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船を降りた一行は、ミュンアン国に入り、再び馬を手に入れて旅を続けている。ウォルフは少しずつではあるが調子を取り戻しつつあった。
「トシ、気付いてる?」
並んで馬を歩ませているトシにウォルフが囁いた。
「何の話だ?」
「この国に入ってから、小さな影の住人に全く出会わない」
「そうだな。俺も気にはなっていたが……」
「シュウがあんなに負の感情を漂わせているのに」
「ああ……」
列の一番後ろ、皆から少し離れた位置にいるシュウの表情は固く、物思いにふけていることが多かった。
「影が寄って来ないのは、聖剣の力なのかな?」
「そうかもしれない。しかし、シュウはどうして怒っているんだ?」
「わからない。誰か喧嘩した?」
「少なくとも俺じゃない」
「ハクトかな?」
「おい、やめとけって」
トシの制止を気にする様子もなく、ウォルフは馬を小走りにさせて先頭を行くハクトの横につけた。
「どうした?」
「シュウと喧嘩した?」
「いや。覚えはないが」
「ハクトでもないんだ……じゃあ、誰に怒っているんだろう」
「怒る?それは、シュウの感情を見て言っているのか?」
「うん」
「なるほど。様子がおかしいとは思っていたが……」
はぁ……と珍しく深いため息をついたハクトは馬を止めた。
「おい、休憩するぞ」
そこは、ミュンアン国の首都エレにほど近い山間で、清らかな小川のせせらぎが耳心地良い場所だった。川辺で馬を休ませながら、その世話をトシに頼むと、ハクトはシュウを半ば強引に、皆から少し離れた場所に連れて行った。
「どうされたんですか?」
ハクトは無言で木刀をシュウに差し出した。
「稽古ですか」
シュウは首を横に振った。
「申し訳ありませんが、今はそんな気分では……」
「お前のひねくれた性根を叩き直してやる」
「は?何を言っているのですか?」
ハクトは木刀をシュウの足元に投げた。
「取れ。今のお前なら、俺は素手でも勝てる」
ハクトの言葉に、あからさまに嫌そうな顔をしたシュウを見て、ハクトは笑みを浮かべた。
「そうだ、それでいい」
「一体、何ですか?」
「お前は本音を見せない、他人にも自分にも。溜め込んで飲み込んで、全てを悟ったかのように振る舞って理性を保っている。違うか?」
「よくわかりませんが」
「幼い頃からお前はそうだった。欲しい物があっても、それは自分よりも俺に似合っているとか、俺が欲しがっているからとかという理由で、俺に譲ってきた。俺じゃなく、友人にもそうだ。何でも自分より他人を優先してきた。大人たちからは良い子だと言われ、大人になると良い人だと言われた。
でも俺は知っている。お前がそういう顔をしている時は、自分の気持ちが整理しきれていない時だ。遠慮したことを後悔しているのだ。
見たことがある。幼い頃、母上に叱られているお前を。お前は夕食の時、母上が作った焼き菓子を俺に譲ったんだ。俺の好物だったから。しかしお前もあれが好きだった。だから夕食の後、今と同じ顔をして庭で暴れていた」
「いくつの時の話をしているんですか。そんな昔の話……」
ハクトは俯くシュウの胸ぐらをつかみ上げた。
「欲しい物は欲しいと言いなさいと母上に叱られていたな。自分の気持ちを押し殺したら、自分が壊れてしまいますよ、と。その言葉を今のお前にそっくりそのまま言ってやる。お前から怒りの感情が見えるとウォルフに教えてもらって、ようやくわかった。お前は後悔している自分自身に怒っていたんだな、昔も今も。そうやって自分に怒って後悔を飲み込み、理性を保ってきたんだ。良い人であろうとし続けてきた……まったく、面倒な奴だ」
シュウは胸ぐらを掴むハクトの腕を引き離そうとしたが、びくともしなかった。
「何が言いたいのか……はっきり言ってください」
「わからないなら、はっきり言ってやる。俺が聖剣の使い手に選ばれたことが気に食わないんだろ」
「そんな……馬鹿馬鹿しい。僕は……」
と、シュウは顔をしかめてハクトの腕を胸ぐらから引き剥がした。
「兄上が聖剣の使い手になったのは、当然のことです。僕は嬉しかった」
「ならばなぜ……」
と、ハクトは木刀を拾い上げると、片手に持って前に突き出し、シュウの胸の前に構えた。
「なぜ、あの日から俺を避ける?俺の目を見ようともしない?嬉しい?本心でそう思っているのなら、お前なら言葉で伝えてくるはずだろう?違うか?」
シュウは口をつぐんだまま俯いた。
確かに、シュウは海賊との戦いの後、ハクトを避けているように見えた。シュウは負傷した船員たちの治療に忙しかったが、ハクトも負傷者を運んだり、歩けない者の介護をしたりしていて、何度も診療部屋に来ていたにもかかわらず、シュウは目を合わせてこなかった。
ミュンアン国に入っても、それは変わらなかった。いつもなら返事を面倒くさがるハクトにはお構いなしに、他愛もない事を話しかけてきていたのに、そんなことは一切なかった。
そんなシュウの変化を、ハクトは敏感に感じ取っていた。いや、ハクトも気になっていたのだ。聖剣の使い手となった自分をシュウはどう思っているのだろうかと。しかしシュウの態度は想像していたのとは違っていて、ハクトも困惑していたのである。
「お前の方が先だった、聖剣に選ばれたのは。だが、お前は逃げた。どうせ俺に遠慮したんだろう?医者になりたかったのは本心だろうが、それは単に逃げの言い訳だ。聖剣の使い手であっても、医者になることはできる」
「そんなこと…………確かに……ええ、逃げたんです、僕は。でも、だからといって、今、兄上にそんなことを言われたくない。兄上が聖剣の使い手に選ばれたのですから、もういいじゃないですか」
「なんだと?」
「こんな話、意味がありません」
シュウは胸の前に構えられている木刀をスッと横に避けると、「戻りましょう」と歩き始めた。ハクトは後ろを向いたシュウの肩の上に木刀の先を強めに置いた。シュウは足を止めた。
「欲しい物は欲しいと言えと言っているんだ。あの時遠慮して逃げた自分を後悔して、後悔している自分に怒りを感じて、また我慢して飲み込んで、さも聖人のような顔をして生きていくつもりか?正直に言えよ、俺より強くなりたいと、聖剣を受け継ぐのは自分だと、俺に先を越されて悔しいと。もっと……もっと抗え」
「僕は後悔などしていない」
「そうか……なら好きにしろ。お前の人生だ。大切なものを全部人に譲って……何も残らないぞ。聖剣も、恋人も」
シュウは顔を後ろに回してハクトを睨みつけた。
「何を……?」
「子供の頃、お前がルイに」
とハクトが言ったところで、シュウの身がふわりと移動し、次の瞬間にはシュウに頬を殴られたハクトが地面に倒れ込んでいた。
「シュウ……」
シュウはハクトを殴った手を震わせながら肩で大きく呼吸している。
「おい!」
と、向こうからトシが近づいてきている。
シュウは顔を歪ませながら、山の方へ逃げるように走って行った。
「おい、大丈夫か?」
トシは倒れ込んだハクトが起きあがろうとするのを手を出して手伝った。
「シュウ!どこへ行くんだ!」
シュウの姿は木々の間に入ってしまって、すぐに見えなくなった。その後をトウが走って追いかけて行く。
ハクトは、シュウを追おうとするトシの腕を掴んだ。
「放っておけ」
「いや、しかし……」
「頭を冷やしたら戻ってくるだろう」
「一体、何があった?シュウがお前を殴るなんて……」
「つまらん喧嘩だ。しかし、最後は俺が言い過ぎたのかもしれないが」
シュウが走り去った方を見つめながら、ハクトは深いため息をついた。




