9-1
トシは両掌の中で瞼を開けた。眼球を動かしてみる。目はある……それを確認すると再び瞼を閉じ、両手を目から離しながら、ゆっくりと瞼を開いた。
目を閉じていても開いても、世界は変わらなかった。光の住人の感情と影の住人の息遣いが混在する世界……俺は今、どちら側にいるのだろう……恋人や家族や仲間がいる愛しい光の世界……少し前までは悪戯で引きずりこまれていた影の世界……苦しく辛い現実を突きつけられる生の世界……この世の真実を写し出す化け物の世界……
トシは鼻から息を吸いこんだ。
(俺は生きている……)
肩から伝わるシュウの温もりは、火傷しそうなほど熱かった。
「目が覚めたな、トシ」
トシは声のした方に顔を向けた。そこにあるのは人の形をした悪意だ。あらゆる人の悪意を集めてはいたが、真ん中にある歪んだ憎悪がそれら全ての悪意を支配し操っていた。
(今まで聞こえていたことは、夢でも幻聴でもなかったのか……)
「見えるか?私が」
トシは何も答えなかった。ただ、人の形をしたものを見つめていた。
「見えているようだな。気分はどうだ?最高だろう?」
ダイチが一歩前に出たので、ハクトとシュウが身構える。ダイチはフッと口元を緩めた。
「聞こえていただろう?お前たちが憎んでいたあのソルアは私だ。お前のお祖父さんだよ、トシ」
ダイチはそう言うと、腹を抱えて笑い始めた。それは虫唾が走る、気味の悪い笑い声だった。
「お前にフオグ国民だと名乗る資格などない。忌み嫌われる存在でしかないのだ」
ダイチはウォルフに守られているルイを見やった。
「恋人もいるようだが諦めろ。彼女は私を随分と憎んでいるようだ。その憎しみは、そのうちお前に対しても向けられることになるだろう」
「私はトシを憎んだりしないわ」
と、ルイが震える声で言った。ウォルフがルイの口を手で塞いで止めようとしたが、ルイはその手を振りほどいた。
「たとえトシがあなたと血のつながりがあったとしても、私のトシに対する気持ちは変わらない」
「そうか」
と、ダイチが口を尖らせた。
「せっかく拾ってもらった命をお前は無駄にするのか。馬鹿な女だ。トシ、あの女はやめておけ」
そう言いながら、ダイチはルイを指差した。
すると上空に漂っていた影の住人のうち数体がルイを目掛けて急降下してくるのがトシには見えた。トシが起き上がり、防御の術を出そうと身構える。しかしそこにハクトが飛ぶように現れ、迫り来る影を聖剣で一瞬のうちに斬り裂いた。
辺りに耳障りな音が響き渡り、ダイチは途端に不機嫌な表情に変わった。
「久しぶりに聞いたが、相変わらず嫌味な……」
ダイチが話している最中に、不意に現れた無数の白い光の糸が、ダイチの身体を瞬時に縛り上げた。トシがダイチの動きを止める術を出すのと同時にファジルが光る糸を出したのだ。体力が回復していないトシは、その術を出しただけで身体がふらつき、片膝をついた。ファジルもまた少しよろけたが、無表情のままぐっと両足を踏ん張った。
「トシよ、私を落胆させないでくれ」
ダイチは慌てる様子も苦しむ様子もなく、ため息混じりに言った。
「お前には私の全てが理解できるはずだ。その目でよく見るといい。光の世界と影の世界、相反する二つの世界は均衡でなければならない。しかし実際は均衡になっていない。ソルアだの聖剣だの、歪んだ正義感を持った連中が、影の住人の命を奪っていく。足りないのだ、人々の絶望が。影に生きる者たちの食糧が、全然足りていないのだ。ソルアは本来、光の世界に生きる者のみの味方ではない。ソルアは中立的存在でなければならない。特に我々のように選ばれたソルアは、神に等しい存在なのだ」
ダイチが口角を上げ、全員が身構えた。
悪意が、ダイチの身体から抜ける。それと同時に影の住人が男たちに襲いかかった。ファジルやトシ、そしてハクトが自分に向かってきた影と戦い、ウォルフは逃げ回った。そんな中、影が見えないシュウは、あっという間に構えていた剣を影に奪われてしまった。
「しまった!」
と、シュウは身構えた。しかし宙に浮いた剣はシュウには向かわず、ヒュンと矢のように飛ぶと、ダイチの胸に突き刺さった。
ダイチはカッと目を見開き、そのまま後ろに仰向けで倒れた。白い光の糸は、ダイチが倒れると粉々になって消えた。
柱に縛られたアルマが悲鳴を上げる。泣き叫ぶように何度もダイチの名を呼んだが、ダイチが目を覚ますことはなかった。
「ひどい……」
アルマは泣きながらそう言うと、気を失った様子でぐったりとしてしまった。
シュウはダイチの胸に刺さった剣を呆然と見つめながら、腰から砕けるように両手両膝を床についた。
「言っただろう、医者など神の前では何の役にも立たないと」
シュウはハッと息を止め、恐れを抱きながら声がした方に振り向いた。
「罪のない男が、お前の落ち度のために命を落とした」
声を出しているのはミゼルだった。シュウは表情を歪ませながら顔を横に振った。
「ミゼル……ミゼルの身体に……」
「ああ、その通りだ。さて、どうする?私を追い出せば、ミゼルもダイチのようになると思うが」
シュウが頭を抱えながらうずくまる。襲いかかってきた影を全て退治し終えたハクトが、シュウとミゼルの間に入った。その隙に、ミゼルの横で震えていたルイをウォルフが抱きかかえながら遠ざけた。
「今すぐミゼルから出ろ」
ハクトが聖剣を構えてミゼルを睨みつける。ミゼルはフンッと鼻で笑った。
「ミゼルがダイチのようになってもよいと?そうか……ではシュウ、教えてくれ。お前はどれがいい?お前に選ばせてやろう。お前がミゼルに殺されるか、ミゼルが他の誰かを殺すところを見るか、ミゼル自身が死ぬか……どれがいい?どうすればお前の絶望が一番大きくなる?」
「やめろ!」
と、トシが叫んだ。
「絶望を生み出そうとするなど……なんて卑劣なんだ!」
「トシ……まだわからないのか?そうか、お前は世界の真の姿を知らないのだ。いや、まだ気づいていないだけなのだ」
「目的は何だ?なぜこんなことをする必要があるんだ?」
「ずっと待っていたのだ、お前が私の元へ来てくれる日を。光を失い、お前が世界の真の姿を見ることができる日を。それがまさか、この地であったとは上出来だ。ここには神の末裔がいる。彼女と我々が子を成せば、その子は全世界を手中に収めることができるだろう。聖剣も闇の炎さえもその子を倒すことはできない」
「神の末裔?」
「そうだ。アルマは己の存在意義もよく分かっていない子供だが……手がかからなくてちょうど良い」
トシの目に今映っているものは、光の世界の人間の感情と影の世界の住人の気配、そして圧倒的な悪意だ。その他は闇しかない。気を失っている者の感情は見えない。
覚悟はしていた……トシは今、自分の現状を受け入れるのに必死だ。悲しむ暇などない、悪意に隙を見せてはならない……そう自分に言い聞かせながら、トシは負の感情を押し殺していた。
「お前は、神になりたいのか」
「私は神に等しい存在だが、さすがに自分の立場はわきまえている。だからこそお前と一体となり、アルマと子を成し、正真正銘の神を育てる。そしてこの世界を、光と影の境のない真の姿へと導くのだ」
ミゼルはぐるりと周りを見渡した。ミゼルに最も近い場所で聖剣を構えるハクト、その背後で罪悪感に苛まれているシュウが膝をついたままだ。トシは二人からは少し離れた場所に、ファジルはミゼルの後ろ側にいた。ウォルフはルイを背負ったまま部屋の隅で身構えている。
ミゼルは舌打ちをしながらトシを見やった。
「さすがは我が孫と言いたいところだが、感情を完全に殺すというのは気に食わない。私に反抗してばかりの息子にそっくりだ。しかし息子の時と違うのは、お前には守らなければならない者たちが多すぎるということだ」
ミゼルが右手の人差し指をくるくると回しながら天井に向けた。影の空間に蠢いていた化け物たちが一斉にぐるぐると周りながら竜巻のような空気の流れを作り出していく。空気の流れは一瞬のうちに高速になり、屋敷の屋根や壁の一部を吹き飛ばした。
その渦の中に、ハクトとシュウ、トシとファジルも飲み込まれた。四人とも渦を巻く上昇気流に抵抗できずに屋敷の上空に放り出されてしまったのだ。
風の渦の中で、防御の術を使って体勢を整えたトシとファジルは、それぞれシュウとハクトの腕を掴み、飛んで行ってしまわないように自分に引き寄せた。
「あのソルアに勝つ方法はないのか?」
と、上空でハクトが悔しそうに呟いた。
「聖剣でも倒せないのか?」
「いや、方法はある」
と、ハクトを掴んでいるファジルが答える。
「どうやって?」
「確かに悪意だけの状態では聖剣で倒すことはできない。今もまだミゼルの身体を利用しているだけで、悪意は自由に移動できてしまい、倒すことはできない。しかし、誰かがあの悪意を自分の身体の中に閉じ込めることができたならば、あるいは誰かと完全に一体化した後ならば、聖剣でなくても倒すことができる」
「しかし、それだと悪意を閉じ込めた人物も死んでしまうのでは?」
「ああ、その通りだ」
すんでのところで風に巻き込まれなかったウォルフは、ルイをアルマのいる柱にしがみつかせ、万が一風が広がった時のために、ルイに被さるようにしながら柱に腕をまわした。
「どうなってるの⁈」
轟音の中、ルイが叫ぶようにウォルフに尋ねた。
「ものすごい数の影が集まってきてる。あのソルアは、悪意だけで影を操っているんだ。もしあの悪意がトシの身体に入ってしまったら、きっとトシの身体を使いこなして、あらゆる技を出せるようになる。もっと酷いことが起こるに違いない」
「どうすればいいの⁈」
「あの悪意の狙いはトシだ。おそらく、悪意が誰かに入り込むには、心に隙がないと駄目なんだ。恐怖や悲しみや恨み、そんな負の感情がないと入り込めない。でも今のトシにはそれがない」
「じゃあ、トシは大丈夫なのね?」
「いや、あの悪意なら、きっとその隙を作り出そうとするはずだよ。だから、僕は絶対君を守らなきゃならないんだ」
「いい考察だ。お前にその隙があればと、つくづく思う」
声がした背後に二人が目を向けると、そこに立っていたのは、にやにやと笑うミゼルだった。




