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彼女の残り香

作者: 邑沢 迅
掲載日:2026/03/03

第一章


1

 冬の朝は、いつも鉄の味がする。

 結露で白く濁った窓ガラスを指先でなぞると、指の腹から体温が奪われ、代わりに硬質な拒絶が伝わってきた。三十二歳。篠田春馬という名前の付いたこの肉体は、ただ生存という惰性を繰り返すためだけに、安物のパイプベッドから這い出す。


 鏡に映る男は、ひどく惨めだった。期待も絶望も使い果たし、ただ摩耗しただけの顔。僕が消えても、このワンルームの空気は何一つ変わらないだろうし、世界もまた、僕一人分軽くなったことに気づきさえしないだろう。


 凍ったアスファルトを踏みしめながら、駅へと向かう。吐き出す息は白く、まるで自分自身の命が少しずつ霧散していくような錯覚に陥る。通勤電車の不快な揺れに身を任せ、僕はただ、今日をやり過ごすことだけを考えた。


2

 オフィスに入ると、暖房の熱気と共に、馴染みのある微かな香りがした。


「おはようございます、篠田さん。……顔色が、あまり良くないですね」


 隣の席の佐藤さんが、こちらを見上げていた。ふわりと、優しく控めに纏う、バニラに似た甘い香り。彼女の気遣いは、とても自然で、僕にはとても眩しかった。


「……いえ、いつものことです。ありがとうございます」


 視線を合わせず、PCの電源を入れる。青白い光が網膜を刺した。


「篠田さーん! おはようございます! 昨日の資料、見ましたよ。完璧っすね!」


 背後から、北村くんの騒がしい声が降ってくる。彼はこの停滞したオフィスの空気を、無遠慮な土足で踏み荒らす才能に長けていた。


「人生、損してますよ! もっと笑いましょうよ」


 笑い飛ばす彼の背中を見送りながら、僕は胃の奥が重く沈むのを感じた。悪意のない光は、時として暗闇に住む者を焼き殺す。

 そんないつものやり取りを、早乙女部長が自席から心配そうな視線をこちらに送っている。


 正直、仕事は嫌いではないし、オフィスの皆もとても良い人たちばかりで、正直、僕には勿体ない。

 しかし、僕には皆の優しさや気遣いが負債のように感じられるのだ。


3

 夜、鍵を差し込み、重いドアを開ける。

 殺風景なワンルーム、声をかける存在などついぞ存在しない、いつもの景色、はずだった。

 しかし、玄関の三和土に立った瞬間、そこには明らかな「密度の違い」があった。

 ふわり、と鼻腔をくすぐったのは、懐かしさと哀愁を感じるあの香りだ。姿は見えずとも、その場所にある「心地よさ」の正体が彼女であるということを、本能が理解していた。


「……ただいま」

 

 暗いリビングに向かって、この家で初めての言葉を吐いた。

 リビングの椅子に、彼女の気配が座っていた。

 コンビニで買った粗末な弁当を広げる。いつもは砂を噛むような味しかしない食事が、今日は違った。向かいに「誰か」がいる。その気配を感じながら、僕は堰を切ったように話し始めた。

 北村くんの無神経な言葉、部長の視線から逃げ出したくなる感覚、佐藤さんの優しささえ重荷に感じてしまう醜い心。

 彼女は唇を動かさない。けれど、僕の脳裏には彼女の「答え」が、まるで染み入る水のように広がっていく。


 あなたは、優しすぎるだけよ。それは弱さではなく、感受性の豊かさなの。無理に笑わなくても、私はここにいるわ


 欲しかった言葉。一番触れてほしかった痛みに、彼女は正確に触れてくれる。

 孤独ではない夕餉。他人と交わす、他愛のない、けれどかけがえのない対話。

 それは、僕という欠陥だらけの人間が、ようやく「存在していい」と許された瞬間だった。


4

 それからの日々は、世界がその彩度を変えたようだった。

 週末、僕は近所のスーパーへ買い物に出かけた。

 彼女のメモに従って、野菜の鮮度を吟味する。


「こっちのトマトの方が、甘そうかな」

 

 ワンルームに帰り着くと、未だ言い慣れない「ただいま」という4文字。

 ただそれだけだが、僕にはとても新鮮で特別なもの。

 彼女はベランダへ、こっちこっちと手招きする。

 枯れ木ばかりだと思っていた冬の公園。けれど彼女が「見て」と言う場所に目を向ければ、寒椿が鮮やかに咲き誇り、冬の雀が忙しなく羽を動かしているのが見えた。

 これまで僕が見ていたのは、世界の「裏側」の灰色だけだったのだ。

 彼女というレンズを通した世界は、残酷なほどに美しく、温かかった。

 

 ベランダの手すりには彼女の手があったが、触れられないということは既に実証済みだ。だが、お互いの手を文字通り重ね合わせる。幸せだ。

 僕は初めて、この冬が早く過ぎ去り、春が来ることを心待ちにしていた。



第二章


1

 三月、世界が深い眠りから覚めようとしている。

 この数週間、僕たちの生活は色鮮やかな記憶で埋め尽くされていた。週末ごとに訪れた植物園や、海辺の公園。彼女は言葉を持たないが、確かに世界の美しさを教えてくれた。沈丁花の瑞々しさ、湿った土の匂い、そして彼女自身が纏う香りについても。


 アルストロメリア。気品ある佇まい。


「今日は、これにするよ」


 クローゼットの前で、僕は彼女が指し示した若草色のネクタイを手に取る。

 鏡の前で髪を整える。彼女の勧めに従って、少し短く、額を出すようにした髪型は、自分でも驚くほど見違えて見えた。仕上げに、彼女のお気に入りだというデイジーの香水をひと吹きする。ひだまりのような、無垢で明るい香りが全身を包み込んだ。


「……いってきます」


 玄関で振り返ると、そこには柔らかな陽光を背負った彼女の気配があった。


 いってらっしゃい。今日のあなたは、誰よりも素敵よ


 背中を押されるようなその確信が、僕の足取りをかつてないほど軽くさせた。


2

「おっ、篠田さん! おはようございます!」


 オフィスに入るなり、北村くんが弾んだ声を上げた。


「えっ、髪型変えました? めっちゃ爽やかじゃないっすか! そのネクタイの色も最高っすよ。なんか、春って感じっすね!」

「……ありがとう。少し、気分を変えたくてね」


 素直に礼を言うと、北村くんは「いいっすね!」と親指を立てて笑った。以前なら皮肉に聞こえた言葉も、今はただの心地よい風のように通り過ぎていく。

 自席に着くと、隣からふわりと甘い香りが漂ってきた。佐藤さんが、僕の方をじっと見つめている。


「……新しい香水、ですか?」


 彼女は少し驚いたように、けれど嬉しそうに目を細めた。


「はい。デイジーの香水です。変ですか?」

「いえ、とってもお似合いです。デイジー、素敵ですね。花言葉は『希望』。今の篠田さんにぴったりです」


 佐藤さんは自分の手首を少し寄せて、「私のこれは、ヘリオトロープ。お花って、素敵ですよね」と教えてくれた。


「最近、本当に表情が明るくなりましたね。何か、良いことがあったんですか?」


 佐藤さんの問いに、僕は迷わず答えた。


「はい。大切な人ができたんです。その人が、僕の世界を広げてくれるんです」


 佐藤さんは一瞬、やっぱり、といった風に微笑むと「そうですか。本当によかった」と、心からの祝福を向けてくれた。その瞳には、かつて僕を案じていた翳りはもうなかった。


3 

 屋上のベンチでコンビニの袋を開ける。

 風はまだ冷たいが、日差しの強さは確実に春のものだった。

 サラダとサンドイッチ。以前なら味も分からず詰め込んでいた食事を、今はゆっくりと味わう。

 ふと、自分の身の回りに起きた変化を反芻する。ネクタイの色、香水の香り、人との会話。そのすべてが彼女というフィルターを通すことで、棘を失い、柔らかな光へと変換されている。


 幸せすぎて、怖い。


 そんな贅沢な逡巡さえ、今の僕には心地よかった。


4

 午後の仕事中、早乙女部長に呼ばれて別室へ向かった。

 部長の傍らに立つと、微かに花の香りがした。ミモザ、だろうか。香水ではなく、丁寧に手入れされた衣服から漂う柔軟剤の匂いだろう。春を告げる黄色い花、ミモザ。その清潔感に溢れた香りは、部長の温かな家庭の平和を象徴しているようで、僕の心をさらに穏やかにした。


「篠田くん、最近の君の働きぶりには目を見張るものがある」


 部長は満足げに目を細めた。


「仕事の精度はもちろん、チームを明るくする人間性。一年前の君とは別人のようだ。……そこでだ、次の大規模プロジェクトのリーダーを、君に任せたいと思っている」


 それは、以前の僕なら逃げ出していたであろう大役だった。けれど、今の僕の背中には、彼女の掌がある。


「わかりました、やってみます。」


5

 夜、玄関を開けるなり、僕は彼女に報告した。


「部長に、プロジェクトを任せると言われたよ」

 

 部屋の空気が、歓喜に震えた。

 アルストロメリアの香りが、一際強く僕を包み込む。


 おめでとう、春馬さん。あなたが自分を信じた結果よ。私はずっと、あなたがこうなることを知っていたわ


 彼女は僕の胸に顔を埋めるように、静かに寄り添ってきた。

 僕は彼女の、形のない肩をそっと抱き寄せる。

 

 幸せだ。世界が僕を歓迎している、そんな風に思えた。



第三章


1 

 容赦なく照りつけ、肌を焼く陽光が燦々と輝く季節とは裏腹に、会議室はエアコンの空調が原因というだけではない、冷たい空気が充満していた。

 プロジェクトの進捗は、予定の数パーセント分だけ後ろに倒れていたのだ。

 クライアントとの進捗会議。張り詰めた空気の中、僕は資料を提示し、論理的な挽回策を説明する。以前の僕なら、この重圧に押し潰されて声が震えていただろう。


「……以上の工程調整により、最終納期に影響は出ません。ご安心ください」


 会議の終盤、北村くんが立ち上がり、自分のチームが招いたミスについて深々と頭を下げた。


「僕たちの確認不足です。篠田の説明の通り、ここからは全力で巻き返します!」


 彼の無鉄砲なほどの誠実さが、険悪になりかけた空気をわずかに和らげた。



 会議後、僕は彼に声をかける。

「北村くん、さっきはありがとう。あそこで自分から非を認めてくれたのは助かったよ」

「いえ、篠田さんに全部背負わせるわけにいかないっすから! ……お詫びと言っちゃなんですけど、今からランチ行きませんか? チームのやつらも篠田さんと話したがってます」


2

 オフィスの近くにある賑やかなイタリアンレストランで、北村くんたちは先ほどの会議の反省もそこそこに、僕への賞賛を並べ立てた。


「篠田さん、本当に変わりましたよね。昔はこう、壁がある感じだったのに」

「そう⋯かな?そうかも」


 数ヶ月前とはいえ、以前の自分を思い返すと顔の温度が数度上がる感じがする。


「そうですよ。……あ、そうだ! 今度の土曜、プロジェクトの決起会を兼ねて懇親会やるんですけど、篠田さんも来てくださいよ。もしよかったら、噂の『彼女さん』も連れてきてください!」


 北村くんの言葉に、テーブルが色めき立つ。曖昧に微笑みながら返した。


「彼女に、聞いてみるよ」


3 

 夜、彼女の待つ部屋に帰ると、僕はすぐに懇親会の話を切り出した。


「みんなが、君に会いたがっている。一緒に来てくれないか?」


 ……私はいけないわ、春馬さん


 彼女の思考が、凪いだ海のように静かに脳裏へ届く。


「どうして? 君は僕の、一番大切な人なのに」


 僕は食い下がった。幸せの絶頂にいる今、この幸福の輪の中に、彼女がいないことが我慢ならなかった。現実と、彼女という幻影の境界線が、熱に浮かされたように混濁していく。


「君を、みんなに紹介したいんだ」


 僕は彼女の細い手を握ろうと指を伸ばした。しかし、指先が触れたのは、空調で冷えたただの空気だった。空振りした手が、自分の膝を虚しく叩く。理解できなかった。


「こんなにも愛しているのに。……どうして、君に触れられないんだ」


 私が⋯も、あなたは⋯


 一瞬、耳鳴りのようなノイズが走り、彼女の気配が遠のいた気がした。


「……え? いま、なんて?」

 

……なんでもないわ。楽しんできて、春馬さん。私は、ここであなたの帰りを待っているわ


 その言葉は、どこか諦念を含んだように聞こえた。


4

 土曜の夜。駅前の居酒屋は、プロジェクトメンバーの熱気で溢れていた。


「さあ、プロジェクトも大詰め、ここからが正念場っすよ!乾杯!」


 北村くんの音頭で酒宴が始まる。佐藤さんも穏やかにグラスを掲げていた。


「それで篠田さん、彼女さんは……?」


 後輩の一人が期待を込めて尋ねる。僕は小さく首を振った。


「今日は……都合がつかなくて」


 少し顔が赤らんだ佐藤さんが、僕の横顔を覗き込むようにして尋ねる。


「篠田さん、彼女さんとはどこで知り合ったんですか? どんな方なのか、気になっちゃって」

「ええと、その……。花の、アルストロメリアっていうんですけど、の香りが良く似合って、とても穏やかで、優しくて、いつも僕の欲しい言葉をくれるんです」


 しどろもどろになる僕の答えは、客観的に聞けばひどく要領を得ないものだっただろう。佐藤さんの瞳に、微かな戸惑いの色がよぎる。


「……不思議な方なんですね。篠田さんが、それほど大切にされるなんて」


 彼女が何かを言いかけた時、酔った北村くんが割り込んできた。


「まあまあ! 今日は仕事のことは忘れて飲みましょう!」


 騒ぎの中心に戻っていく僕を見送りながら、佐藤さんはポツリと、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……篠田さん。アルストロメリアに、ほとんど香りは⋯」


5

「お疲れさまでした!」


 笑顔でメンバーと別れ、一人きりの夜道に出る。

 酒のせいで火照った頬を、夜風が撫でていく。

 充足感はある。自信もある。

 けれど、胸の奥に冷たい石を置かれたような違和感が、どうしても消えない。

 彼女は確かに部屋にいるはずだ。けれど、今夜の佐藤さんの視線や、触れられなかった彼女の指先を思い出すたび、自分の感覚が狂っていくような錯覚に陥る。 


 彼女は、たしかに、在るのだ。


「……ただいま」



第四章


1

 薄い壁一枚を隔てた向こう側で、獣のような声が咆哮を上げている。


「……またあの女?いい加減にして!」

「 うるさいんだよ、俺の勝手だろ!」

「生活費はどうするのよ!ねぇ!」


 いつもの光景だ。僕は自室の隅で膝を抱え、ただ嵐が過ぎ去るのを待っていた。火の粉さえこちらに飛んでこなければ、それはテレビの向こう側で流れる退屈なドラマと大差ない。


「お前さえいなければ、こんなことには……」


 不意にドアが開き、酒の臭いと共に父が入ってきた。ああ、今日はハズレだ。

 父は僕の腕を掴むと、手元でくすぶっていたタバコを僕の脇腹に押し付けた。焼けるような熱。腕や顔といった、他人に見える場所は避ける。それが、世間体を病的に気にする僕の父親らしさだった。

 でも、風呂に沈められて息が止まりそうになるよりは、マシだ。

 僕は痛みを感じる僕を、天井に近いところから眺めているもう一人の僕として見つめていた。僕は僕にとって、他人だった。


2

 翌朝、僕は平然とした顔で学校へ行く。

別にいじめられているわけではない。ただ、不潔な身なりと、子供らしくない淀んだ空気に、周囲の同級生たちは薄い膜を隔てたように遠慮がちだった。

 そんな僕を、補助教員としてクラスを回っていた高橋先生だけが気にかけていた。


「篠田くん、忘れ物はない?」


 僕はなぜそんなに気にしてくれるのか、いつも不思議だった。


3

 下校時刻、僕は自分の家が「アタリ」であることを祈りながら、校門へ向かっていた。


「篠田くん、ちょっといいかな」


 高橋先生に呼び止められた。誰もいない廊下。彼女は僕の目線に合わせて屈み込む。


「おうちで、困ったことはない? 痛かったり、怖かったりしない? なんでも、先生に言っていいのよ」


 脇腹の火傷が、衣服と擦れて鈍く疼いた。けれど、僕は首を横に振る。


「別に、ありません。」


我慢をしていれば終わるから。


「……そう。わかったわ」


 高橋先生はそれ以上踏み込まず、ただ僕の頭にそっと手を置いた。彼女が立ち去った後、廊下にはかすかな残り香が漂った。それは花のような、酷く安らぐ匂いだった。


4

 また春が来た。一応、四年生に進級できるらしい。出席日数が足りていたのは、家よりも学校の方が幾分か「静か」だったからだろう。

 高橋先生は、遠くの学校へ赴任することになった。


「篠田くん、あなたは本当はとても優しい子よ。自分を大切にしてね」

「はい、今までありがとうございました」


 彼女は最後まで僕を人間として扱ってくれ、気にかけてくれた。言っている意味が分からなかったし、僕は彼女の言葉以上に、彼女が去り際に残していくあの匂いが好きだった。


5

 中学を卒業したその足で、僕は家を出た。

 湿った壁の安アパート。夜間高校に通いながら、昼は工事現場や倉庫でバイトをして日銭を稼ぐ。自炊とも呼べない食事を摂りながら、僕はふと、あの高橋先生の匂いを思い出すことがあった。

 ドラッグストアやデパートの香水売り場を巡り、あの記憶の匂いを探してみることは何度かあった。けれど、どこにもない。

 あれはなんだったのか。

 高橋先生そのものの匂いだったのか。それとも⋯。

 

 ――今、僕の隣にいる彼女から漂う香りは、あの日の高橋先生の匂いに、どこか残酷なほど似ていた。


第五章


1

 窓の外では、街路樹が枯れた音を立てていた。

 秋めいてきた朝の空気は、僕の意識を鋭く削る。彼女はいつも通り、僕の隣で身支度を手伝ってくれていた。


……今日は、少し肌寒いかもしれないわね。コートを忘れないでね


 その声、その存在。いつも通りのはずなのに、どこか古いラジオの混信のように、わずかな遠さを感じた。霧の向こう側から話しかけられているような、もどかしい距離感。

 気のせいだ、と僕は自分に言い聞かせる。彼女がいない世界など、もはや僕には想像もできなかった。


2

 リリース当日。オフィスには、静かな、しかし沸騰直前の熱湯のような緊張感が満ちていた。


「……じゃあ、ボタン押しますね」


 北村くんが僕の顔を覗き込む。僕は深く頷いた。


「OK! 押しました! 田中さん、そっちは?」

「正しくデプロイされてます」

「三宅ちゃん、本番はどう?」

「本番ドメインでの接続……確認、できましたぁ!」


 歓声が上がる。僕は既に受話器を耳に当てていた。


「篠田さん、お客さんに……」


 北村くんが駆け寄ってくるのを、僕はジェスチャーで制し、親指を立てて「OK」のサインを送る。


「はい、予定通り完了いたしました。……ええ、ありがとうございます。失礼します」


 電話を切ると、オフィスは祝祭の熱気に包まれた。早乙女部長も、安堵と誇らしさが入り混じった顔で、何度も僕の肩を叩く。プロジェクト完遂。僕はふと、佐藤さんに視線を送った。彼女はまだ最終確認の画面に向き合っていたが、僕の視線に気づくと、画面から少しだけ視線を外し、小さく、サムズアップを返してくれた。


3 

 三次会が終わる頃には、夜風も冷たさを増していた。

 珍しく、僕も北村くんも、そして普段は節度を守る佐藤さんも、心地よく酔っていた。駅へ向かう道すがら、北村くんが千鳥足で僕に絡んでくる。


「篠田さーん、そういえば家、この近所でしたよね。いいじゃないっすか、彼女さんにご挨拶だけでもさせてくださいよー!」

「ちょっと北村くん、こんな時間に失礼だよ。篠田さんも困ってるでしょ」


 佐藤さんが窘めるが、プロジェクトを成功させた高揚感とアルコールが、僕の判断を狂わせていた。


「いいよ。きっと彼女も、喜んでくれる」


4

 重いドアを開ける。


「……ただいま」


 ――気配がない。

 いつも僕を出迎える爽やかな花の香りは消え、代わりに北村くんの纏うアルコールの臭いと、佐藤さんの香水の香りが無機質な廊下に充満した。


「あれぇー、いないんすかー? 彼女さーん、お邪魔しまーす!」


 北村くんが遠慮なく室内を覗き込む。


「……夜分遅くに、すみません。お邪魔します」


 佐藤さんは申し訳なさそうに頭を下げた。

 返事はない。リビングのソファも、キッチンも、静寂が鎮座していた。


「おかしいな……出かけたのかもしれない」

「あ、そうっすね。靴、ないですもんね」


 北村くんの何気ない一言が、鋭い針のように僕の胸に刺さった。靴。そうだ、彼女の靴なんて、最初から一足もなかったはずだ。


「また、今度、みんなでおいでよ。タクシー、呼んでおくから」


 僕はひどく冷めた頭でタクシーを呼び、二人を送り出した。静まり返った自宅に戻り、僕は再びドアを閉める。


5

「……ただいま。ごめんね、びっくりさせちゃったかな」


 暗い部屋に向かって語りかける。


「……ねえ、怒ってる? 急に連れてきたりして」


 僕はソファに近づき、その肩に手を置こうとした。

 ふわりと、微かな香りと気配が戻ってきた。アルストロメリアとは違う、もっと甘やかな、どこか現実味を帯びた異なる香り。


「篠田さん、……誰と話してるんです?」


 背後から届いたのは、彼女の「思考」ではなかった。

 振り返ると、そこには忘れ物をしたのか、あるいは心配で戻ってきたのか、立ち尽くしている佐藤さんの姿があった。

 彼女の視線は、僕が優しく語りかけていた「空っぽのソファ」を、冷酷なまでに真っ直ぐに射抜いていた。



第六章


1

 季節は再び、冬へと回帰した。

 プロジェクトの成功後、僕のキャリアは順調そのものだった。しかし、僕の内側はボロボロに崩れ落ちていた。あの日、自宅で佐藤さんに詰め寄られた際、僕は必死に彼女の存在を説明しようとした。けれど、僕が「彼女が座っている」と指し示した場所には、冷えた空気と使い古されたソファの布地があるだけだった。

 佐藤さんはそれ以来、オフィスでは何事もなかったかのように振る舞ってくれている。その配慮が、今の僕には何よりも残酷な拒絶に感じられた。

 最近、彼女は自宅にいないことが多くなった。問いかけても沈黙が返ってくる。

 僕は、耐えられなかった。ある休日の午後、西陽の差し込む部屋で、僕はついに虚空に向かって叫んだ。


「君は、なんなんだ! 答えてくれ、君がいないと僕は……!」


2

 その時、かつてないほどに、彼女の気配が明瞭になった。

 

 春馬さん……それは……


 彼女は僕のすぐ隣に座り、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。


 私は、あなたが作り出した幻。あなたが壊れないために生み出した、心の免疫のような存在

 あなたは心の底では、今のように……誰かに認められ、笑って過ごす日々を望んでいた。私は、あなたのその願望そのもの


 脳が焼け付くような衝撃だった。彼女は僕の背中を押すためだけに現れ、僕が理想の自分に近づくたびに、その役割を終えて消えていくのだという。


「そのあと、どうなる。君がいなくなったら、僕はどうなるんだ!」


 あなたが、一番よくわかっているはずよ。春馬さん


 混乱した。そこに在る、確かにそこに在るはずの彼女。この一年のすべてを共に歩んだ彼女が、僕の脳が見せた夢だというのか。そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。


「君なしでは……君なしでは、この世界に立っていられないんだ!」


3

 あの日以来、僕の思考は灰色の霧に包まれたままだった。

 仕事はこなしている。けれど、それはプログラミングされた機械の動作と変わらない。佐藤さんが、心配そうに僕のデスクに近づいてきた。


「篠田さん、お疲れですか? 顔色が……。やっぱり、彼女さんのことで、何か……」

「やめてくれ!!」


 自分でも驚くほどの怒声が、静かなオフィスに響き渡った。全員が凍りついたように僕を見る。


「彼女は、彼女は確かに在るんだ! 誰にも、否定させない……!」


 佐藤さんは、驚きと悲しい表情で「すみません」とだけ言い、視線を落とした。散らかった思考を抱え、僕は逃げるように会社を飛び出した。


4

 玄関を開ける。

 けれど、そこにはもう、わずかな気配さえも無くなっていた。


「……いないのか? また、出かけているだけだろ?」


 返事はない。ただ、冬の冷たい風が建付けの悪い窓から入り込み、僕の首筋を撫でる。

 彼女は、消えたのだ。僕が「正常」になったから。僕が社会の一部として完結してしまったから。彼女という抗体は、僕という個体の中に完全に吸収され、二度と分離することはない。

 ああ、そんな。

 彼女のいない世界に、どんな意味があるというのか。

 僕を救ってくれたのは、社会の評価でも、同僚の友情でもない。暗闇の中で、僕の醜さをそのまま愛してくれた、あの実体のない温もりだけだった。


 僕は震える手で、救急箱から大量の錠剤を取り出した。

 彼女を殺してまで手に入れたこの「正常な世界」を、僕はどうしても愛することができなかった。

 手のひらの上の白い粒を見つめていると、不意に爽やかな透明感のある香りが鼻腔を擽る。気づくと、僕の足元には一面、見事なスイレンが咲き誇っていた。


 意識が混濁し始める直前、窓の外に舞い始めた雪が、スイレンの花弁と重なり、彼女の白いワンピースの裾のように見えた気がした。


 彼女は、確かにそこに在ったのだ。


エピローグ


 翌日、会社へ来ない篠田さんを不審に思った早乙女部長が人事に連絡。

 その後の部長の報告に皆、凍りついた。

 オフィスは、深い泥の中に沈んだような静寂に包まれていた。


「嘘だろ……あんなに絶好調だったじゃないですか。これからだったのに」


 北村くんはデスクに突っ伏し、隠そうともせず肩を震わせている。早乙女部長も、やり場のない憤りを隠すように、何度も何度も眼鏡を拭き直していた。

 みんな、信じられないという顔をしている。

 けれど、私は知っていた。あの日、彼の部屋の暗がりに向かって、私が確かに感じた、あの異常なまでの「執着」と「欠落」を。


 私は彼を止められたのだろうか。

 あの日、彼が虚空に語りかけていた時、その肩を強く掴んで、現実へと引き戻すべきだったのか。

 けれど、私にはできなかった。彼の瞳に宿っていたあの光があまりに純粋で、そしてあまりに危うくて、下手に触れればガラス細工のように砕けてしまうのが分かっていたから。怖かったのだ。彼が愛しているという「彼女」の正体が、私には見えないという事実が。


 皮肉なことだと、思う。

 彼を死に追いやったのは、間違いなく彼が作り出した「彼女」だった。けれど、彼に生きる気力を与え、凍りついていた心を解かし、周囲が驚くほど「より良い方向」へ彼を導いたのもまた、彼女だった。

 篠田さんのデスクを片付けていると、ふわりと、あのデイジーの香りがした気がして手が止まった。

 それはすぐに冬の冷たい空気に溶けて消えてしまったけれど。

 狂気の末の破滅だったのか。それとも、至福の果ての成就だったのか。

 その正解は、もう誰にも分からない。












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