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あれっ、異世界恋愛かな!? 現実世界で婚約破棄されたら、隣国の王太子みたいな男に溺愛されるようになった

作者: 赤林檎
掲載日:2026/01/06

 婚約者が腕に愛らしい女をぶら下げて、婚約破棄してくるなんて、WEB小説の中だけだと思っていた。


「山本絵理奈、お前との婚約を破棄する!」


 ここは卒業パーティーの会場……。


 ではなくて、忘年会の会場だ。


 それなりの規模の会社だから、ホテルの広間を借りてやっている。


 まあ……、現代の卒業パーティー的なものだと言えなくもないの……かなぁ……?


 私の婚約者だった高橋礼央は、商品企画部の若手の中ではエースみたいな存在だ。これがWEB小説の乙女ゲームの世界なら、大商人の息子程度のポジションだと思うんだけど……。


 礼央の腕にぶら下がっているのは、営業事務の新人の鈴木未亜。ふわふわの茶色のセミロングヘアに、ぱっちり二重。小動物系のかわいい女の子。


 私は人事部の平社員。年末調整は終わったけれど、まだまだ忙しい日々だ。本日の業務内容は、契約社員や嘱託社員に渡す契約更新の書類に印刷された時給や月給を、ひたすらチェックすることだった。


 髪はまっすぐな黒いセミロングで、手入れしやすいボブ。服はいつも綺麗めなオフィスカジュアル。


 私、礼央から告白されて付き合ったはずだったんだけどなぁ……。


「絵理奈が未亜をいじめていたことは、もうわかっている! 未亜の買ったばかりのワンピースに、コーヒーをかけただろう! 未亜のマニュアル用ノートに落書きをした上に破り捨てた! それに、未亜の社内履きのナースシューズをどこにやった! 返してやれ!」


 私の罪状ってそれだけなの? 定番の『階段から突き落とした』はないわけ? ああ、はいはい、現実世界だもん、本格的な傷害事件として警察に来られたら困るよね。


「私はやってない。法テラスで相談してくるわ。名誉棄損だよね。ああ、婚約破棄の慰謝料も貰わないと」


 これだけ大勢の人が、礼央の暴言を聞いていたんだもの。たとえ裁判になっても、探せば誰か一人くらいは、私側の証人になってくれるだろう。


「名誉棄損? 洒落たことを言うなよ。お前に俺たちを訴える金なんてあるのか?」


 礼央が嘲笑う。


 私は毒親から逃げてきて、今は社員寮で暮らしている。


 礼央はそんな私の事情を知っているのだ。


「だから、法テラスに行くって言ったでしょ。まずは無料相談で、被害届の提出についてとか、費用の立て替え制度が利用できるかとか確認してくるわ」


 毒親の下でサバイバルしてきた人間を舐めるなと言いたい。


 私は母が幼い頃に亡くなって、父と再婚した義母と、その娘である義妹にいじめられていたんだよね……。父は若い義母の言いなりでさ……。WEB小説ではよく見るドアマットよ。


「なに、法テラスって? わたし、こわぁーい」


 未亜が甘えた声で言った。


 法テラスという場所が、弁護士さんに無料で法律相談したりする場所だと知らないのだろう。


 あまり一般的ではないから、知らなくても仕方ないかな……。


「今さらカウンセラーに相談しに行ったところで、もう遅い! しかも無料とか!」


 礼央がドヤ顔で言ってくる。


 なにが『もう遅い』よ!


 法テラスにいるのは、カウンセラーではなく弁護士よ!


 本当に法テラスに行ってやろうか!?


「山本君、高橋君、鈴木君、ちょっといいかい」


 人事部長が青い顔をして話しかけてきた。人事部長の隣には、人事課長と人事係長もいる。おじさんたちは三人とも、顔色がとっても悪い。


「なんでしょうか?」


 私は人事部長に問いかけた。


「山本君、悪いようにはしないから、法テラスに行くのは少し待ってほしい」


 人事部長は、法テラスがなにか知っている。人事って、こういう揉め事に対応したりする部署だもの。知らないわけがない。


 人事部は、年末調整で苦しんでいるだけの部署じゃないのよ!


「年末ですしね。行くのは年明けになると思います」


 私だって法テラスなんて行きたくないけれど、『行ってやるぞ!』という強い姿勢は見せておかないとね……。


「高橋君、鈴木君、外で話そうか」


 人事部長は穏やかに提案した。


「部長が俺たちの話を聞いてくれるんですね!」


「わたし、いろいろ話したくってぇ」


 礼央と未亜が喜んでいる。


 私……、なんで礼央なんかと付き合ったりしたんだろう……。もっと人を見る目を養いたい……。


「私はもう帰りたいんですが……」


「そうだね。そうしないさい」


 人事部長が深く頷いてくれた。


「では、失礼します。お疲れ様でした!」


 私は強い口調で言うと、その場を後にした。広間を出て、控室として用意された部屋でコートとバッグを回収し、エレベーター前に行く。下ボタンを押すと、『ポーン』と軽快な音がした。


 さっさと帰って眠りたい……。今日が金曜日で良かった。


 なんて考えつつ、エレベーターのドアが開いたから、さっさと乗り込もうとしたら……。


 出てきた人と、なかなかの勢いで正面衝突してしまった。


 私は弾き飛ばされて、床に倒れそうになった。


 ――怪我したくない!


 と思ったら、誰かが腕をつかんでくれて、倒れるのは回避できた。


「すみません……」


 謝りながら、助けてくれた相手を見た。


 なんなの……、この隣国の王太子みたいな男……。


 白い軍服みたいな服の両肩に、金色のワッペンみたいなのが乗っている。


 その右肩からは、真っ赤な布が、左の腰へと斜めに横切っていた。あれはタスキ? 箱根駅伝なの? それにしては、タスキが太すぎじゃない?


 腰には黒い革のベルト。さすがに剣は下げられていない。


 足元は黒い革靴だった。ベルトと色を合わせたのだろう。


 服のインパクトがかなり強いけれど、着ている人も負けていない。


 あの白っぽい金色の短髪は、プラチナブロンドだよね?


 薄い青色の瞳は、アイスブルー?


 こういう顔の男性、『世界の美男』みたいな画像集で見たことあるわ。


 これって小説とかだと、「コスプレかな?」となる場面だと思うけど……。


 コスプレで使われる服の生地って、予算の関係で安っぽいことが多いよね。


 少なくとも、私が見たことのあるコスプレの服の生地は安っぽかった。


 だけど、この男性が着ている軍服も、赤いタスキも、高級感がすごい。たぶんシルクだろう。模様織りっていうのかな? 布に詳しくないから正式名称はわからないけれど、布を織る時に素敵な模様が入るようにするよね? そういう生地。コスプレで使われている布とは、質が違いすぎる。


 この人がアメリカ人かはわからないけれど、私がここで「アイムソーリー」なんて言ったら訴えられそうな気がする……。


 隣国の王太子っぽい男は、黒いスーツの男を三人連れていた。三人ともなんだか強そうで、ボディーガードみたいに見える。


 とりあえず、国際部の人たちを呼んでこよう……。日本語が通じる気がしない。


「すみませんでした。ぶつかってしまった。大丈夫ですか?」


 隣国の王太子みたいな男が話しかけてきた。


 格好良い人は、声まで格好良いんだ!


 日本語が上手!


 きっとビジネスで日本に来たんだろう。


「はい、大丈夫です。支えていただいたので。ありがとうございました」


「あぶなかったね」


 わあ、笑顔の破壊力がすごい!


 笑うと、ちょっとかわいい感じの顔になる。


「怪我をするところでした。ありがとうございます」


「パーティーだった? かえるの?」


「はい。帰ります」


「どこか、いたいのか?」


「え……」


「わたしは、けがをさせたか?」


 私は今、きっとひどい顔をしているんだろう。


 みんなの前で、礼央に婚約を破棄されて、未亜に乗り換えられて、冤罪をふっかけられたんだもんね。


 がんばって言い返しはしたけれど、気分がすごく悪い。


 あの場には、私のことをよく知らない他部署の人もいた。


 きっと意地の悪い人が一人くらいいて、「火のない所に煙は立たない」とか言っていそうだと思ってしまう。


「元から体調が悪かったんです」


「夜間救急に行くですか?」


 カタコトなのに、夜間救急なんて知っているんだ。日本での生活で、いざという時に必要な言葉だから……?


「病院には行かなくて平気です」


 むしろ、もう放っておいてほしい。


 この人の相手をしていることが負担だわ。


 まさか、これ、ナンパだったりする?


 この隣国の王太子顔でナンパとかするかな?


 これは、ドバイで残酷ショーに出させられる危険なお誘いがあったりする?


 アラブの王族みたいな人たちに囲まれて、パーティーで骨をバッキバキに折られるやつ?


「わたしの名前は、セザールといいます。母はフランス人で、父はアラブ人です。わたしはサフィリールという国の出身です」


 サフィリールという国は知らないなぁ……。中東の国なんだろうけれど、アラブ首長国連邦にはなかったと思う。


「そうなんですね……」


 それ、私には関係のない話だよね。


 エレベーターは、セザールと話をしているうちに別の階に行ってしまった。私はまたエレベーターを呼ぶために、下ボタンを押した。


「わたしはとても心配です」


 セザールはボディーガードに、アラビア語っぽい言葉で話しかけた。


 黒服がどこかに電話をかけ始めた。えっ、なに? 怖いんだけど!


「私の医者を呼びました。佐藤先生です。日本人です」


「診察は必要ありません」


 ちょうどエレベーターが来たので、セザールを残して乗り込もうと思ったのに、エレベーターには白衣を着た男性が乗っていた。


「佐藤先生です。ホテルのロビーにはソファがあります。座りましょう。問診してもらいましょう」


 私はセザールに背中を押されて、エレベーターに乗ってしまった。知らない男性五人とエレベーターに乗るのは恐怖だった。


 エレベーターは普通に一階に到着し、私はエレベーターを無事に出られた。


 セザールは、エレベーターから一番近いソファに私を座らせた。


 佐藤先生が私の前に立つ。


「医師の佐藤です。今日はどうされましたか?」


 むしろ、こっちが訊きたいわ! 今日は一体どうなってるの!? わけがわからない!


「わたしがぶつかってしまった。元から体調が悪いです」


 セザールが説明してくれた。


「なるほど」


 佐藤先生はうなずいた。


「私は日本医師会に所属している医師です。安心してください」


 まったく安心できません。どこに所属していようと関係なく、悪い人は悪いからです。


 私が勤務している会社もまあまあ立派だと思うけれど、お局様もいるし、コンプレックスの塊で自慢ばかりする上司もいるし……。


 ――礼央と未亜みたいなのまでいる。


 ああ、そういう意味ではないか……。佐藤先生は、きちんと医療行為ができますよ、みたいなことが言いたいんだよね。


 私はだいぶ精神的に参ってしまっているみたいだ。判断力がおかしくなってるわ。


「すごく顔色が悪いです。具合が悪いです」


 セザールは真剣に心配してくれているようだった。


「家に帰って休みたいです」


 私は自分の希望を言った。こういう精神状態の時は危険だもの。じっとして、まともに戻るのを一人で待ちたい。


「なにがあったの?」


 セザールは私の前にひざまずき、私が抱えたままだったコートとバッグをそっと私の隣に置いた。そして、遠慮がちに私の両手を握った。


 ――ああ、この人は、心から心配してくれているんだ。


 セザールの表情や声音から、やさしい気持ちが伝わってきた。


「婚約者を他の女にとられて、忘年会で婚約破棄されて、冤罪をふっかけられたんです」


 この私の言葉は、セザールには難しかったようだった。


 黒服の一人が、セザールにアラビア語で通訳してくれた。


「ひどいめにあいましたね」


 セザールが少し悲しそうな顔をした。


「はい」


 私は素直にうなずいた。


「お名前を教えてくれますか?」


「山本、絵理奈です」


「えりなさん」


 セザールが呼んでくれた。やさしい声だ。


「心配してくれて、ありがとうございました。大丈夫なので、もう帰りますね」


 私が笑いかけると、セザールが笑い返してくれた。


「家族と一緒ですか?」


「実家か一人暮らしかを訊いておられます」


 佐藤先生が、セザールの言葉を通訳してくれた。


 私は社員寮で暮らしているけれど、そんな個人的なこと、知らない男性たちに教えたくない。


「今日は友達の家に泊まろうと思っています」


 嘘だ。こんな時に逃げ込める友達の家なんてものがあったら、私の人生はもっと良いものになっていたと思う。


「良い判断です」


 佐藤先生がうなずいてくれた。


「うそです。いけないよ」


 セザールは私の両手を少し強く握った。


「本当に友達の家に行きます」


「わたしは、えりなさんのともだちです」


 セザールは私の両手を握ったまま立ち上がった。


 私もセザールに手を引かれて立ち上がる。


「ピアノがあります。音楽はよいものです」


 ロビーの隅には、白いグランドピアノが置かれていた。


 セザールは私をピアノの近くの席へと連れて行った。


 私がソファに座ると、セザールも当たり前のような顔をして私の隣に座る。


「お飲み物はいかがなさいますか?」


 佐藤先生がウェイターみたいなことを言ってきた。


「ほうじ茶にしましょう。やさしい味です」


「わかりました」


 黒服の一人が、どこかに歩き去っていった。


 佐藤先生がホテルの人に話しかけて、どうやらピアノを弾く許可をとったようだった。


 黒服の一人が、ピアノの前に座った。


 なーんだ、セザールが弾くんじゃないんだ。


「安全確認のために、彼が一曲弾きます」


 佐藤先生が戻ってきて教えてくれた。


 安全確認ってなんだろう……。ピアノが爆発したりするの? なにそれ、怖いんですけど……。


 ピアノから楽しそうな『ねこふんじゃった』が流れてきた。


 かわいい曲が終わると、黒服がこちらに戻って来た。


 もう一人の黒服も戻って来て、私の前にあるテーブルにほうじ茶を置いてくれた。


「えりなさん、ここにいてね」


 セザールは少し心配そうに言ってから、ピアノへと歩いていった。


 セザールはピアノの前に座ると、私に向かって軽く会釈した。


 私はセザールに曖昧に笑ってみせる。


 ピアノから繊細な音色が聞こえてきた。


 ドビュッシーの『月光』だ。


 やわらかくて、心地良い音。


 まるでセザールのやさしさに包まれていくみたいだった。


 音に使うのが適切な言葉かわからないけれど、まろやかな音ってあるんだなって思った。


 聞いているうちに、なんだか身体の力が抜けてきた。


 私はほうじ茶を手に取り、一口だけ飲んで、茶碗をテーブルに戻した。


 ほうじ茶からは、ほっとする味がした。


 私はなにをやっているんだろう?


 今日は変なことばかりだ。


 たしかに音楽はいいなぁ……。


 なんだか心が楽になってきた。


 ずっとこうして、セザールのピアノを聞いていたいな……。


 だけど、無理だよね。


 現実世界はWEB小説とは違うから、婚約破棄されたって、隣国の王太子が私をさらっていくなんてことはない。


 セザールは隣国の王太子みたいな男で、なんだか大金持ちっぽい。それは、つまり、現実世界では、セザールは私とは住んでいる世界が違う人だということだ。


 私は悪役令嬢ではなくて……、王太子妃教育を受けているような特別な人ではなくて……。


 どこにでもいる日本の会社員だ。


 セザールと釣り合うような女性ではない。


 考え事をしているうちに、『月光』が終わってしまった。


 セザールが戻って来たので、私はソファから立ち上がった。


「えりなさん、ピアノを聞いてくれた。ありがとう。少し顔色よくなったです」


 セザールは、なぜか照れたように笑った。


 ああ、かわいい人だな……。


 どうせ好きになるなら、こんな人が良かった。礼央みたいな男じゃなくて……。


「ありがとう。元気が出ました」


「よかった。うれしいです」


 セザールが、どこか恥ずかしそうにうつむいた。


「とても上手でした」


「いいえ……。ピアノもっと上手な人、たくさんいるです」


 セザールは耳まで赤くして、両手を握りあわせた。


「私はセザールのピアノが好きです。またいつか聞かせてくださいね」


 そんな日は来ないと、私は大人だから知っている。


 私たちは、住む世界が違うんだもの。


「うん……。うん、またね」


 セザールが、震える小さな声で応えてくれた。


 私は胸の前で小さく片手をふると、コートとバッグを抱え、セザールたちから離れてホテルを出た。


 ――セザールのピアノは、まるで遅れてきたクリスマスプレゼントみたいだったな……。


 コートを羽織ってから、夜空を見上げる。


 これで雪でも降ってきたら完璧だったけれど、星の一つすら見えなかった。


 現実世界なんて、こんなものだよね。



 私が次に出勤したのは、新年になってからだった。


 年始式があったり、長期休暇明けの忙しさがあったり。


 そんな日々の中、人事部に本物の悪役令嬢ポジションの方がやって来た。専務の娘で、国際部の係長の中村真琴さんだ。


 中村真琴さんは、社長の息子で営業部の係長の小川隼人さんと、三二歳同士で再婚しようとしていた。


 未亜は、その小川隼人さんと取り巻きたちとも関係していたらしいのだ。


 社長の息子だから、この小川隼人さんが乙女ゲームにおける王子様ポジションだろう。小川隼人さんの取り巻きである、本部長の息子は宰相の息子だろうし、営業部長の息子は騎士団長の息子みたいなものよね。商品企画部のエースの礼央は、やっぱり大商人の息子かな。


 礼央が未亜を腕にぶら下げて、私と婚約破棄したのは、今後も小川隼人さんと取り巻きたちが未亜を共有するためだったらしい。WEB小説の逆ハーレムでは見たことのある、『取り巻きの一人の妻にする』がやりたかったんだろうなぁ……。これが小川隼人さんの発案かは知らないけどね……。


 未亜は礼央と共に退職していった。私は二人が退職する前に、ちゃんと慰謝料を払わせた。


 小川隼人さんと他の取り巻きの方々は、僻地の営業所に飛ばされていった。


 私はというと、ほとぼりが冷めるまでという期限付きで、辺境に行くことになった。辺境という言い方は、あまり良くないかな。その土地の方に失礼……?


 とにかく辺境っぽい、まわりが田んぼばかりの営業所で、私はのんびり一人事務をやらせてもらってまーす! 建物はプレハブ小屋だけど、冷暖房完備だから大丈夫! それより嬉しいのが、人間関係とさよならできたことー! やったー! 一人でお仕事、バンザーイ! ありがとー!


 営業さんは三人いるけれど、だいたい外出中か在宅勤務でいませーん! イェーイ!


 仕事は適度にあって、暇すぎることもなくて最高でーす! ほとぼりが冷めても、もう二度と本社になんて戻りたくないでーす!


 社宅も田んぼの中の素敵な古民家だから、ピアノが弾き放題でーす!


 私はロールピアノという、シリコンでできたペラペラの鍵盤のみの電子ピアノを買ったのだ! いつか自分でドビュッシーの『月光』が弾けるようになれたらいいなぁ、なんて思っている。


 ご近所さんたちは、高齢の方ばかり。私は皆さんに「孫みたい」と言われながら、かわいがってもらっている。


 なんだか、私にも本物の家族ができたみたいな気持ちになる時があるくらい。


 ここはすごい田舎だけど、私にとっては、すごく住みやすい土地なのだ。


 好きなことを好き放題やっていたら、あっという間に秋になった。


 そんなある日、稲刈りが終わった田んぼに、ヘリコプターが降りてきた。


 私は驚いてプレハブ小屋を飛び出した。


 なんでヘリコプター!?


 普通に電車とバスを使って来られる場所でしょ!


 ヘリコプターからは、白い布を頭から被り、白いロングワンピースみたいな服を着た男が出てきた。どう見ても石油王だよ……。


「えりなさん、お久しぶりです!」


 セザールが私のところに走ってきた。


 なにを考えてるの……!?


 また会えてうれしいけれど、ヘリコプターはないよね!?

「久しぶり!」


「元気そう、うれしいです!」


「演奏旅行が終わったんだよね?」


「そうです! だから、会いに来ました!」


 私は普段は、タブレットでセザールの演奏動画を見ている。


 やっぱり実物のセザールの方が、何倍も素敵だわぁー!


 セ・ザール・グ・ラー・ゲン・ア・レッサ・アル・ハン・リ・ヴァイア・サンズというのが、セザールのフルネームだ。長い。


 セザールは、サフィリール王国の第三側妃が産んだ第五王子様で、世界的なピアニストなのである。すごい!


 セザールは一時期、スランプに陥っていたらしいんだけど、今は完全復活して世界中を飛び回っている。ピアノがあんなに綺麗に弾けてもスランプになったりするなんて、音楽家って繊細なんだろうなぁ……。


「いつも動画にコメントありがとう! ファンレターもありがとう! えりなさんとラインするの楽しいです! 好き!」


「ファンレターのお返事びっくりした! ラインIDありがとう! 私も好き!」


 セザールが私を抱きしめてくれた。私もセザールの背中に腕をまわす。


「ここの地面たくさん買って、お城を建てます。えりなさんは、わたしのお姫様です」


「そんなのいらないって! 社宅いいよー! 桜の木が植わってるし、柿の木に柿がなるし! なにかあると、大家さんが対応してくれるの! 楽だよー!」


 セザールは演奏旅行に行くことが多いから、ほとんど家にいないはず。


 それだったら、素敵な古民家でこのまま暮らしていきたいわ。


「早く結婚式したいです!」


「やっぱりフォトウェディングじゃダメだよねぇ……」


 私は招待する人がいないんだよ! 家族も捨てたし、友達もいませーん! 写真撮影だけで充分でーす!


 義母と義妹は、私が世界的ピアニストのセザールと結婚したと知ったら、突撃して来るんじゃないかと思うよね。だから、私はあらかじめ、義母と義妹に『アラブ人の大金持ちと結婚できることになった。一緒にアラブのパーティーに行こう』という手紙を出しておいた。


 私は義母と義妹をセザールとの結婚式に招待しただけ。嘘はなに一つ書いていない。


 義母と義妹は手紙の返事をくれなかった上に、父と三人でどこかへ引っ越したらしい。


 もしかして、義母と義妹は、人間が一番怖かったのかな?


「えりなさんはなにも心配せず、サフィリール王国に来てください。結婚式が終わります」


 セザールがしょんぼりしてしまった。


 王族なのは、セザールのせいじゃないもんね。


「うん、わかった。ごめん、サフィリール王国に行くね!」


「ありがとう! えりなさん、わたしのふるさと見てほしいです!」


 セザールが私の両頬にキスをしてくれた。


 ど田舎だから、誰もいない! 誰も見てない!


 だけど、さすがにそろそろヘリコプターを見に来る人たちが到着するかもね。


 ここは、今の私の『ふるさと』だ。


 いつもお世話になっている人たちに、私の未来の旦那様を紹介しよう。


 セザールは外国人な上に、今は石油王みたいな格好をしている。


 おじいちゃん、おばあちゃんたちは、きっととっても驚くだろうなぁ……。


 みんなが心配するようなら、ちゃんと説明しよう。


 この人が、私が婚約破棄されて様子がおかしかった時、素晴らしいピアノを聞かせてくれた人なんだよって。


「愛しています、えりなさん」


 私はこうして、婚約破棄されたけれど、隣国の王太子みたいな男に溺愛されるようになったのだった。


 現実世界で暮らしているのにね。

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