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「トシ」
闇の中で、横になっているトシの耳にファジルの声が届いた。
そこは不思議な空間だった。右も左も上も下も、底のない闇のようだ。夢を見ているのだろうとトシは思いながら、身体を起こした。
「トシ」
声がした方に顔を向けると、ファジルが空間に立っていた。
「トシ、お前の視力は失われ、この闇のような世界に生きることになる」
トシはファジルをじっと見つめた後に自分の身体を確認した。
「お前は今、意識の中で見ているにすぎない。実際には目を開けても、もはや何も見えないだろう」
トシは両手で目を覆った。視力が失われることの精神的な動揺よりも、ルイへの心配の方が大きかった。互いに覚悟はしていたものの、ルイは本当にこんな自分の側で、幸せになれるのだろうかと慮った。
「トシ、影の世界に生きるソルアに必要なものが何か、わかるか?」
わかりません、と口は動いたが声は出ず、トシは首を横に振った。
「影の住人が好む感情を殺すことだ。憎しみ、妬み
、悲しみ、恐怖といった感情……これらの感情は、影の世界に生きるソルアの弱点になる。影の住人が心に侵入してくる隙を与えてしまうのだ。彼らは常に我々を付け狙っている。我々が絶望感など抱こうものなら、その瞬間に影の住人に心を乗っ取られるだろう」
トシはゆっくりと頷いた。
「それは、光の世界に生きるソルアにも言えることだ。負の感情は影を大きくし、その牙はいずれ自分に向けられる。
トシ、幸いなことに、お前はたくさんの愛に囲まれている。その愛を守りなさい。たとえ私に何があっても、彼がお前に何を言おうとも、絶望してはならない。おそらく彼は、お前を自分の世界に引きずり込もうとするだろう。お前は、お前の愛する者たちを守ることだけを考えなさい。それがお前を強くする」
「彼……とは?」
トシは喘ぐような声を出した。
「我々が向き合わなければならない、悪、そのもの」
ファジルの姿がふっと消える。
「父さん!」
そう叫びながら、トシは右手を伸ばした。
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トシは何かを叫びながら身体を起こした。シュウにもルイにも、トシが何を叫んだのかは分からなかった。ただ、意識が戻ったのかもしれないという希望を二人に抱かせた。
「トシ?わかる?」
ルイが顔を覗き込みながら尋ねたが、トシは再び布団に倒れ込んだ。二人の呼びかけに答えることはなく、トシは苦しそうに右に左にと身体を動かしている。そのうち、呻き声を上げながら両手の指を瞼に突き立て始めた。シュウが見ると、トシは爪を立てて、まるで目を抉り取ろうとしているようだった。
(痛みに耐え切れずに、眼球を取ろうとしているのか……!)
「トシ!駄目だ!」
と、シュウは慌ててトシの手首を掴んだ。しかしトシは強い力で指を瞼に押し付けた。瞼が切れて血が出ている。シュウがより一層力を出してトシの手を瞼から離そうとするが、トシはそれに抵抗した。
「あ……兄上!……兄上!」
シュウが叫ぶと、部屋の前で待機していたハクトが血相を変えて扉を開けた。そして二人の様子を見て状況を理解したハクトがトシの左腕を取り、二人でトシの腕を押さえた。
「トシ!耐えるんだ!」
シュウの呼びかけに、トシは顔を左右に振り足をばたつかせた。その勢いは、シュウとハクトの身体が大きく揺さぶられるほどだった。
ウォルフとミゼルも部屋に入ってきた時、ばたつかせる足を押さえようとしたルイが蹴飛ばされて後ろに倒れた。
「ルイさん!」
と、ウォルフが素早くトシの足の上に覆い被さり、その動きを押さえる。
「耐えてくれ……」
祈るようにシュウが呟いた。ルイが怯えた様子で顔に手を当て、ミゼルがそんなルイの側に寄り添った。
どのくらい時間が経ったのだろうか……諦めたのか、痛みがおさまったのかは分からないが、トシがようやくおとなしくなった時には、シュウもハクトもウォルフも疲れ切ってしまっていた。そして誰も何も言わずに、乱れた呼吸を落ち着かせていた。
「ルイさん」
と、遠慮がちにミゼルがルイに声をかける。ルイの顔色は悪く、放心状態で壁にもたれかかっていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫……」
そう答えたルイの声は小さく、そして震えていた。
「ルイさん……」
ルイはふっと泣きそうになるのを堪えて俯いた。
「辛いのはトシ。私は支えると決めたの」
「ルイさん……私は……」
と、ミゼルはルイの背中に手を置いた。
「私は、皆さんと出会ってからまだ日が浅い。でも私にとって、皆さんはとても大切な存在。トシさんもルイさんも。私ができることはしたい。
だから私にも手伝わせてください、ルイさん。ルイさんの辛さを少しでも私に分けてほしい。どうか我慢しないで。泣きたい時には泣いて。ルイさんが泣いている間は、私が命がけでトシさんの看病をします。どうか、させてください」
ルイが優しい目でミゼルを見やった。そして大粒の涙が勝手に溢れ出て頬を伝っていく。ミゼルが背中をさすると、ルイは声を上げて泣き始めた。
ミゼルは落ちていた手ぬぐいを拾うと、冷たい水で洗い直してトシの額の上に置いた。シュウとハクトは、そんなミゼルを見ながら微笑んだ。
「みんながいれば、きっと乗り越えられる。そうでしょう?シュウ」
「ああ。そうだね。その通りだ」
シュウは笑顔でミゼルに頷くとフウウと息を吐き、トシの瞼の治療を始めた。
その時、ハクトは人の気配に顔をあげていた。宿の主人の老夫婦が扉の隙間から中を覗いている。ハクトと目が合った老夫婦は、驚いた様子で顔を引っ込めると、その場からすぐに立ち去ってしまった。
どこからか影の気配もする……ハクトは立ち上がって辺りを探る。そして同じくキョロキョロと顔を動かしていたウォルフと目が合い、二人は怪訝な表情のまま頷き合った。
トシの状態が落ち着くのを待ってから、ハクトは部屋を出た。ウォルフもその後を追う。
「ハクトも気付いたんだよね?」
と、ウォルフが小声で言った。
「ああ」
「あの時、一瞬だけ気配がしたけど、何だろう……消えたけど……大きかった」
二人は庭へ出た。そこからは海が見えた。天気も良く風も穏やかなのに、波がずいぶん荒い。
ひそひそと話す声が聞こえてきて、ハクトは後ろを振り返った。宿の前の通りをはさんで向こう側の家のかげから、誰かが宿を探るように見ている。そしてハクトに見られていることに気付いた様子で、慌てて逃げて行った。
「一体、何だというんだ?」
ハクトは誰かが去った方を見つめたままだったが、あらゆる方向から、誰かに見られていることに気付いていた。
「俺たちは監視されているのか?」
「よそ者が苦手な、内気な人が多い……なんてことはない?不安の感情がたくさん揺らめいている」
「不安?俺たちが不安にさせていると?なぜだ」
「それは聞いてみないとわからないけど……」
ウォルフがそう言ったところで、二人の頭上に巨大な網が広がった。咄嗟に逃げようとしたものの、網は瞬時に二人の足元をすくい上げ、あっという間に二人を網の袋の中に閉じ込めてしまった。ハクトは小刀で網を斬ろうとしたが、網にはべとべとと粘度のあるものが塗られていて、思うように身体を動かすことができなかった。
すると、辺りから歓声が上がった。「さすがタロ爺さんだ!」と、誰かが言う声も聞こえた。宿の主人が網の端を持って現れ、そこに若い屈強な男たちがやって来て、タロ爺さんと呼ばれた宿の主人から網を受け取った。
「ソルアか?」
と、ハクトがウォルフの耳元で言った。
「違う。普通の人だ」
なぜ……とハクトが言いかけたところで、屈強な男たちは網の端を掴んだまま走り始めた。
「お……おい……何をするんだ!」
男たちは無言のまま、宿を出て海に向かって走っている。ハクトとウォルフは、まるで地引網に捕らえられた魚のように、自分たちの意思に反してズリズリと引きずられていった。
「中の奴らはどうするんだい?」
タロ爺さんに近寄って来た男が尋ねると、タロ爺さんは腕組みをしながら答えた。
「病人と医者と女二人だろ?ありゃあ、違うな。アルマ様は、強そうな男がそれに違いねえっておっしゃったからな。あれで間違いねえだろう」
「しかし、さすが村一番の漁師だった男だぜ。歳をとっても腕は衰えてねえな」
「当たりめえよ。狙った獲物は逃さん。強そうな旅人がそれだって聞いたから、うちに泊まりに来た時には驚いたぜ」
「しかし、あれを始末しりゃあ、本当に海は元に戻るのか?ここ数日、ずっとあの調子だぜ。漁ができなきゃ、俺たちはどうやって生きていけばいいっていうんだ」
「大丈夫さ。アルマ様がどうにかしてくださる。三日前に漁に出たサトさんところの男衆はまだ見つからんのか?」
「ああ、一人も。助けに行こうにも……どうしようもねえだろ……船を出した途端に、化け物でもいるかのように波が荒れて船ごと海に飲まれちまうんだからな」
「サトさん、気の毒にな……」
「タロ爺さんよ、中の奴らが騒ぎ出したらどうするんだ?」
「あの離れの扉には外から鍵をかけた。なあに、出られやしねえよ。一緒に捕まえても良かったんだが、病人だっていうからよ、気の毒じゃねえか。女に罪はねえしな。まあ、あれの始末が終わったら、アルマ様に相談だな」
その頃、シュウとルイとミゼルは外の異変に気付いていた。開けていた窓が突然外から閉められ、人の気配がどんどん増えて、歓声や激しい物音がしたからである。
シュウたちのいる宿は、元漁師宅の敷地内にある別棟の平屋の建物で、二つの部屋と水場がある。
シュウは立ち上がり、窓が開かなくなっていることを確認すると、隣の部屋へ向かった。隣の部屋の窓も閉められていて、離れの扉も開かなくなっていた。
「シュウ?」
「先生?」
ルイとミゼルが不安げな表情でシュウを呼んだ。シュウは思案顔でトシの寝ている部屋に戻って来た。
「どうやら、閉じ込められたみたいだ」
「え?どうして?」
二人が同時に言った。
「わからない。兄上とウォルフが心配だ。何かあったのかもしれない」
「先生、あの扉なら、みんなで体当たりしたら外れるんじゃないかしら」
「確かに、外れると思う。でもトシがこの状態で、外がどうなっているのかわからない中で飛び出すのは危険だ」
「じゃあ、どうすれば……」
「とにかく……相手の出方をみよう。大丈夫、僕が必ず皆を守る」
シュウは二人を安心させるように笑顔で頷いた。




