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「先生、また読んでるんですか。無理をしては駄目ですよ」
シュウが目を覚ましてから十日ほど経っていた。シュウは布団の上で起き上がり、分厚い書物を読みながら、紙にその内容を書き留めている。シュウの背後には、腰にぴたりと付くようにトウが伏せていた。
「先生、冷えますよ」
そう言って、ルイはキレスから借りた上着をシュウの肩に掛けた。
「ありがとう。トウのお腹が腰に当たっていて、暖かいから大丈夫だよ」
「だいぶ進みましたね」
「なかなか難しいよ。古語で書かれているから。少しくらいなら辞書を使わなくても解読できるんだけど」
と、シュウは横に置いていた辞書を手に取った。
「調べないとわからないことも多いから時間がかかるんだ。でも、とても興味深いよ」
そう言ってルイに笑顔を見せると、シュウは再び書物に視線を落とした。
『全地創世伝』は、この世界の始まりに関する伝説を世界の各国から集めて比較検証した、約七百頁にも及ぶ書物で、およそ九百五十年前に書かれたものだ。各地に伝わる天地創造の話をまとめたものとしては最古のもので、古典学者や歴史学者の研究対象になっている。
「私、読もうなんて思ったことないです」
ルイは書物を覗きながら言った。
「僕もだよ。城の書庫で見たことはあったけど。有名な闇の炎の伝説を子供の頃に絵本で読んだだけで、内容をほとんど知らなかった」
キレスたちにクスラ国王ナバルが不死身の身体を手に入れたこと、聖剣と闇の炎があれば、不死身の身体を消滅させることができるかもしれないことを全て話したシュウたちだった。
「確かに、闇の炎であれば焼き尽くすことができるかもしれません」
と、ポルトは頷いた。
「実在するのですか?」
ハクトが尋ねると、ポルトは再び頷いた。
「実在すると考えています。場所については諸説あります。『全地創世伝』の中に、闇の炎に関する記述は四箇所あって、それらをどう解釈するのか学者によって意見がわかれているのです」
「ポルト先生、お願いがあるのですが」
と、シュウが言った。
「はい、何でしょう?」
「先生のご意見をお聞きする前に、『全地創世伝』を読んで自分なりに考察してみたいのです」
「『全地創世伝』を?なかなかに根気のいる作業ですが」
「簡単に答えを得ようとするなと、僕の師から何度も言われました。自分で調べ、考察し、悩みなさいと。この身体では、旅に出ることができるようになるまでに、まだ随分時間がかかるでしょう。難しい書物であることはわかっています。正確に読めるかどうかもわかりません。しかし、ぜひ挑戦してみたいのです」
「そうですか。それは素晴らしいことです」
と、ポルトはたいそう嬉しそうな表情を浮かべた。そしてすぐに『全地創世伝』を持ってきてくれたのだった。
「先生は剣術よりも学問が好きなのですか?」
ルイの問いにシュウは首を横に振った。
「両方好きだよ」
「そんなことをするより、早く身体を治して修行しようと考えないのかって、ハクトさんが怒っていましたよ」
「兄上はそう言うだろうね」
と、シュウは笑った。
「でも何か目標があったり、楽しいと思える毎日を過ごしていた方が、身体には良いんだよ」
そう言いながらもシュウはじっと文面を見つめ、片手で器用に辞書をめくっている。ルイはそんなシュウを見てニコッと笑うと、夕食の準備をしに行くために部屋を出ようとした。
しかしその時、ちょうど部屋に入ってきたトシと扉の付近で鉢合わせた。二人は同時に「あっ」と声を出すと、その場に固まった。
「どこか……行くところ?」
控えめにトシが尋ねると、ルイは頷いた。
「夕食の準備をしようと思って」
「そうか」
二人は目線を合わそうとしなかった。いや、トシはチラチラとルイの表情をうかがっていたのだが、ルイが全く目を合わそうとはしなかった。
「ごめん」
理由もなく謝りながら、トシは部屋に入るのをやめてルイに背中を見せた。
「どうしたの?シュウ先生に会いに来たんでしょ?」
「ああ」
と答えながら、トシは振り向いた。一瞬、ルイと目が合ったが、ルイがまたすぐにそっぽを向いてしまった。
「私はもう出るから」
トシは壁に身体を寄せ、扉が閉まらないように手で押さえた。ルイは「ありがとう」と言うと俯きがちに部屋を出て行った。
「仲直り……まだできてない?」
ため息をつきながら部屋に入ってきたトシに、シュウが言った。
「なんだよ。『全地創世伝』に集中している振りして、こっちを見てたのかよ」
シュウは書物を読みながら苦笑いを浮かべた。トシは疲れた様子でシュウに近づくと、シュウの隣でゴロンと横になった。
「相変わらず避けられてるんだよな。やっぱり俺がソルアだからだろうな」
「そうかな?」
「そうじゃなかったら、どうして避けられてるんだよ。猫のせいか?膝の上で……でもあの時は仕方がなかったんだ」
「それは、ルイちゃんもわかっていると思うよ」
「じゃあどうして?」
うーん……とシュウは顔を上げた。
「時間が解決してくれるんじゃないかな。ルイちゃんは、今までソルアに対して良い印象を持っていなかったから。突然のことで戸惑っているんだよ」
「ほら。やっぱり俺がソルアだから嫌われたってことじゃないか」
「トシ」
「何だよ」
「トシはルイちゃんのことが好きなんだね」
おいっ……と、トシは慌てて起き上がった。シュウは涼しい顔をして書物に目を向けている。
「何を……そんなわけないだろ」
「なら、別に嫌われてもいいじゃないか。兄上はルイちゃんに嫌われていても、全然気にしていないよ」
トシは何も言えずに苦い顔をして、また横になった。シュウは紙に書き留めていた手を止めると、ふて腐れた顔をしているトシを見やった。
「修行は順調?」
「今はずっと速度の練習。スタンが相手だと、段々と喧嘩みたいになっていくんだよな。それでキレスに怒られる」
「悪い人ではなさそうだけど?」
「シュウは誰にでもそう言うよな。まあ、悪い奴ではないし、ソルアとしても優秀なんだけど。ルイを十二番目の妻にするとかなんとか言いやがるからさ」
「十二番目?つまり奥さんがすでに十一人いるってこと?」
「そうらしい。キレスから年中発情期って言われてる」
「そんな人がルイちゃんを狙ってるってことかい?」
「俺が絶対にそんなことはさせない。指一本触れさせない」
ニコッと笑うシュウに、トシはまた起き上がって否定した。
「違うからな。そういう意味じゃないからな」
「僕は何も言ってないよ」
「目が言ってるんだよ、目が………………俺はもうそういうのは諦めているんだ。その……結婚とかは」
「どうして?」
「どこにこんな、もうすぐ失明するソルアを好きになってくれる女がいるんだよ」
シュウは書物を脇に置くと、布団のそばに置いてある鞄を手にした。
「目の診察をしよう、トシ。僕がこんな身体だからなかなかできなかったけど、少しは動けるようになってきたから」
「いいよ。そんな身体でよく言うぜ。目の状況に変化はないから大丈夫」
「ほら、僕の右足に頭を乗せて横になって。そうすれば診れるよ」
「いいって。膝枕はもうごめんだ。調子が悪い時にはちゃんと言うからさ」
そう言うと、トシは首の後ろを擦った。ソルアの気配を感じたからだった。
「あいつ……」
「どうしたんだい?」
「スタンが猫になって家に入ってきた」
猫になったスタンは、気配もなくルイのすぐそばに近づくはずだとトシは考えた。僕に抱かれれば、女性は皆僕を離さなくなるのですよ……と自信たっぷりに言っていたスタンの憎たらしい顔がトシの脳裏に浮かんだ。
「どうして猫に?」
シュウがそう言っている間に素早く黒猫の姿になったトシは部屋を飛び出して行った。
「トシ……相変わらず、尻尾が生えないね」
シュウはふふっと笑うと、再び書物を手にとった。




