなった隅の方から何かが、僕の方に向かって伸びてくる。
それは黒く塗りつぶされたクエスチョンマークだった、
部屋を構成する黒色の比率が、揺らぎながら増えて、ひっそりと僕の足元に黒い水たまりをつくっていく……。
そんな気がした。
僕は無性にコーヒーが飲みたくなった。
思い返せば今日はまだコーヒーを飲んでいないのだ。
僕は手早く着替えると、眼鏡とマスクをつけて、部屋の外に出ていた。
そこに何か答えがある気がして、その隠された答えを探そうと、理子の後をつけることにした。




