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無謀なことはトシにもわかっていた。自分が使える術は〈私を守れ〉。その術で、ここにいる人々を全員守れるかどうかさえわからない。
トシは上空を見上げた。こんな化け物、見えない方が幸せだ……紫色の煙は大蛇のような姿となって上空をうねっている。化け物の顔には血走った目と顔の端まで裂けている口、長い身体の表面には無数の目……その目から一斉に矢尻が放たれる。トシも化け物の真似をして矢尻を出せるようにはなったが、目をいくつか潰せたとしても恐らく間に合わないだろう。
化け物は相変わらずチマヤから殺意を吸い込んでいた。もしチマヤを正気に戻らせることができたなら、化け物の力を弱めることができるのではないだろうか……トシはもう一度庭に出るとチマヤの正面に立った。
「チマヤ君、しっかりするんだ。このままでは、君は化け物に飲み込まれてしまう」
化け物の身体の目がうにょうにょと動き、口がにやりと開いた。
「チマヤ君、聞こえるか?愛する人を苦しめて、何が楽しいんだ」
チマヤの目から涙が出てくるのがトシには見えた。その時だった。
「トシ、しっかり。トシ!」
ルイの声がトシの背後から聞こえた。驚いたトシは思わず「ルイ?」と言いながら振り向く。しかし、そこにルイはいない。
しまった……ルイの声を出して俺を呼んだのは化け物だったか……そう気付いた時には遅かった。トシの身体は硬直し、口も動かせなかった。
トシはなす術なく、化け物から伸びてきた腕のようなもので身体をぐるぐる巻きにされ、上空へと上げられてしまったのだった。
「トシ!」
ハクトとシュウ、そしてウォルフが縁側に駆け寄った。
「どうなってる?トシが浮いているぞ」
ハクトがウォルフに向かって言った。
「化け物がトシを捕まえたんだ」
「どうすればトシを助けられる?」
「わからない」
「おい……」
化け物の身体の目が、縁側にいる三人の姿を一斉に捉えたのがウォルフにはわかった。
「来る!」
ウォルフは二人の腕を取り、唯一残っている壁まで高速で移動した。その瞬間に、無数の矢尻が背後の壁に刺さる衝撃が背中に伝わり、筒抜けになった場所には横殴りの雨のように矢尻が降り注いだ。矢尻の雨がやむとすぐにウォルフは壁から出て上空を見上げた。
「トシが飲み込まれてしまう」
「飲み込まれる?」
ハクトとシュウも慌てて壁から飛び出した。トシの身体が左右に揺れながら、次第に上昇しているのが見えた。
「駄目だ。ああなってしまったら、どうしようもないんだ」
「トシ!」
シュウとハクトが叫ぶ声がトシにも聞こえた。化け物の力は強く、布を絞るように身体を締め付けてくる。身体のどこにも力が入らない。息をするのも苦しくなって、意識が遠ざかる。目の前にあるのは、大きく開けられた化け物の口……トシにはどうすることもできなかった。
もう駄目だ……化け物がトシを頭の上に持ち上げ、あんぐり開けた口に放り込もうとしたまさにその時、辺りに男の低い声が響いた。
「光よ力を」
トシにとってそれは聞き覚えのある声だった。影の世界で化け物と戦っていた時に〈私を守れ〉と頭の中で囁き、術を教えてくれた声と同じ声だったのだ。
「影に制裁を」
トシを掴んでいる化け物の腕がスパッと切られ、絡みついていた腕も散り散りになった。束縛から解放されたトシの身体は、下から支えられているかのように、ゆっくりと地面に降りていった。
「あれは誰だ?いつからあそこにいた?」
突然目の前に現れてトシを助けた男に、ハクトとシュウは息をのんだ。男は茶褐色の長い髪を後ろで束ね、簡素な衣を着ていた。口ひげと顎ひげを伸ばし、年齢はユアンと同じくらいに見えた。
「ソルアだね。しかも、かなり強そうだ」
と、ウォルフは答えた。ハクトとシュウは、初めて見るソルアの姿を凝視している。見えない敵と戦うソルアを、二人とも話には聞いて頭では理解していたつもりだったが、信じきれていないところもあった。しかし今、空中に浮いていたトシが、ソルアの呪文のような言葉によって、ゆっくり地面に着地したのを見て、その疑念は一瞬で晴れた気がしたのだった。
横になった姿勢で地面に着地したトシだったが、身体にほとんど力が入らなかった。どうにかして頭を動かして、助けてくれたソルアの姿を見たトシは、ハッと口を開けた。何度も夢の中に現れていた男が、そこにいたからだった。
目が合ったトシに向かって、ソルアは微笑み頷いた。そして右手を上にあげた。
「汝、均衡を乱す者 罪は大きい 戻れ、あるべき処へ 戻れ、あるべき姿へ 影に制裁を 光よ力を」
ソルアはぶつぶつと呟きながら右手を上から下へ、そして左から右へと動かしている。その動かした指先から、白い光線が空中に放たれ、十字の模様を作った。それからソルアは斜めに腕を動かしてから、くるくると回す。すると、蜘蛛の巣のような形の白い光が、ソルアの前に現れた。
ソルアが右手を下から上へ、上空に向かって投げる仕草をすると、白い光の網は大きく広がりながら化け物を包みこみ、化け物を捕らえた。
「何だ、あれは……」
上空では白く光る網に包まれた大きな塊が浮いていた。ハクトとシュウには、網の中は空洞に見えたが、ぐにょぐにょと網は蠢いていた。
「魚を獲るように、網で化け物を捕まえたんだ」
と、ウォルフが言った。
ソルアは呪文のような言葉をずっと繰り返していた。光の網は次第に小さくなりながら、下へ降りていく。ウォルフは目を輝かせながら呟いた。
「すごい……あの人、化け物の精気を吸い取っている」
塊が人の頭ほどの大きさになると、ソルアは光の糸を手繰り寄せ、化け物が包まれた光の玉を脇に抱えた。それからソルアはハクトやシュウの方に身体を向けた。
「人の心を直す術はない。頼んだぞ」
と言いながら、ソルアはチマヤの方に顔を向けた。チマヤの身体がふらつき、倒れそうになっているところだった。すぐにシュウが駆けつけ、倒れるチマヤの身体を受け止めると、ソルアに言った。
「わかりました」
ソルアは頷くと、今度はトシに身体を向けた。トシはもがきながら上体を起こし、ソルアの目を見つめた。
〈父さん〉
意識の中でトシはソルアに呼びかけた。ソルアはまた穏やかな顔で微笑んだ。
〈また会おう〉
ソルアは意識の中でトシに答えると、ふっと姿を消した。蝋燭の火が消える時のように。
「消えた」
と、ハクトが呟いた。




