5
「トシ様」
城に入ったトシは、すぐに衛兵に呼び止められた。
「ユアン様がお探しになられていました」
「そうか。今どこにおられる?」
「わかりません。ハクト様と一緒に出かけられました」
「兄上と?城で何か変わったことはあったか?」
「聞いた話ですが…」
「構わん、言ってみろ」
「国王陛下の寝室にココラルが入ってきたそうです」
「まさか、陛下が?」
「いえ。陛下はご無事です。そのココラルはシュウ様のココラルだったようです」
「トウが……そうか、わかった。ありがとう」
あんなに家に帰りたがらなかったシュウが、トウを城に寄越してくるとは、どういうことだろう。俺が家に帰って、それから産みの母の墓に参っていた、たったそれだけの短い間に、七年もの葛藤を容易に飛び越えてしまう事が起こった?何だ、何があった?まずいな……シュウは大丈夫だろうか。
トシはぶつぶつと呟きながら、廊下を早足で歩いていたが、突然うめき声をあげ、その場にうずくまった。左目に激痛が走ったのだ。近くにいた衛兵がすぐに飛んできた。
「トシ様、どうなされたのですか?」
トシは持っていた鞄から薬を取り出すと、一粒口に入れて奥歯で噛み砕いた。リンビルが作った一番強い痛み止めだった。少しじっとしていると、頭が砕かれるのではないかというほどの痛みは、少しだけ和らぎ、なんとか話せるくらいになった。
「大事無い」
「しかし、すごい汗を……」
「大丈夫だ、何でもない」
トシは壁に手を当てながら起き上がると、心配そうに見ている衛兵に言った。
「他言しないでくれないか」
「えっ?」
「いや、実は昨日、酒を飲みすぎたのだ。そんなことがバレたら、兄上にひどく怒られてしまう」
「わかりました」
「持ち場に戻ってくれ」
衛兵はトシに向かって敬礼すると、扉の横へと戻って行った。
トシは階段を登り始めたが、めまいがひどく、壁に右肩をこすりつけながら進んでいた。耳鳴りがして、周囲の様子もよくわからない中、扉の取っ手を見つけてそれをつかみ、部屋の中へと入った。そこは書庫で、トシは置いてある長椅子に倒れ込んだ。
トシは夢を見ていた。
夢の中で、トルク村の靴職人ザビルの家の中にトシはいた。トシはザビルが作る靴が好きだ。靴底が丈夫で、長旅にもびくともしない。固すぎず柔らかすぎず、ぴったりとその人の足に合うように作ってくれる。トルク村に行った時には必ず訪れ、傷んだ所を直してもらう。今回もまたザビルに会いに行かなければと思っていたから、こんな夢をみているのだろうと、トシは妙に冷静に考えることができていた。
ここは夢の中だとはっきり認識していたのだ。
それにしても、ザビルはどこに行ったのだろう。いつもザビルが座って靴を作っている場所にトシはいるのだが、ザビルの姿はない。そこにさっきまで誰かがいたような暖かさも感じられない。置いてある道具も、そこから見える庭の木々でさえも全くいつもの通りなのに、何かが違う。もちろん、夢の中だからなのだろうけれど、何かがおかしい。
トシは、いつもザビルが座っている椅子を眺めていた。すると、椅子が徐々にねじれていくように見え、そのねじれの中心から人の腕が伸び、トシの袖をつかんだ。トシは恐怖を感じ、悲鳴を上げ、その腕を振り払った。
腕は、ねじれの中心からその下の床に掌をつき、残りの身体を抜き出そうとしていた。上半身が出てきたとき、それはくいっと顔を上げ、トシの目を見つめてきた。何かから必死に逃げているような、助けを求めているような形相だった。
トシはそれ、それは男であったが、その男の目から逃れようとしたが、なぜか身体が動かなくなっていた。歪んだ空間から上半身だけを出しているその男は、今度はトシの手を握ってきた。トシは手を振り払おうとしたが、突然脳裏に記憶の断片のような光景が浮かび、振り払うのをやめた。
その光景に知っている人物がいたからだ。
「カイン」
カインはトシに何かを話しかけているようだった。声は全く聞こえないので、何を言っているのかは分からないが、険しい顔をしていた。
カインが視線を別のところに移した。その視線の先にはマントを羽織った男がいた。マントにはクスラ国の紋章が描かれている。
(あぁ、あれは……)
あのマントの男はクスラ国王ナバルだとトシは気づいた。ナバルのマントは不自然にぐねぐねと動いていた。マントの下から黒いような、空洞のような塊が伸びたり縮んだりしながら蠢いているように見えた。その塊は一つや二つではなく、無数にあった。塊の中には、人の手のように見えたり、口のように見えたりするものもあった。見つめていると、そこに引き込まれてしまいそうな、得体の知れない恐ろしさがあった。
カインが再びこちらを向いて、何かを言っている。
(聞こえない、聞こえないよ、カイン。何と言ってるんだ?)
目の前の上半身の男が、カッと目を見開いてトシを見たかと思うと、つかんでいた手を放し、歪んだ空間に吸い込まれて行った。
男の悲鳴が聞こえたような気がした。