11
キレスは小屋の前に出した椅子に座り、ゆっくりと左腕を肩から回していた。ミトの攻撃で大男が潰された時に、キレスは左肩を痛めたのだ。
キレスは今年八十六歳になる。もうそろそろ人生の終いじたくをしようと考えていた矢先に、こんなに面白い冒険ができようとは、キレスは夢にも思っていなかった。左肩はなかなか治りそうになかったが、キレスは子供のようにわくわくしていた。
シュウとハクトそしてトシは、昨日じっくりと話し合っていたようだった。途中からルイとウォルフも帰ってきて、その輪に加わっていた。良い仲間がウォルフの周りにいて、キレスは嬉しく思っていた。ウォルフの生い立ちは先祖代々秘密裏に伝えられてきたが、想像していたのはもっと殺伐とした、感情のない人間像だった。しかし、実際のウォルフは柔軟で繊細で、愛情が溢れている。よくあれで六百年も生きてきたものよ……キレスはフゥーと息を吐くと椅子の背にもたれた。
(心が傷つくことも、さぞかし多かったじゃろうな……)
「キレス!」
きらきらとした笑顔でウォルフが小屋から出てきた。
「やっと飲んだ、キレスが作ってくれた薬」
「そうかい」
ウォルフは小屋の入り口にある切り株に腰をかけた。
「シュウの弱点が、まさか苦い薬だったなんて。お医者さんなのに」
と、ウォルフはクスクスと笑った。
影から放たれた毒針の毒は意識を喪失させる作用を持つものだったが、影の毒を完全に身体から抜くには、ソルアの作る解毒剤を飲む必要がある。そうしなければ、何度もその毒による症状が繰り返し出てしまうのだ。
しかしその解毒剤は、キレスが呪文を唱えながら薬草を混ぜ合わせたもので、この世の物とは思えないほど苦い薬だった。
「あの薬を、意識を保ったまま飲めたんだったら、たいしたもんだよ」
と、キレスは返した。
「苦いよね。知ってる。ただでさえ苦いのが嫌いなシュウを怖がらせたら可哀想だったから言わなかったけど。下手な言い訳ばっかりしてなかなか飲もうとしなくてさ。しまいにはルイさんに叱られて。一気に飲んだけど、悶絶してた」
「なんだ、やっぱり気を失ったのかい?」
「うん。みんなが慌ててたけど、そういうものだから大丈夫だよって言っておいたよ」
にこにこと話すウォルフをキレスは優しい表情で眺めていた。
「何?僕、何か変なこと言った?」
と、ウォルフがキョトンとした顔で言うと、キレスは笑いながら「いいや」と答えた。
「いい子達だなと思ったのさ」
ウォルフは嬉しそうに頷いた。
「そうでしょ。彼らなら僕の望みを叶えてくれる気がするんだ」
「望み?どんな望みだい?」
ウォルフは澄んだ瞳でキレスの目を真正面から見つめた。そして目線を上にあげると、木々の間から覗く晴天を見上げた。小鳥が数羽、木から木へと飛び移りながら可愛らしい声を上げている。心地よい風で葉っぱがざわざわと動き、光を浴びてキラキラと光った。ウォルフはキレスの問いには答えずに笑顔で爽やかな空気を吸い込んだ。そして顔を正面に戻しながら言った。
「誰か来たよ」
すると木々の間から白髪混じりの男性が姿を現し、キレスは微笑んだ。
「来たかい」
「ご無沙汰しております、師匠」
男はキレスにお辞儀をすると、切り株の上に座っているウォルフを観察するようにじっくりと眺めている。
「どうだい?」
「これは複雑な……」
「ミトは気付かんかった」
「そうですか。学生時代の成績は良い方でしたが、自惚れて鍛錬を怠っているのでしょう」
「先生は厳しいねぇ」
「師匠ほどではありませんよ」
「スタンはどうした?一緒に来るようにと伝えたが」
「昨夜から何人かの妻の家に出掛けて、帰ってきたのは朝だったようです。迎えに行きましたが、先に行ってくれと。こちらで何かありましたか?随分と荒れておりましたが」
「あった、かな?」
と、キレスはニヤリと笑いながらウォルフに目をやった。ウォルフも笑って頷いた。
「仕方のない男よ」
その時、小屋から出てきたトシが驚きの声を上げた。
「あ、あなたは……!」
その白髪混じりの男性は、スタンが化けた猫と一緒に処刑場にいた人だった。トシはその男を見ながら、首を傾げた。男からはソルアの気配が全くしなかったからだ。ミトの攻撃を受けた時、助けてくれたのは一体誰だったんだろうか、とトシは思った。
「学問所に来たのは君だね?」
と、男性に話しかけられたトシは、驚いた様子で頷いた。
「学問所で『全地創世伝』の研究をしているポルトです」
その時に爽やかな風が吹いて、野原に咲く花々の優しい香りが運ばれてきた。ポルトと名乗られ、あっ……と口を開けたトシの頭に浮かんだのは、学問所に飾られていた絵画だった。美しい庭を描いた絵画だ。
「あの庭園の絵を描いた先生ですね」
「絵?はい、そうです」
「庭園の絵?」
とウォルフがトシに尋ねた。
「ああ。色とりどりの美しい花がたくさん咲いている……フオグでは先の国王が王妃のために作った庭園があるのだけれど、それを城の上から見下ろした風景に似て……」
その時、一瞬のぞいたソルアの気配を、トシもウォルフも逃さなかった。二人は同時にポルトに顔を向けたが、その時にはもうソルアの気配は消えていた。ポルトはいつの間にか左胸に当てていた手を静かに下ろした。
(ソルアの気配を消す術があるのか……)
トシは意識の中で微かに聞こえたポルトの術の呪文を小声で唱えながら、左胸に手を当ててみた。
「これは……」
と、ポルトが言葉を失った様子でトシを見つめている。トシのソルアの気配は二十秒ほど消えていたが、すぐにまた元に戻った。
「どう思うかね?」
キレスがポルトに尋ねた。
「この子はファジルの息子だよ」
今度はポルトが、あっ……と口を開ける番だった。
「子が……いたのですか」
「父をご存知なのですか?」
トシが一歩前に歩み出ると、ポルトは一歩後ろに下がった。
「師匠」
と、ポルトは少し強めな口調でキレスに呼びかけた。
「私の手には負えません」
「なあに。基礎を叩き込んでくれたらいいだけさね」
「しかし……」
「先生を探してこの国にやって来て、仲間が命を落としかけたんじゃぞ。それくらいしてやっても良かろう」
キレスの言葉に、トシは目を丸くしてポルトに問いかけた。
「やはり……あの絵の庭園はフオグ城の……あなたはレジェムさんなのですね?」
ポルトは困惑した表情でため息をついた。
「その名前はもう捨てました。私は学問所の研究者ポルトです」
「どうして捨てたなど……」
「フオグ国にいたソルアは、誰一人としてあのソルアを止めることができませんでした。ソルア達は皆、あのソルアと繋がっているのではないかと勘ぐられ、罵られ、国を追い出されました。
私はその時、他国へ旅に出ていたのですが、国へと戻ろうとしていた折に国を出たソルアから事情を聞いたのです。皆、追っ手が来るのではないかと恐れていました。国王陛下が復讐のために、英雄ユアン様を派遣し、国にいたソルアを捕まえに来るのではないかと。ですから国から逃れたソルア達は名前を変え、フオグ出身であることを隠し、遠く離れた異国で暮らすことを選んだのです。私も、そうした者の一人なのです」
そう話すと、ポルトは再びため息をついた。トシは少し考えてから首を横に振った。
「ルシフ前国王陛下は争いごとがお嫌いな穏やかな方です。おそらく当時は大切な方々を亡くされ、怒りの矛先をソルアに向けてしまわれたのだと思います。それにたとえ父が、そのような命を国王から受けたとしても、全力で阻止したと思います」
「なんと……」
と、ポルトは息を止めてキレスに視線を向けた。キレスは楽しそうにホッホッホと笑っている。
「トシ、お主たち兄弟の父親は英雄ユアンなのだね?」
トシは頭に手を当てながらウォルフと目を合わせた。つい口が滑ってしまった……ハクトに怒られる……何も言わなくてもトシの表情からそんな言葉が聞こえた気がしたウォルフは、クスッと笑った。
「これはこれは……ファジルの息子を英雄ユアンが育てた……先生、これは想像以上かもしれないよ」
と、キレスは楽しそうだったが、ポルトは浮かない表情をしていた。
「師匠、ますます私の手には負えません」
「ねえ、キレス。さっきから何の話をしているの?手に負えないとか何とか」
と、ウォルフが尋ねた。
「トシを一人前のソルアにしようとしているだけさ。私はね、ウォルフ。ひとつだけやり残したことがあるのだよ。もう諦めていたんだが、そこにこの子が現れた。私はもう飛び上がりたいくらいに興奮しているのだよ。
トシにソルアの基礎を叩き込み、この天才的な能力が光の世界で輝くように導く。シュウの怪我が治り再び旅に出られるようになるには、まだ相当時間がかかるだろう。その間に、この子に私の希望になってもらうのさ」
「わかるようでわからないよ」
ウォルフが首を傾げると、キレスは何度か頷いて、トシを見つめながら言った。
「ファジルも天才だったが、何故かこの世に絶望していた。そのために彼は影の世界で生きるソルアとなった。いつもどこかで光と影の均衡が乱れていないか監視してはいるが、光の世界にはほとんど姿を現さない。今ではソルアの間では伝説のような、実在するのか否かわからないような謎の存在になっている。私も会ったのは二度。一度目はファジルが影の世界に身をおとす前。そして二度目は私が強大な影と戦っていた時に助けに来てくれた時」
トシは頭に当てた手でぐっと髪を掴みながら俯き、キレスの話を聞いている。蝋燭の火がふっと消えるように姿を消したファジルが脳裏に浮かんでいた。
「影に大きな力を持ったソルアが存在する、それは光の世界の安心に繋がることは確かだが、同時にそれは脅威でもある。力は均衡であるべきだ。ファジルが道を踏み外すと思っているわけではない。しかし三十年前のことを考えると、絶対とは言い切れんのだ」
「三十年前、フオグ国を襲ったソルアもまた、その影で生きるソルアだったということ?」
「その通りだよ、ウォルフ。今も世界には影で生きるソルアがファジル以外にも何人かいるが、三十年前フオグ国を襲ったのは、そういうソルアの一人だ。私も詳しいことは知らないし、そのソルアに会ったこともないが、強大な影を操ることのできるソルアだったそうだ」
「そんなソルアに、トシのお父さんがなるかもしれないの?」
「完璧な人間など、この世にはおらんということじゃよ。光の世界にファジルと同じくらいの能力を持つ者がおれば、たとえどちらかが道を踏み外すことがあっても、暴走を止めることができるはず」
「キレスさん」
と、トシが髪を掴んでいた手を力無く下ろしながら言った。
「あなたは僕のことを買い被りすぎています。僕にそんな能力はありません」
「いいや、トシ。お主のように見ただけで術を出すことができるようになるソルアなど、私は今まで見たことも聞いたこともなかった。お主には能力がある。しかし基礎がないから、力の出し方がなっとらん。とりあえず基礎をきっちりと学べば、ファジルに少しくらいは近づけるじゃろう」
「トシのお父さんも、見ただけで術が出せるの?」
ウォルフが尋ねると、キレスはにこりと笑った。
「ソルアの術の中には、誰もが使うことのできる基礎的なものと、親から子へと伝えられる、その家特有の術がある。それは先祖代々、研鑽や訓練を繰り返し、術の精度や強度を高めてきたものだ。
しかしファジルは自分で全ての術を作り出す。身体から自然と溢れ出すように、新しい術を繰り出す。誰からも何も教わったことがないと言っていた。それは彼が生まれながらに持っていた能力なのだろう。つまり彼が出す術は他のソルアが見たこともないような術ばかりなのだ。まあ、そんな能力を持った男だから、術を真似るくらい簡単にできるのかもしれんがな」
「影の世界から出てきて、トシにいろいろ教えてくれたらいいのに」
ウォルフの言葉に、キレスはうんうんと頷いた。
「本当は、彼を影の世界から引きずり出したいんじゃがな。息子がいるというのに出てこんとなると、何かよっぽどの事情があるのかもしれん」
キレスは椅子から立ち上がると、腰に手を当てて「うーん」と背中と腰を伸ばした。
「やれやれ。もう少し若ければ、私がトシを鍛えらられたんじゃがな。私の弟子を総動員して短期間で頑張ってもらおうか。
それからトシ、ウォルフ、先生から『全地創世伝』の何を聞き出そうとしているのか知らんが、その目的やお主たちの旅の理由をきちんと説明しなさい。英雄ユアンの息子たちが、大した理由もなくそんなことをするはずがあるまいて。よいか、決して悪いようにはせん。力になってやる」
「わかったよ」
ウォルフとトシは同時に頷いた。




