第2話 旅の始まり
窓の外から、のどかな鶏の声が聞こえてくる。
差し込む朝日はあまりに眩しく、昨日までの地獄が嘘のようだった。
「……う、く……」
レルは、ゆっくりと上体を起こした。
全身を、鉛のようなだるさが支配している。
胸の奥――魔石を埋め込まれた場所に、奇妙な熱が居座っているのを感じた。
生きている。それだけは、確かな事実だった。
部屋を出ると、香ばしいパンの焼ける匂いと、薪がはぜる音が鼻腔をくすぐった。
「おお、目が覚めたか。無理はしなさんなよ」
声をかけてきたのは、立派な髭を蓄えた初老の男だった。この家の主だ。
レルは乱れた髪を整え、騎士らしい礼節を保って頭を下げた。
「……おはようございます。おかげさまで、体調は万全です。通りすがりの我々に、これほどの食事と部屋を貸してくださるなんて。感謝しきれません」
「ははは! 固い、固いよあんた。困っている人がいたら助け合い、それがこのサルート村の流儀さ。うちは魔石を掘って食ってる、しがない掘り師の家だが、休む場所くらいはいくらでもある」
男が笑いながら、木皿に盛った熱々のスープを差し出してきた。
ここは王都から遠く離れた辺境の地、サルート村。村の貴重な財産である『ルート洞窟』で採れる魔石を売ることで、細々と、しかし力強く生きている人々が集まる場所だ。
「それより……もう一人の方は、まだ起きてこないのかい?」
主の問いに、レルは昨日、自分を背負って逃げてくれた『異形の猫』の姿を思い出した。
「……少し、様子を見てきます」
レルは主にもう一度礼を言い、隣の部屋の扉の前に立った。昨夜、力を使い果たして倒れ、元の姿に戻ったあの男。レルが必死に背負ってここまで運んだ、命の恩人。
レルは、扉を勢いよく開けた。
「おい、起きろ! もう朝だぞ!」
部屋の真ん中で、男はだらしなく大の字になって寝ていた。いびきまでかいている。そののんきな顔を見ていると、騎士団で規律正しく生きてきたレルのこめかみに、小さな青筋が浮かんだ。
(……恩人ではあるが、あんなふうに無防備に眠れる神経は理解できん)
「……んぅ? あと、じゅう、ぷん……。ステーキは、ウェルダンで頼むぜ……」
「寝ぼけてないで起きろ!」
「ギャフンッ!?」
レルの容赦ない一撃が、男の腹部に沈んだ。
男は飛び起き、お腹を押さえながら涙目でレルを睨みつける。
「い、痛ってぇな! なんだよ、淑女を起こすような優しさは持ち合わせてないのかよ、騎士様!」
「あいにく、俺の目の前にいるのは不潔な野郎だけだ。いいか、お前には聞きたいことが山程あるんだ」
「……イタタ。そんなに激しく起こさなくたっていいだろ。もしかして、俺の体が目当てか?」
「違う!……ったく、お前というやは……」
レルは椅子を引き寄せ、男の正面に座った。
空気は一変し、真剣な眼差しが男を射抜く。
昨日、俺たちは必死であの場所から逃げた。
出口を出ると、そこは俺の知っている戦場からはかけ離れた、荒野のど真ん中だった。
こいつは急に元の姿に戻って意識を失った。
俺がこの男をを担いでここまで歩いてきた。
「……ああ、そうだったな。悪い、助かったよ」
「事情を説明したら、この家の主が部屋を貸してくれた。だから今がある。……で、本題だ。お前は、あのガスマスクの連中とどんな関係なんだ?」
男は少し視線を落とし、頭をかいた。
「だから言っただろ、俺もあいつらに捕まってた被害者なんだって」
「じゃあ、なぜ捕まった? あの力は何なんだ?」
「……それがさ。実は俺、記憶喪失らして」
「は……?」
レルは耳を疑った。あまりにありきたりで、そして無責任な言葉だったからだ。
「気づいたらあの牢屋にいた。名前と、最低限の知識以外は真っ白だ。多分、お前と一緒で捕まって実験のモルモットにされてたんだと思う」
レルは男の瞳をじっと見つめた。騎士として多くの人間を見てきたレルの直感が、この男が嘘をついているようには見えないと告げている。どこか投げやりだが、その奥には深い孤独が張り付いているようにも見えた。
「……なら、あの力はなんだ? あの異形の猫のような姿。まさか、ガスマスクたちに何かされたのか?」
「いや、それは違うと思うぜ。……こいつのおかげだからな」
男が懐から、一辺が三センチほどの「黒い魔石」を取り出した。
ガスマスクがレルに埋め込んだ禍々しい赤い石とは対照的な、静かな闇のような石。
「出てこい」
男が呟くと、石が淡い光を放ち始める。
光が収まった後、ベッドの上に、二足歩行で立つ一匹の小さな猫が現れた。
毛並みは艶やかな黒。金色の瞳。そして首には小さな鈴が揺れている。
「……は?」
レルは唖然とした。あまりに可愛らしい、しかし不遜な態度で立つその猫を、指差して絶句する。
「猫……!?」
「猫じゃニャい! 俺様の名前は『クロ』だ。クロさんと呼べ、この野蛮な人間め!」
黒猫――クロが、前足を腰に当ててレルの鼻先に突きつけた。
「おい、こいつは一体何なんだ!」
「俺もよく分からん。気づいたらこの石を持ってて、こいつを呼べたんだ」
「……なあ、クロ。お前、こいつの記憶がない部分、何か知ってるんじゃないか?」
「だから猫じゃなくてクロだと言っているだろ! 俺様だって、気がついたらこいつに呼ばれてたんだよ。あんたがバカだから俺様まで苦労するんだ」
クロはぷいっと顔を背けた。どうやらこの使い魔のような猫も、確信的なことは何も知らないらしい。
「……それじゃあ、あの姿はどうやったんだ? あの黒煙を纏った猫の……」
「あー、あれはこいつの力を借りたんだよ。おそらくこいつは『召喚獣』ってやつだろ? 召喚獣には、主と一体化する魔法があるのを思い出してさ。試しにやってみたら、上手くいったってわけだ。名付けて『召喚変身』」
「召喚変身……」
レルの脳裏に、かつての騎士団の文献で読んだ高度な魔法体系の記憶が蘇る。
「……待て。それなら、その召喚変身をして、最初からあの檻を壊せたんじゃないか?」
「無理だな。あの檻は『魔封石』でできていた。あの中では魔法そのものが使えない。召喚はできても、僕自身の魔力を変換できなきゃ、あの姿を維持できないんだよ。しかも……」
男は、隣で毛繕いをしている小さなクロを指差した。
「クロは、召喚するだけならクソ弱いしな」
「何だとおおおっ!? 俺様だって本気出せば凄えんだぞ! 第一、召喚者であるあんたがよわよわだから、俺様の力も本来の半分も出ねえんだよ!」
「あー、何だとこのクソ猫!」
「何だとこのザコ主!」
一人と一匹が、ベッドの上で取っ組み合いの喧嘩を始めた。
あまりの幼稚さに、レルはこめかみを押さえて深く息を吐いた。昨日、自分を救ってくれた英雄の影は、どこにもなかった。
「……おい、ケンカはやめろ! 今はそれどころじゃないだろう!」
レルの大声に、二人はびくっとして動きを止めた。
「ちぇっ……まあいい。それより、これからどうするかだよな」
男が真面目な顔に戻り、ベッドの端に腰掛けた。
「そう言えば、騎士様。あんたは何であんなとこにいたんだ? 捕まるようなヘマをするタイプには見えないが」
レルは少し黙り込み、それからポツポツと語り始めた。
自らの背中を貫いた、騎士の剣。城壁での戦い。そして、気がついたときには実験台の上にいたこと。
「……ふーん。裏切り、ね」
男が顎に手を当てて考え込む。
「なら、騎士団の中にガスマスク共の内通者がいるって線が濃厚だな。あんたを捕まえて、どこぞの怪しい組織に売り飛ばしたわけだ」
「そんなことは……考えたくはない。だが、確かにあの時背中を刺したのは、騎士団の剣だった。魔物が化けていたとは考えにくい……」
「だろ? そんな状況でさ、あんたは『騎士団』に戻るつもりなのか?」
男の言葉が、レルの胸に鋭く突き刺さる。
「今、俺たちをあのガスマスクたちが必死に追っている可能性が高い。ここに長居すれば、この村の人たちに危害が及ぶ。……だが、内通者がいるかもしれない場所に、帰るのも自殺行為だろ?」
「……分かっている。それは、分かっているんだ」
レルの拳が震えていた。
裏切り。屈辱。体に埋め込まれた不気味な魔石。
普通ならば、どこか遠くへ逃げて、新しい人生を歩むのが賢明だろう。しかし――。
「だが、騎士団に裏切り者がいるのなら、そいつを放っておくことはできない。俺の仲間たちや、守るべき人々が、今もそいつに騙されているかもしれないんだ。……俺は戻る。戻って、裏切り者をこの手で捕まえる」
「自ら敵陣に突っ込むってか。熱いねぇ、騎士様は」
「覚悟はできている。たとえ、これが罠だとしても」
レルが立ち上がり、出口へ向かおうとした。その背中に、意外な言葉がかけられた。
「ふーん。なら、付き合ってやるよ」
レルは足を止め、驚いて振り返った。
「……なっ、正気か? お前には関係のないことだ。命を捨てるような真似はするな」
「関係なくはないさ。あのガスマスクたちを追えば、もしかしたら俺の記憶を思い出すヒントがあるかもしれない。それに……」
男は立ち上がり、ニカッと笑った。
「安心しろって。記憶はなくても、俺は強いからな。あんた一人じゃ、また背中を刺されて終わりだぜ?」
「……お前……」
不敵で、少しだけ頼もしい笑顔。
レルはため息をつきながらも、どこか心が軽くなるのを感じた。
「本当に、いいのか?」
「いいさ。逃げる生活よりはマシだろ? クロ、お前もいいな?」
「ふん。主がそう言うなら仕方ないニャ。俺様もあのガスマスク共には借りがたっぷりあるしな」
クロが鼻を鳴らし、男の肩に飛び乗った。
「……そういえば、自己紹介がまだだったな」
男が右手を差し出してくる。
「俺の名前は、ヒイラギ・ヒロト。よろしくな、騎士様」
レルはその手を、力強く握り返した。
「レル・レイグラスだ。……よろしく、ヒロト」
窓の外では、サルート村の人々が今日も魔石を掘りに洞窟へ向かっている。
平穏な村を背に、奇妙な二人と一匹の、反撃の旅が始まろうとしていた。




