第3話 黒猫VS骨
サルート村の朝は早い。
レルの前には昨日から世話になっている髭面の主が、ずっしりと重い布袋を抱えて立っていた。
「本当に、いいのですか? これほど多くの食料や水を……」
レルが申し訳なさそうに問いかけると、主はガハハと豪快に笑い、袋をレルの胸に押し付けた。
「いいんじゃよ。あんたら、これから王都に向かうんじゃろ? 王都はこの辺境からはかなり離れている。若者の旅には、情熱よりもまず飯が必要だ。これは俺からの気持ちだよ。あんたが昨日あの男を担いで村に来た時、この村に流れる『助け合い』の風を感じたのさ」
レルは深く、深く頭を下げた。
騎士団にいた頃、民から感謝されるのは日常だったが、今の自分はすべてを失った脱走兵のような身の上だ。
その自分に向けられた無垢な善意が、胸に熱く染み渡る。
「……このご恩は、必ずお返しします。いつか、必ず」
「ああ、期待してるぜ!」
村の広場の方を見つめていたヒロトが、低く鋭い声を出した。
「……おい、騎士様。あれ、なんだ?」
レルの背筋に冷たいものが走った。ヒロトが指差す先、村の広場の中央に、一人の男が立っていた。
ボロボロの灰色の服を纏い、陽光の下だというのにその周囲だけが薄暗い影に沈んでいるような、異様な雰囲気を醸し出している。
近くにいた村人が、不審に思って声をかけた。
「あんた、見ない顔だね。どこから来たんだい?」
「…………」
男は答えない。ただ、がたがたと小刻みに震えている。
「おい、聞いてるのかい? 大丈夫か、あんた。顔色が……」
村人が男の肩に手を置こうとした、その瞬間だった。
「頭の……中が……。頭の……中がぁ……ッ!!」
「え、何て?」
「頭の中が見たいんだよおおおぉぉッ!!」
男が絶叫した。
次の瞬間、男の全身からおぞましい「赤いモヤ」が噴き出した。
バキバキと肉を裂き、骨が組み変わる嫌な音が広場に響き渡る。赤い霧が晴れた時、そこにはもう人間の姿はなかった。
全身を白濁した骨の装甲が包み、顔面は生気のないスケルトンのような骸骨。
その右手には、自らの背骨を引き抜いたかのような、禍々しい骨の長剣が握られていた。
「ひ、ひぃっ! 化け物だぁ!」
声をかけていた村人は恐怖で腰を抜かし、尻餅をついたまま動けなくなる。平穏な村は一瞬にしてパニックに陥った。
「頭の中を見せろぉぉぉッ!」
スケルトンの怪物が咆哮し、腰を抜かした村人へ向けて骨の剣を振り上げた。
「やめろ!」
叫ぶよりも早く、レルが飛び出した。
丸腰、鎧なし。それでもレルの体は本能的に動いていた。
「うおおおっ!」
レルは全力のタックルをスケルトンの脇腹に見舞った。
硬い。岩を殴ったような衝撃が肩に走ったが、どうにか村人の上から怪物を引き剥がすことに成功する。
「貴様ぁ、邪魔をするなぁっ!」
怪物は体勢を立て直し、すぐさまレルへ剣を突き出してきた。
丸腰のレルには防ぐ術がない。死角からの鋭い突き――。
「――おっと。騎士の退場にはまだ早いぜ!」
横から飛んできたクロトの鋭い蹴りが、スケルトンの側頭部を捉えた。
ガィィン! と金属音が鳴り、スケルトンの首が不自然に曲がる。怪物はよろめきながら距離を取った。
「大丈夫か、レル」
「ああ、助かった……。ヒロト、こいつは何だ? 普通の魔物とは雰囲気が違うぞ。あの赤い霧、俺の体に埋め込まれた石の光に似ていた……」
「さあな。だが、こいつを放っておくわけにもいかないだろ。……クロ、出番だ!」
ヒロトが黒い魔石を掲げると、中から黒い光が弾け、生意気な黒猫が姿を現した。
「なんだよ急に呼び出し……てええっ!? なんだあれ、気持ち悪りィ! 趣味悪いニャ!」
「話は後だ。クロ、力を貸せ!」
「へいへい。ったく、人使いが荒いんだから」
レルも拳を固め、前に出ようとする。
「ヒロト、俺も戦う!」
「だめだ」
ヒロトが短く、拒絶した。
「なぜだ! お前が強いのは分かっている。だが、俺だって騎士だ! 足手まといには――」
「今のお前は、剣を持たない騎士だろ? そんな拳で骨を殴っても、自分の手を壊すだけだ。……ここは、俺達に任せな」
「くっ……」
レルの悔しげな表情を見て、ヒロトはニカッと不敵な笑みを浮かべた。
「安心しろって。あんなガイコツ、一人でもちょちょいのちょいさ」
「一人じゃにゃいだろ! 俺様を忘れるな!」
「そうだったな。一人と一匹だ」
「そうじゃにゃい! そこは『二人』だろ、このバカ主!」
「細かいことは気にすんな。いくぞ、クロ! 『変身』!」
黒煙が爆発するようにヒロトを包み込んだ。クロがヒロトの影へと溶け込み、煙の中から漆黒の毛並みを持つ姿を現す。
立ち上がる黒煙、闇よりも深い体。黄金の瞳が、スケルトンの怪物を射抜いた。
「さあ……いくぜ」
「オオオォォォッ!」
スケルトンの怪人が、骨の剣を振り回しながら突進してくる。その動きは死者のように鈍重ではなく、驚くほどしなやかで速い。
だが、変身したヒロトの動きはそれを遥かに上回っていた。
「遅いな」
ヒロトは紙一重で剣をかわすと、巨大な肉球を持つ左手で怪人の胸部を強打した。
ドォォン! と重低音が響き、スケルトンの骨装甲にヒビが入る。
「ガァッ!? 貴様……何者だ!」
「通りすがりの猫好きだよ!」
ヒロトは追撃の手を緩めない。四足歩行に近い姿勢から、爆発的な跳躍で怪人の背後を取る。
「クロ、出力を上げろ!」
「分かってるニャ! 振り落とされるなよ!」
ヒロトの背後から噴き出す黒煙が、まるでジェットエンジンのように推進力を生み出す。
怪人は叫びながら、自分の周囲に骨の棘を無数に発生させた。全方位への同時攻撃。
「危ない!」
レルの叫び。だがヒロトは笑っていた。
彼は空中で体を捻ると、黒煙を盾のように展開して棘を弾き飛ばし、そのまま怪人の脳天へ向かってかかと落としを見舞った。
バキィィィッ!
怪人の頭蓋が砕け、地面に激しく叩きつけられる。広場の石畳がクモの巣状に割れた。
だが、怪人はボロボロになりながらも立ち上がる。その瞳には、狂気的な赤い光が宿っていた。
「頭の中……あの方に見せるんだ……俺の、忠誠を……っ!」
怪人の全身から、さらに濃い赤い霧が溢れ出した。骨の剣が肥大化し、禍々しい大剣へと変貌する。
「あの方……だと?」
ヒロトの黄金の瞳が細められた。
ヒロトが腰を深く落とし、右拳を後ろに引いた。
周囲の黒煙が渦を巻き、すべてがその右手に吸い込まれていく。
煙は凝縮され、高密度な魔力へと変わった。
「いくぜ!ガイコツ!」
「……!」
ヒロトの右拳が、触れるものすべてを消し飛ばさんばかりの威圧感を放つ。
「これでおしまいだ。……『黒砕破』!」
ヒロトが地を蹴った。
強力な一撃が、スケルトンの胸部中央――魔力の核へと突き刺さる。
ドォォォォォォォォン!!
衝撃波が村の広場を駆け抜け、家の窓を震わせた。
凝縮された黒い気が怪人の体内で爆発し、内側から骨の装甲を粉々に粉砕していく。
「ア……ガ、……ア……」
赤い霧が霧散し、光が消える。
スケルトンの姿は崩れ、元の男の姿へと戻っていった。
しかし、その体はもはや生命を維持していなかった。男の体は、まるで数百年放置された古文書のように、指先からパラパラと「砂」になって崩れていく。
最後には、彼が着ていたボロボロの服だけが地面に残された。
「終わった……のか?」
レルが呆然と呟く。
ヒロトは元の姿に戻り、肩にクロを乗せて大きく息を吐いた。
「あれは一体、何だったんだ……」
「分からない。だが、あの感じは見覚えがあるぜ。あの施設の地下にいた人型の魔物……あいつらと似た、吐き気がする魔力の臭いだ」
「……あいつらが、俺たちを追ってここに来たのか?」
「かもな。ガスマスクたちの手先が、この村に寄ったのだろう」
村に戻ると、隠れていた村人たちが恐る恐る出てきた。
腰を抜かしていた村人がレルの手を握り、「ありがとうございました!」と涙ながらに感謝を述べる。
だが、レルの心は晴れなかった。
(俺たちがこの村に来たから、あいつらが現れた……。俺たちがここにいれば、また誰かが巻き込まれる)
「本当にもう行くのかい?」
髭面の主が、寂しそうに尋ねた。
「ええ。ここに長居するわけにはいきません。……部屋を貸していただき、本当にありがとうございました」
レルは深く礼をし、ヒロトと共に村を後にした。
村の外れ。森へと続く一本道。
しばらく歩いたところで、ヒロトが「なーっ!」と大声を上げた。
「なあ騎士様よ。村を出たのはいいけど、このまま王都に向かうのか? このペースだと王都に着く前に俺の足が棒になって、クロの餌になっちまうよ」
「……安心しろ」
レルは主がくれたバッグから、古びた羊皮紙の地図を取り出した。主は食料だけでなく、旅に必要な道標まで用意してくれていたのだ。
「まずは、ここ『ゼメナの街』に向かう。ここで情報収集をするんだ。今の俺たちにはあまりにも情報がない。それに、装備も物資も、そして何よりあいつらの正体を知る手がかりが必要だ」
「なるほどね、ゼメナか。……で、そこまではどれくらいで着くんだ?」
レルは地図を指でなぞり、真顔で答えた。
「歩いて一週間だな」
「…………」
ヒロトの顔から、すべての活気が消えた。
「一週間! 無理無理無理! 歩けなくなるよ! 死んじゃうよ俺!」
「お前……あんなに強いのに、弱音を吐くなんて」
「だって考えてみろよ! 俺だってガスマスク共に捕まってたんだぜ? 体力ガタ落ち、リハビリ生活なんだよ。一週間歩き続けるなんて、きつすぎるリハビリだろ!」
「弱音を吐く余裕があるなら、まだ大丈夫そうだな。ほら、行くぞ」
「そんなーっ! 誰か、馬車を! 猫車でもいいからーっ!!」
ヒロトの悲痛な叫びが、静かな森に虚しく響き渡る。
レルは呆れ顔を隠さず、しかしその横顔には、新たな仲間への信頼が微かに宿っていた。
だが、そんな二人の背後。
生い茂る木々の影から、一つの視線が彼らをじっと見つめていた。
それはガスマスクでも、先ほどの怪物でもない。
不気味に静まり返った森の中で、その影は音もなく、二人の足跡を辿り始めた。




