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皆と別れた後、ハクトは街を散策していた。多くの店が並び、買い物客で賑わっている通りから奥に入ると酒場がたくさん並んでおり、こちらもまた賑わっていた。酔っ払い客の笑い声が響く中、ハクトは店からの勧誘を断りながら歩いていた。
酒場ばかりではなく、宿屋や武器を扱う店もあったが、その中に、扉に人の名前と花の絵が描かれた建物が点在していることにハクトは気づいた。花は全て同じ花だった。この花は確かキレスという花だな…と、ハクトはあるひとつの扉の前で立ち止まった。キレスとは、楕円形の花びらが八重に並んだ、太陽のような形の花である。フオグ国でも野原によく咲いていて、道場からの帰り道にアンナが花を摘む姿が野原にあったことを、ハクトはふと思い出していた。
「何かお困りごとですかな?」
不意に目の前の扉が開き男が出てきたので、驚いたハクトは一歩後ろに下がった。男は金属で作られたキレスの花の飾りを首から下げていた。
「ここは…?」
「ソルアのベンスと申しますが、影の退治をご依頼ですかな?」
「ソルア……の店なのですか?」
ベンスはハクトを上から下までじろりと見つめた。
「旅の方ですかな?」
「はい。人を探しています。ソルアの人を」
「そのソルアのお名前は?」
「レジェム」
「それは、中と外のどちらの名前ですかな?」
「中と外?どういう意味ですか?」
「あなたは、ソルアのことを何もご存知ないのか?お国はどちらで?」
「……ワンシャム」
「なるほど、お隣でしたか。ワンシャムは田舎ですからな、人も少なければ影の住人も少ない。すなわちソルアも少ない。あなたがソルアにいくつかの名前があることを知らないのも無理はない。影も田舎より都が好きですからな」
嫌な男だ…とハクトは顔をしかめたが、レジェムの手がかりが掴めるかもしれないと、ぐっと自分を抑えた。
「ソルアには、いくつか名前があるのですか?」
「ええ、もちろん。影に自分の本名を知られてはならないですから。私のベンスという名前は表向きのもので、本名は違います」
「では、レジェムというのが表向きの名のソルアをご存知ですか?」
「いえ、知りません」
「レジェムというのが本当の名前のソルアは?」
「知りません」
ハクトはベンスを殴りそうになっている自分の右腕を左手で押さえた。(こいつ……人を馬鹿にするのを趣味にしているのか?)
「そうですか」
そう言って去ろうとするハクトにベンスは言った。
「オレジの丘のご隠居様なら、何かご存知かもしれませんがな。まあしかし、変わった人ですから、話など聞いてもらえないと思いますがな」
ベンスはそう言うと、ふんと馬鹿にしたように笑い、建物の中へと戻って行った。
キレスの花が扉に描かれたソルアの店はベンスの店の他にもあり、ハクトはそのうち何軒かを訪ねてみた。しかしレジェムを知っている者はおらず、皆、オレジの丘の隠居のことを口にしていた。
エトワは周りを壁で囲まれた都市で、オレジの丘へ行くには市門を通る必要があった。ハクトは一旦宿に戻ると、シュウの荷物の上にオレジの丘へ向かう旨の書き置きを残した。市門が閉まる時間までに戻って来られないかもしれないと考えたからだった。そしてハクトは馬を連れて街から離れた丘へと向かった。
馬でなだらかな斜面を登りながら後ろを振り返ったハクトは、思わずため息が出た。そこからは街を一望することができた。立派な城が奥に見え、たくさんの建物の屋根が見える。明るい日差しが街に降り注ぎ、風に乗ってどこからか音楽も聞こえてくる。確かに、ここは栄えている都らしい……ハクトは再び前を向き、馬を進めた。
丘の頂上付近は平地が広がり、草原にはキレスの花をはじめ、色とりどりの花が咲いていた。そして草原の中に少女が一人、花を楽しげに摘んでいた。
十歳ほどだろうか、幼さの中に少し大人びた雰囲気を漂わせた少女は、馬に乗ったハクトをちらりと見たが、特に気にする様子もなく花を摘んでいた。
「ちょっと尋ねるのだが」
と、ハクトは少女に話しかけた。
「ご隠居様のお宅は、こちらで間違いないか?」
少女はうなずくと、草原を超えた向こう側を指差した。
「ありがとう」
ハクトは礼を言うと、花を踏まないように気をつけながら馬の歩みを進めた。
するとその時、バサバサッという大きな羽音と共に、草原に大きな鳥の陰影が写った。ハクトが見上げると、ウォルフを咥えたトウが上空で必死に羽を羽ばたかせていた。
「トウ!」
ハクトの声に反応したトウが、羽を広げたままゆっくりと降下し、ハクトの目線の高さまで来ると、力尽きたようにウォルフと共に花畑の中に落下した。
「トウ!ウォルフ!」
と、ハクトは駆け寄った。
「どうした?何があった?」
トウは息も荒く、羽をしまう元気もないようすで伏せていた。ウォルフは気を失っていて反応がない。
「おい……何があった?他のみんなは?」
ハクトはトウの頭を撫でたが、トウは疲れた様子で目を瞑った。
ふと気づくと、花を摘んでいた少女がハクトのすぐ側にまで近づいて来ていた。少女は目を丸くしてトウとウォルフを見つめている。ハクトはなるべく優しい声で少女に話しかけた。
「すまん、怖がらせたな。大丈夫、怪しい者ではないしココラルは吠えたりしない」
すると、少女の姿がパッと消えた。
「え?」と、ハクトは辺りを見渡したが、少女は蝋燭の火が消える時のように姿を消していた。
「もし、そちらの方」
突然、ハクトの背後から男の野太い声がして、ハクトは驚いて振り返った。そこには小太りの背が高い男が立っていた。
「お困りでしょう。ご隠居様がお呼びでいらっしゃいます。どうぞこちらでお休みください」
唖然とするハクトに男は微笑みながら頷くと、トウの身体を優しく抱き抱えて花畑の向こう側へと歩き始めた。
ウォルフをうつ伏せの状態で馬の背に乗せ、その身体を横から支えながら、ハクトは男の後に付いて歩いた。しばらく行くと、生い茂る木々の中にひっそり佇む小屋が見えてきた。それは古い小屋だったが、木の壁はぴかぴかに磨かれ、勾配のある三角屋根の瓦も手入れが行き届いていた。
小太りの男は、小屋の前の芝生の上にトウを横たわらせると、ふっと姿を消した。またか…とハクトは少し戸惑ったものの、きっとソルアの仕業だろうと自分を落ち着かせた。そしてウォルフを馬から下ろすとトウの隣にそっと寝かせた。
その時、小屋の扉が音もなく開いて、中から小さな老女が姿を現した。少しだけ曲がった背中側で両手を組み、しかし足取りは軽やかにトウの前に進んだ老女は、目が無くなりそうなほど顔をくしゃくしゃにしながら微笑んだ。
「なんと賢いココラルじゃ」
老女は後ろで手を組んだまま指をパチンと鳴らした。すると小屋の中から、花を摘んでいた少女が両手に木の器を持って出て来て、トウの前にその器を置いた。ひとつには水が、もう片方には木の実が入っていた。トウは立ち上がると水をたらふく飲み、木の実の入った器に顔を突っ込んだ。
「たくさんお食べ」
老女はそう言うと満足げに首を振り、今度はウォルフに視線を向けた。そして「んんー」と、低く長く唸った後、顔を上げてハクトに話しかけた。
「これは、確かに複雑じゃの。この者の名はウォルフで間違いないか?」
さっきいたはずの少女の姿はすでに無かった。警戒している様子で動かないハクトを見て、老女はフフフと笑った。
「心配せんでよい。私はお前が探していた隠居に間違いない。ソルアとはいえ、ここで静かに余生を過ごしている婆さんさ。ウォルフを始末しようなんぞ思っとらんよ。それどころか私は、ウォルフにずっと会いたいと思っておったのさ。まさかそっちから来てくれるとはな。長生きはするものじゃな」
「ご隠居様はウォルフのことをご存知なのですか?」
「そうじゃな……お前たちにはキレスと呼んでもらおうか。ご隠居様と呼ばれるのはあまり好きではないのでな」
「花の名ですか。そういえば、街のソルアは皆キレスの首飾りをしていました」
「この国では、キレスがソルアの紋章なんじゃよ。しかし馬鹿馬鹿しいことじゃ。あいつらは自分がソルアであることをひけらかし、そうではない者より優れているかのように振る舞っておるのじゃ。偉そうにな。偉いことなんぞ何もないというのに」
キレスはウォルフの身体にそっと手を当てると、また「んんー」と唸った。
「ミトの仕業じゃな、この術は。ウォルフの中にある影の気配を身体から出そうとしたのであろう。未熟者めが」
「何があったのか、わかるのですか?」
「ソルアは皆、親から子へと技が受け継がれていくものでな。それぞれ個性があって、技を見れば誰なのかわかるんじゃよ。私の得意とする術は、こうやって自分以外の人間を出して、自分の代わりに用事を済ませてもらうことでな。今は戦いのためではなく、いろいろ世話をしてもらうのに役立っておる」
そう言いながらパチンと指を鳴らしたキレスの後ろから、小太りの男が机と椅子を担いでやって来てキレスとハクトの間に置いた。そしてすぐにまた姿を消した。
「まあ、座りなさい。ウォルフが目を覚ますまで、あともう少しかかる。ミトに随分と身体の中をぐちゃぐちゃにされたようだから。一緒にお茶でも飲もう」




