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「アンナ、ちょっとこっちに来て」
サラは自室の扉を開けると、廊下にいた侍女のアンナを手招きした。
「はい、奥様」
アンナがサラの部屋へと入ると、サラは廊下に誰もいないことを確認しながらそっと扉を閉めた。
「こちらへ」
サラはアンナを部屋の中央へと連れて行くと、小さな声で言った。
「実は、あなたに縁談があるのよ」
「え?」
思いもよらなかったことに、アンナは目を丸くしている。サラは嬉しそうにアンナの手を取った。
「いいお話なの。ピサ将軍のご子息、クリス様があなたを見初めて、ぜひ結婚したいとおっしゃっているの」
アンナは顔を赤くして俯いた。サラはアンナが嬉しさと恥ずかしさで顔を赤らめたのだと思い、より一層弾みそうになる声を必死に抑えながら話を続けた。
「クリス様は頭のいい方で、次期参謀と言われている有望な方よ。ユアンも、クリス様ならきっとアンナを幸せにしてくれるだろうって乗り気なの。どうかしら?」
アンナは俯いたまま固まっている。息も止めている様子で、心配になったサラはアンナの顔を覗き見た。アンナは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「アンナ?どうしたの?大丈夫、ここで決めなくていいの。ゆっくり考えてもらえればいいわ」
サラはアンナの背中を優しくさすった。しかしアンナは両手で顔を覆ってしまった。身体を震わせているアンナを見てサラは驚き、「あっ」と口を開けた。
「アンナ、もしかして好きな人がいるの?」
アンナは恐る恐る頷いた。
「そうなのね?ごめんなさい、あなたを苦しめるつもりはなかったのよ」
サラはアンナの背中をさすり続けている。緊張で強張ったアンナの身体は、しだいにほどけていった。
「奥様、そのお話をお断りしてしまったら、私はここに置いてはいただけなくなりますか?」
顔に当てた手で涙を拭いながらアンナが言った。
「どうして?そんなことを心配していたの?そんなことあるわけないじゃない。この話を断ったからといって、屋敷から出て行ってもらうなんてことは考えられないわ。クリス様には、そうね……上手な言い訳を考えておくから大丈夫よ。気にしないで。でもあなたがいつか、その好きな人と結婚するときには、この屋敷を出てしまうでしょう?それを考えると、今から寂しいわ」
「私は、結婚はいたしません」
そう言うと、アンナは再び俯いた。
「どうして?」
「私がお慕いしている方は、再び会うことができるかどうかさえわからない方なです。それにそもそも、私が一方的にお慕いしているだけで……でもその気持ちがある以上、私は他の誰かと結婚することなどできないのです」
サラはにっこりと微笑むと、アンナの頭を優しく撫でた。
「ずいぶん苦しい恋をしているのね、アンナ。あなたのように可愛らしくて気立ても良い女性を好きにならない殿方なんていないわ。自信をもって」
「はい」
消え入りそうな声で返事をすると、サラに深々とお辞儀をして、アンナは部屋から逃げるように出て行った。
夜、ユアンの帰りを待ちながら、サラは部屋で考え事をしていた。クリスからの申し出を、どう言って断れば上手くおさまるかを思案していたのである。
(クリス様とは身分が違いすぎます……だめね、クリス様のことは好きだけれど身分が違うので遠慮しますって意味になってしまうものね……身分の違いなどわかった上で申し込まれてきたのだから、そんなこと僕は気にしませんって言われてしまうわ。あなたに好意はありません、諦めてくださいという意思がやんわりと伝わる言葉はないかしら……)
部屋をうろうろと歩きながらサラは考えている。
(ところで、アンナが慕っている人というのは誰なのかしら。故郷の村にいる?でも、だとしたら再び会うことができないかもなんてことはないはず。ひょっとして既婚者かしら……妾になる手もあるけれど、あれはお勧めしないわね。揉め事が多いもの。それにしても……)
「若いっていいわね」
と、サラは鏡の前でぽつりと呟いた。私なんて、もうすっかり年寄りだわ、とサラは左目の斜め下にあるシミを指で隠した。
(ユアンがいつまでたっても若々しいままだから、私がずいぶん老けて見えるのよ)
相談したいことがある時に限って帰りの遅いユアンだった。
(遅いわ……城で何かあったのかしら。今日は帰ってこないかもしれないわね。皆に先に休むように言ってこよう)
サラは部屋を出て、使用人たちの部屋に向かった。
廊下を左側へと進み、突き当たりを右に曲がる。そのまままっすぐ行けば、使用人たちの部屋があるのだが、そこに行くまでに右に曲がる通路があって、その先には息子たちの部屋が並んでいる。
使用人たちの部屋に向かって歩いていたサラだったが、息子たちの部屋の前の廊下に人の気配を感じて、ふと立ち止まった。
薄暗い廊下に小柄な女性がいて、ぶつぶつと呟きながら四方に身体を動かしている。場所はハクトの部屋の前だ。サラは咄嗟に身を隠して、こっそりと覗き見た。
その女性はアンナだった。アンナはその場で向きを変えながら、胸の前で花をギュッと握りしめて何かを呟いている。その花はスズロスの花だった。
(スズロスの祈りをしているんだわ)
愛する人の無事を祈るスズロスの祈りは、スズロスの花を持ち、北から順に四方を向いて祈りを唱えるもので、これを十二周する。愛する人の家や思い出の場所などで祈りを捧げ、その人が帰ってくるまで毎日続けるのだ。
サラはハッと口に手を当てると、音を立てないように素早くその場から離れ、逃げるように自室へと戻った。
「まあ……どうしましょう」
サラは高鳴る胸に手を当てて、深呼吸をした。
(アンナが好きなのは、ハクトだったんだわ)
アンナのことを娘のように可愛がっていたサラは、嬉しさに頬を緩めた。
(ハクトは気付いていたのかしら。いいえ、私ですら気付いていなかったんですもの。あの子が気付くわけないわね。女の人と話している姿なんて見たこともないし、誰に対しても無愛想。剣術のことしか頭にないもの。でも優しい子だから……ひょっとしたら、いつからか恋仲になっていたのかしら。いいえ、恋仲になっていたとしたら、私なら勘づいたはずよ)
しばらく部屋をうろうろとしながら考えていたサラだったが、急に立ち止まると手をポンと叩いた。
「そうだわ、アンナはハクトの恋人……婚約者ってことにしてしまえばいいのよ」
思わず声に出してしまい、サラは慌てて扉をそっと開けて廊下に誰もいないことを確認した。
(勝手にそんなことを決めてしまったら、ハクトが怒るかしら)
扉をしめながら、サラはため息をついている。
(クリス様の申し出を断るのに良い理由ができたと思ったのだけれど……ハクトはいつ帰ってくるのかわからないし)
ハクトは必ず帰ってくると信じて疑わないサラだったが、それがいつになるかはわからない。アンナをずっと待たせることになってしまっては、アンナが可哀想だと思った。
(ユアン、遅いわね)
結局その夜、ユアンは城から帰ってこなかった。サラは思い悩み、眠れない夜を過ごした。




