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第1話 騎士と猫


「引くな! 膝を折るな! ここで食い止めねば、この先の城下で待つ家族がどうなるか分かっているはずだ!」


 最前線に、団長の声が轟いた。


 兵士の振るう長剣が、魔物の分厚い外殻を断ち割り、青黒い体液を撒き散らす。周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図だ。地を揺らす咆哮、肉を食らう音、そして仲間の断末魔。


「団長! 右翼が崩れます!」


「分かっている! 予備兵を出せ! 騎士団の誇りに懸けて、一歩も退くな!」


 レルは必死だった。彼にとって騎士とは、ただの役職ではない。弱き者を守るための盾であり、魂そのものだった。


 だが、その高潔な魂が、最悪の形で裏切られる。


「……ぁ、……?」


 視界が不自然に揺れた。

 熱い。背中に、熱鉄を流し込まれたような衝撃。


 遅れて、自分の腹部から、見覚えのある白銀の剣先が突き出しているのが見えた。


「な、……ぜ……」

 

 答えはない。崩れ落ちる膝。視界は急速に色彩を失い、押し寄せる魔物の咆哮も、兵士たちの叫びも、すべてが深い闇の底へと吸い込まれていく。


(……まだ、俺は……ここで、終わるわけには……)


 伸ばそうとした指先は虚空を掴み、レルの世界は漆黒に塗り潰された。



 カツン、カツン。


 冷たく、規則的な音が響く。


「……が、……はっ!」


 大きく息を吸い込み、跳ねるように意識を取り戻した。


 肺を刺すような、消毒液と焦げた魔力の混じった異臭。


「……ここは……どこだ……」


 重いまぶたを持ち上げると、そこは戦場ではなかった。


 石造りの壁、剥き出しの鉄パイプ、そして――自分を見下ろす異様な集団。


 彼らは皆、奇妙なガスマスクを被り、感情の読めないレンズをこちらに向けていた。


「おい、お前ら……誰だ……! 」


 叫ぼうとしたが、口の中が渇ききっていて声が掠れる。


 体を動かそうとすれば、カチャリと金属の擦れる音がした。

 両手、両足には頑強な鉄の手錠で拘束され、冷たい実験台に固定されている。


「……覚醒を確認。魔力許容限界、測定準備」


「開始しろ」


 ガスマスクの男たちは、レルの問いかけなど塵ほども気にかけていない。


 一人の男が、革袋の中から「それ」を取り出した。


「な……んだ、それは……」


 レルの瞳が恐怖に染まる。


 男の手にあるのは、禍々しく拍動するように光る、深紅の魔石だった。それはまるで、生き物の心臓を引きずり出してきたかのような、おぞましい気配を放っている。


「よせ……何をする! 来るな! くるなあああッ!!」


「固定しろ。暴れさせるな」


 数人がかりでレルの体を押さえつける。

そして、ガスマスクの男は躊躇いもなく、その光り輝く魔石をレルの胸部――先ほど剣で貫かれたはずの傷痕へ、力任せに押し込んだ。


「――――ッ!!!」


 声にならない叫び。

 全身の血管に煮えたぎる鉛を流し込まれたような、壮絶な激痛が走った。

骨が軋み、筋肉が収縮と膨張を繰り返す。

視界が真っ赤に染まる。意識が細かく砕け、濁流に流されるような感覚。


(死ぬ……、死…ぬの…か……!)


 ガスマスクたちのレンズが、赤く反射して不気味に輝く。彼らはただ、レルの体が激痛で跳ね回るのを、事務的な手つきで記録していた。


 だが、意識が完全に断絶しようとしたその時。


 赤く濁った視界の向こうに、一人の女性が立っていた。


 美しい、白銀の髪を持った女性。彼女は悲しげに目を伏せ、しかし確かな慈愛を込めて、レルに微笑みかけた。


 彼女がそっと、レルの胸に手を触れたような気がした。


 瞬間、暴走していた紅い熱が、一点に収束していく。


「……う、おおおおおおおおおっ!!」


 咆哮が、地下室の空気を震わせた。

 内側から溢れ出す、未知の力。


 バキィィッ!


 轟音と共に、四肢を拘束していた鉄枷が、まるで枯れ枝のように粉砕された。


「なっ!? 手錠を、引きちぎっただと!?」

「バカな、抑制剤が効いているはずだぞ!」


 慌てふためくガスマスクたち。レルはふらつきながらも立ち上がり、本能のままに目の前の男を突き飛ばした。


 重い鉄の扉を肩でぶち破り、迷路のような廊下へと飛び出す。


「はぁ、はぁ……っ、死んでたまるか……あんなところで……!」


 背後から警報音が鳴り響く。

 出口を探して走り続けるが、そこは幾重にも枝分かれした地獄の回廊だった。

 どの扉を開けても、中にあるのは不気味な実験器具か、あるいは――死体だけだ。


「おい、こっちだ! 逃がすな!」


 追手の声。だが、曲がり角から現れたのは「人間」ではなかった。

 皮膚は灰褐色に変色し、理性を失い、獣のようなよだれを垂らす人型の怪物。

 かつて人間だったであろう「それ」が、異様な速度でレルに飛びかかってくる。


「くそっ、化け物まで放し飼いかよ!」


 レルは床に落ちていた鉄パイプを拾い上げ、化け物の顔面を殴り飛ばした。だが、一体倒しても、奥の闇から二体、三体と這い出してくる。


「……っ、くそ!」


 レルは近くにあった重厚な鉄の扉をこじ開け、中へ滑り込んだ。


 すぐさま扉を閉め、近くにあった錆びた棚や重い木箱をこれでもかと積み上げる。


 ドォン! ドォン!


 扉の向こうから、化け物たちが体当たりする音が響く。鉄板が歪み、建付が悲鳴を上げている。突破されるのは時間の問題だ。


「……もう、飯の時間かい?」


 不意に、暗闇の奥から声がした。

レルは心臓が止まるかと思うほど驚き、鉄パイプを構えて身構える。


「誰だ!」


「おっと、物騒だね。飯の時間にしては少し早いし、今日のメニューは鉄パイプかい?」


 暗がりに目が慣れてくると、そこには頑丈な鉄格子があった。

 その奥に、ボロボロの布切れを纏い、地べたに座り込んでいる男がいた。


 痩せこけてはいるが、その瞳だけは異様に澄んでいて、どこか食えない雰囲気を持っている。


「お前……ガスマスクの仲間か?」


「心外だね。僕を見て仲間だと思うなら、君の目は腐っているよ。……僕はただのモルモットだよ」


「俺は、レル・レイグラス。騎士団の兵士だ。気づいたらここにいて、あのガスマスクの変態どもに妙な石を埋め込まれた」


 男は「騎士団」と聞くと、少しだけ興味深そうに眉を上げた。


「へぇ、そんな立派な人が、こんな奈落の底で死体袋に入れられる寸前だったわけか。運がいいのか悪いのか……」


「……ふざけてる暇はない。あいつらがもうそこまで来てる」


 扉を叩く音はさらに激しさを増している。ガスマスクたちの声も混じり始めた。


「……ねえ、騎士様」


 男が格子の隙間から顔を近づけ、不敵な笑みを浮かべた。


「提案がある。僕をここから出してくれないかい? そうすれば、君をここから逃がしてあげるよ」


「断る。お前が何者かも分からないのに、出せるわけがない」


「ははっ、騎士様らしい発言だ。でも、あのアホ面をした魔物たちに食い殺されるのと、得体の知れない男を信じるの、どっちがマシかな?」


 バキッ!


 扉の隙間から、化け物の鋭い爪が入り込み、積み上げた木箱を切り裂いた。


「……っ、分かった! どうすれば開く!」


「話が早くて助かるよ。その扉のすぐ横、壁の影に隠しレバーがある。それを力一杯引き上げてくれ」


 レバーの場所は、今まさに突破されようとしている扉の目と鼻の先だった。


「……死ぬなよ、俺!」


 レルは覚悟を決め、扉へと突っ込んだ。

指先を掠める化け物の爪。ガスマスクが構える魔導銃の銃口が見える。


「開けええええええ!!」


 咆哮と共に、レルはレバーを握り、全体重をかけて引き下げた。


 ガチャンッ、という重厚な機械音が部屋全体に反響する。


 同時に、積み上げたバリケードが弾け飛び、人型の化け物たちが部屋へなだれ込んできた。


「しまっ……!」


 転倒したレルの目の前、三体の化け物が牙を剥いて飛びかかる。


 死を確信した、その瞬間だった。


「――お疲れ様、騎士様。あとは僕が引き受けよう」


 牢獄の奥から、静かな、だが鼓膜を震わせるような重低音が響いた。


 『変身』


 直後、室内が爆発的な「黒い煙」に包まれた。


 化け物たちが接触した瞬間、肉が焼けるような音と共に、奴らの巨体が紙屑のように吹き飛んだ。


「な……んだ、これ……」


 レルは呆然とそれを見ていた。

煙の中から現れたのは、先ほどの痩せた男ではなかった。


 全身が漆黒の毛並みに覆われている。


 立ち上る黒煙。鋭い三角形の耳。そして、長くしなやかな尻尾。


 何より目を引くのは、その巨大な腕の先に付いた、圧倒的な威圧感を放つ「巨大な拳」を持つ手だった。


「猫……か?」


 二足歩行する、漆黒の人型猫が、ゆっくりと首を鳴らす。


 その瞳は黄金色に輝き、圧倒的な強者の風格を纏っていた。


「……ふぅ。随分と体が訛っているな」


 人型の猫は、自分の手を握ったり開いたりしながら、低い声で言った。


「おっと、驚かせたかな。君には大きな借りができたみたいだ。……約束通り、ここから連れ出してあげるよ」


「お前……本当に、さっきの男なのか?」


「声で分かるだろう? まあ、この姿は少し目立つがね」


 再び扉の向こうから、大勢の足音が近づいてくる。


 人型の猫は、レルの前に立ちふさがり、拳を突き出した。


「話は後だ、レル・レイグラス。今はここのゴミ掃除をするのが先だ。……しっかりついてきなよ。僕の背中は、広いからね」


 黒煙を纏う獣が、獰猛な笑みを浮かべて闇の中へと跳躍した。


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