3-1
シュウの足の傷が塞がり、ゆっくり歩くことができるようになった頃には、トシの修行も中盤に差し掛かろうとしていた。
シュウは小屋から出てきて、トシの修行を見学していた。隣にはキレスが座り、にこやかにトシを見つめ、少し離れたところでポルトが見守っている。
トシは三人のソルアに囲まれていた。ひとりはスタン。あとの二人は夫婦のソルアだ。二人は首都エトワからは遠く離れたコチプ村のソルアで、夫のユガは風を操る術を、妻のモナは敵の動きを止める術を使う。二人ともキレスを尊敬し、弟子となったソルアだ。
トシはこの二人の術をすでに習得していたが、今日は実戦に近い形での訓練をしている。
スタンがソルアの気配を消しつつ猫の姿になると、ユガが激しいつむじ風を起こして地面の枯れ葉を舞い上がらせ、トシの周りの空間を葉で覆った。するとモナがトシの動きを止めようと術をかける。が、ほんの少しトシの方が術を出すのが速く、モナの方が動きを止められた。
風が止み、枯れ葉が地面に落ちる。その瞬間に気配もなくトシの背後にまわっていた猫がスタンの姿にもどりつつ五本の指から鋭い爪のような刃物をトシに飛ばした。
トシは防御の術を使う代わりに猫に姿を変え、くるりとまわって爪を避けた。そしてすぐに人の姿にもどると、スタンと同じように手を広げて身体の前で振った。すると鋭い爪のような刃物と同時に矢尻も飛び出しスタンに迫った。
ユガが嵐のような風を起こして、トシがスタンに向けて飛ばした爪と矢尻を弾き飛ばすと、風を操って今度はそれをトシに向かわせた。その頃には動けるようになっていたモナが再びトシに術をかける。今度はトシが動きを止められてしまい、爪と矢尻がすぐそばにまで迫ってきた。
見守っていたポルトが、トシに向かって防御の壁を出そうとしたが、その前に上空からドスンと大男が降りてきて、爪と矢尻は大男が受け止め、そのまま大男は姿を消した。ポルトはキレスに目をやったが、キレスは黙ったまま首を横に振った。
「いいねぇ。いつの間に出していたのか、私にも分からなかった」
と、キレスは言った。
四人の攻防を必死に見つめていたシュウはため息をついた。そして「すごい」と呟いた。
「トシが……別人のようです」
「ソルアとして戦っているのを見るのは初めてだね?」
「はい」
「ここ何日かの訓練で、基礎を叩き込んだ。さすがファジルの息子、そして英雄ユアンに育てられた男じゃ。飲み込みが速いし、こうして実戦訓練をしても対応力がある。頭の回転もいい。私がもう少し若ければと、つくづく思うよ」
と、キレスがクククッと笑った。
ルイが小屋から小さな籠を二つ抱えて出てきた。そのうちの一つをシュウとキレスの前にある机に置いた。シュウはその籠を覗くと、ルイに笑顔を向けた。
「ダジンだね。ルイちゃんが作ったの?」
「実は、タエさんに教えてもらっていたんです」
「何だい?これは」
と、キレスがダジンをひとつ手に取った。
「南の方の国の食べ物なのだそうです。小麦粉と木の実や果物で作りました。ウォルフの好物で。ここは木の実がたくさんあるので、香ばしいダジンができましたよ」
キレスはパクッとダジンをかじると、「ん〜」と嬉しそうに唸って笑顔でルイに頷いた。
「ルイもここでトシの修行を見るといい」
と、キレスは空いている椅子をポンポンと叩きながら言った。しかしルイは首を横に振って断った。
「これをウォルフとハクトさんのところに持っていきます」
ルイはもう片方の籠を見せながら言った。
「そうかい?」
ルイは戦っているトシの方を一切見ずに、ウォルフたちがいる丘の方へ歩き始めた。
キレスはダジンをかじりながら、困った顔をしてため息をつくシュウと、すたすたと歩くルイの後ろ姿を、興味深そうに眺めていた。
「そろそろ明かりを消そうか」
夜、キレスの部屋でそう言われたルイは書物から顔を上げた。
「毎晩、熱心に読んでいるね」
ルイはポルトに頼んで学問所にある医学書を借りて毎晩読んでいた。
「少しでも皆の役に立ちたくて。私、足手まといにはなりたくないんです。今回のようにシュウ先生に何かあった時に先生の役に立てるようにと思って」
キレスはルイの隣に座ると、暖かいお茶をルイに勧めた。ルイはその暖かい湯呑みを両手で嬉しそうに包んだ。
「ルイは充分に皆の役に立っていると思うがな。そもそも、どうしてルイはこの旅の一行に加わった?二度と国には帰れないかもしれない、危険で困難な旅に」
「私……本当は兵士になりたかったんです」
「おや」
と、キレスは目を丸くした。
「本当かい?」
ルイは恥ずかしそうに笑った。
「おかしいでしょう?」
「いいや、おかしくはないさね。私も影の住人と戦ってきた。女だからどうということはない」
「でも父に反対されて叶いませんでした。絶対に駄目だって。剣術を教えてくれたのは父なのに、お前の腕では足手まといになると言われました」
「ルイが傷つくところなど見たくなかったのさ、お父さんは」
「そうかもしれません。父も怪我をしてしまったので、軍隊を辞めて村で剣術の道場を開いていましたから。でも私は父のように、ユアン様のように国を守る強い兵士に憧れていたんです。
軍隊に入るのを諦めた私は、目標を見失っていました。二年前父が体調を崩して、私が村の診療所に父を連れて行くまでは。
診療所にはリンビル先生と幼馴染のシュウがいました。シュウは私と同い年で、幼い頃によく遊んでいた間柄でした。幼い頃から優しくて冷静で賢くて……そんなシュウが、立派なお医者様になっていました。常に患者さんに誠実に向き合い、寄り添う素敵なお医者様に。
シュウみたいになりたい……憧れの対象が兵士からシュウ先生に代わったんです。診療所で先生を支えたい、私も患者さんの力になりたいって」
「それは、恋かい?」
キレスの声は優しく暖かかった。ルイは祖母と話しているような気持ちだった。
「わかりません。でもシュウ先生が旅に出ると聞いて、帰りを待つなんて絶対に嫌だと思ったんです」
「それだけかい?シュウに対する憧れだけで、ルイは危険な旅について来たのかい?」
ルイは恥ずかしそうに笑った。
「キレスさん……なんだか怖いです。全部見透かされているようで」
「だてに年をとったわけではないんだよ、私も」
キレスはにこりと笑うと、お茶をすすった。
「もうひとつは……私が守らなきゃって思ったんです」
そう言ってルイは苦笑いを浮かべた。
「ただのおせっかい……きっと迷惑な……」
「誰を守りたいと思ったんだい?……トシかい?」
ルイは湯呑みをぎゅっと掴んだ。
「どうしてそう思うのですか?」
「なあに、消去法さね。自尊心が強いハクトであれば、守られるくらいなら死んだ方がましだとか何とか言いそうだし、シュウは物静かな男だが、本気で戦えばあの中の誰よりも強そうだ。あの二人に比べると、トシはずいぶんひ弱に見えただろうと思ったのさ」
と、キレスは笑顔で答え、ルイは微笑んで頷いた。
「昔から嘘ばっかりなんです、トシは。痛いのに『痛くない』、いじめられているのに『いじめられてない』、怖いのに『怖くない』って。
子供の頃、意地悪な子にトシがよくいじめられていて……私がその子からトシを守ってあげていたんです。私の方がトシより強かったんですよ。
でも、十四歳の時に家族で都を出て、父の故郷の村に帰ることになったので、それ以降はトシがどれほど強くなったのか知らないんですけど」
「昔のトシの方が良かったかい?頼りなくて守りたくなるような。今は違うか?ソルアとして目覚めたトシは、ルイが好きだったトシとは別人なのかい?」
「好き……?」
ルイはキレスの視線から逃れるように下を向き、一点を見つめたまま固まった。キレスはそんなルイに優しく語りかけた。
「ソルアを憎む気持ちはわかる。フオグ国の者なら仕方がない。悪いソルアばかりではないと理解はしていても、心のどこかには、まだわだかまりがあるのだろう。
しかし自分にとって大切な人がそのソルアだと知ってしまった。後悔しているんじゃないかい?皆について来てしまったことを」
「いいえ。私は後悔など……」
「ルイの顔色を見ていると、そうは思えないんだがね」
ルイが瞬きをすると、大粒の涙が頬を伝った。ルイは慌ててそれを拭き取った。
「我慢しなくていいんだよ。言いたいことを言えばいい」
ルイは少しためらいながら答えた。
「……わからないんです、やっぱり」
「何が?」
「トシは今まで通りのトシだから怖がらないでってウォルフに言われました。でも……どんな顔をしてトシを見たらいいのか、やっぱりわからなくて……私……トシと向き合うと、急に鼓動が速くなってしまって、その場から逃げ出したくなってしまうんです」
「怖いのかい?」
「怖いです……私、ミトに酷い目にあわされたシュウ先生を見た時、あまりの衝撃で腰が抜けてしまいました。衛兵に囲まれた時も、私は何もできなかった。でもトシは、見たこともない顔つきで戦っていた。私たちを守ってくれた。
だけど私は怖かった……トシが得体の知れない存在になってしまった気がして、私は震えていました。
いつかトシが《《あの》》ソルアみたいになってしまったらって……私……」
「ルイ」
と、キレスは涙を流しながら話すルイの背中を優しくさすった。
「ルイ、ソルアというのはね、言わば鎧さ。ソルアという名の鎧を着た兵士なのだよ。そのソルアの本質は鎧そのものではなく、鎧の中の人間で決まる。
ルイは、ただ鎧に恐れているだけなのさ。鎧の中を見てあげなさい。そこにはきっと、昔と変わらないトシがいるはずだよ。ひょっとしたら、ルイよりもずっと悩んでいるかもしれない、一人寂しく泣いているかもしれないトシがね」
キレスはルイの背に手を当てながら、部屋にある小さな窓に目をやった。真夜中、すっかり冷えた外の空気が窓を伝って部屋の中に入ってきていた。キレスは分厚い布でできた窓掛けを閉めると、ルイのための布団を敷いた。
ルイはキレスの部屋で夜を過ごしている。そうすれば、決してスタンが襲いにくることはない。万が一、スタンがこの部屋に近づくようなことがあれば、キレスに去勢されるであろうことをスタンは知っているからである。
キレスは再びルイの背に手を当てると、優しく言った。
「さあ、もう寝よう。大丈夫、ルイは本当に大切なものにもう気付いている。幸いなことに、それをまだ失ってはいない。失ってからでは遅いんだ。手を差し伸べて、しっかりと掴んで、離してはいけないよ」




