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ウォルフがすっくと立ち上がり、トシに顔を向けた。トシが呆れたような表情を自分に向けていたからである。ウォルフは、いたずらっ子のような無邪気な顔で肩をすくめた。そして二人は揃って視線を屋敷の門の方に向けた。
トシが屋敷の門に近づき、そっと押し開ける。扉はギーっと重く軋む音を立てながら開いた。庭にいた者全ての視線が、門に向けられた。
「イヒラ殿ですね?」
暗闇のなか佇んでいた男性に、トシは声を掛けた。随分前からトシは、その場所に負の感情があることに気づいていた。それは困惑や悲しみなどが入り混じった複雑な感情だった。
旅装束を身にまとったその男性は、目元がテミラに似ていたが、人懐っこく柔らかい雰囲気のテミラとは違って、少し気難しそうで堅い空気を端正な顔立ちに漂わせていた。
「旦那様」
と、ワムが大きな声で言った。ワムの横にいたエリナは、はっと息をのみ顔を引き攣らせている。
「あなた……帰ってくるのはまだ先のことでは……」
イヒラは憂いを帯びた瞳で一同を見渡した。そしてチマヤを目にすると、より一層顔を曇らせて近づき、視線を逸らすチマヤに話しかけた。
「去年、テミラの葡萄の花を駄目にしたのも、お前だったのか?」
チマヤは黙ったまま頷いた。
「なぜだ。タエを苦しめたかったというのは本当か?」
チマヤは、ただ頷いた。
「なぜタエを苦しめねばならぬ。何の恨みがあるというのだ」
「奥様が……奥様がお可哀想で……」
と、チマヤはしぼり出すような声でそう答えた。
「それはどういう意味だ?お前はエリナの何なんだ?」
「旦那様が……あなたが奥様を苦しめておられたのではありませんか。いつもあなたの心にあるのはタエ様のことばかり。奥様がどれほど寂しい思いをされておられたのか、あなたは何もわかっていない」
「チマヤ……」
「僕はあなたよりも奥様のことを思っている。僕は、奥様のお気持ちが少しでも晴れるように行動しているだけです」
イヒラはエリナに目を向けた。エリナは顔を青くして、チマヤを見つめている。その表情を見たイヒラは、ハッと息を吸った。
「エリナ……まさかチマヤと情を通じているのか?」
エリナはイヒラと目が合うと息を止め、一歩後ずさった。
「すべてはあなたが招いたことです。奥様は何も悪くない。奥様はずっと寂しい思いをされていたのです。僕はただ、お慰めしたかっただけ」
と、チマヤはにやりと笑った。イヒラはチマヤから離れ、皆に背を向けて膝に両手を置いてうなだれた。イヒラの背中は震えていた。
「あなた……」
と、エリナが裸足のまま庭へと降り、イヒラの背後に立ち、その背中に手を当てようとした。しかしエリナは途中でその手を引っ込めると、後ろにいるチマヤに向き直った。
「思い上がらないで。私はあなたを利用しただけ。タエが憎くて、苦しめたくて、あなたを私の意のままに動かしただけ。私が愛しているのは、イヒラただ一人」
「そんなこと、わざわざ言わなくてもわかっていますよ」
チマヤが唸るように言った。トシとウォルフが同時にピクリと身体を動かした。二人にだけみえている影の住人の身体がチマヤの上で突然爆発的に膨らみ、屋敷の空を覆ったからである。
「まずい、こっちの世界に出てくる」
と、ウォルフが慌ててトシに囁いた。
「僕たちは思い違いをしていたんだ。あの化け物の好物は、エリナ様の嫉妬心じゃない。チマヤ君の愛憎だ」
「愛憎?」
「チマヤ君の憎悪が見えなかったのは、愛の殻に隠れていたからだ。あの影は、時折殻が破れて飛び出す殺意を好物に……」
「僕は、あなたを愛している。あなたのためだったら何だってできるのに」
チマヤの唸るような声があたりに響いた。ハクトが剣の柄に手を当てながら上空を見上げている。
「ヤン……感じますか?」
と、シュウがハクトに言った。
「あぁ……何かいるな……何だ?暗くて何も見えないが」
「あなたは僕の愛を受け入れてはくれないのですね」
そのチマヤの言葉と共に、上空から無数の矢尻がエリナに向かって放たれたことに、ハクトとシュウは気付いた。
「逃げろ」
そう叫びながら、咄嗟に剣を振り回して矢尻を弾き飛ばしたハクトとシュウだったが、数が多すぎて半分以上は防ぎきれなかった。
絶望的な気持ちで二人がエリナを見遣ると、エリナに被さるようにウォルフが抱きつき、全ての矢尻を身体の背面に受けていた。
「ウォルフ!」
ハクトの声にウォルフは一瞬身体を起こしたが、力無くその場に倒れ込んだ。エリナが悲鳴を上げ、イヒラはそんなエリナを後ろから抱きしめた。
「ウォルフ!」
と、シュウとハクトが駆け寄ろうとしたが、ウォルフは上体を起こし、首に刺さっている矢尻を手で抜くと、咳き込みながら叫んだ。
「建物の中へ、皆を……はやく!」
ハクトがエリナとイヒラをかばうようにしながら、屋敷の中へと追い立てるように導き入れる。シュウはウォルフの腕を抱えて起き上がらせ、屋敷の中へと急ぎながら上空を見上げた。殺気の塊のような気配は感じるが、シュウには何も見えなかった。
「シュウ、君には見えないだろうけど、影の住人が上空にいる。化け物は力が強まると、影の世界と光の世界の境界にある膜を破って出てきてしまうんだ」
と、ウォルフは頭に刺さっている矢尻を抜きながら言った。
「影の住人?聖剣が必要ということかい?」
「あるいは優秀なソルアがいれば」
縄で縛られていた男たちは、周りに誰もいなくなったことをいいことに、屋敷の外へ逃げ出そうと門の方に向かっていた。しかし、上空から無数の矢尻が男たちに向かって降り注ぎ、身体中に矢尻を受けた男たちは門の前で倒れた。
「何をしている?君も建物のなかへ避難するんだ」
と、トシがチマヤに呼びかけたが、チマヤは呆然と立ち尽くしている。トシは、その生気のない顔を覗きこんで両肩に手を置いた。
「聞こえているのか?」
上空から、チマヤの周りに矢尻が降り注ぎ、トシはチマヤから離れざるを得なかった。見上げてみると、上空の化け物はチマヤから出る殺意を吸い込み続けている。
「トシ!」
シュウの呼ぶ声に、トシは迷いながら屋敷の中へ入った。このままソルアとして化け物と戦うべきか、何か別の方法を考えるべきか……トシにはまだ、自分がソルアだということを皆に打ち明ける心の準備ができていなかった。
屋敷にいる者たちが、雨戸を閉めてまわっている。しかし、矢尻は木製の雨戸にどんどん降り注ぎ、いつ倒れてもおかしくない状態になっていった。
「これは時間の問題だぞ。おい、ウォルフ。何なんだ、あれは。空にある、あの気配は」
手が届かないところに刺さっている矢尻をシュウに抜いてもらっていたウォルフは、ハクトの言葉を聞くと突然ぴょんと飛び上がり、ハクトの背後に着地した。そしてハクトが肌身離さず身体に縛りつけている布を少し手繰り、中にある聖剣を覗き見た。
「おい、何を…?」
「試しに持ってみないか?」
「馬鹿を言え。気軽に表に出せる物じゃない。第一、まだ俺は剣に呼ばれていない」
「呼ばれる?」
「父上は、そうおっしゃっていた」
「でも、影の住人の気配を君は感じている」
「あれほどまでに凄まじい殺気を感じない兵士がいると思うか?」
「確かに。すごい殺意だ。愛が大きければ大きいほど、憎しみもまた大きくなる」
「ん?どういうことだ?」
眉間に皺を寄せているハクトを見て、ウォルフはクスッと笑った。
「君に、こんな話はまだ早かったね」
「お前……俺にそんな口をきいたら許さんぞ」
轟音と共に、皆が避難している部屋の雨戸が倒された。
「喧嘩をしている場合ではありません」
と、シュウはエリナとイヒラをもっと奥の部屋へと逃げるように促しながら大きな声で言った。
「どうにかしないと、皆、やられてしまう」
シュウが飛ばされた雨戸があった方向に顔を向けると、屋敷が外まで筒抜けになり、庭にいるチマヤの後ろ姿が見えた。そして唯一残った壁に背を当てて、トシが外をうかがっていた。
「トシ!そこは危険だ」
シュウの言葉に頷きながら、トシは壁から飛び出し、上空を見上げた。




