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ファジルが軍に入ってから五年程経った頃、フオグ国軍は再びジニア国に援護に向かうことになった。
ジニア国までの道中、ファジルは体調を崩していた。顔色が段々と悪くなり、頭痛に悩まされていた。眠りも浅く毎晩のように悪夢にうなされ、目の下は青黒くなっていった。
ユアンはファジルに国に帰るようにと言ったが、ファジルはそれを頑なに固辞した。
「天気が悪い日が続いているのが原因でございます。雨が続くと、このような症状が出ることが、昔からあるのです。ご心配には及びません。天気が回復致しましたら、私の体調も元通りとなりましょう」
しかし、天候が回復してもファジルの顔色は良くならなかった。
そんな時、フオグ国軍一行は、フオグ国とジニア国の境界にある川で足止めをくらった。地元の者から、その川を渡るのを止められたためである。
「川を渡るのは今しばらくお待ちください、ユアン様。いつもでしたら、流れの緩やかな浅い所を馬で難なく渡りきることができますが、今はいけません。影の住人が悪さをしているのです。必ず川底に引きずられ、命を取られます」
ユアンは馬を降り、聖剣を手に取って川岸に立った。聖剣は影を斬ることができる唯一の剣である。
聖剣の青い光に吸い寄せられるように、影の住人は姿を現わす。といっても、その姿をユアン自身も見たことはない。気配を感じるだけである。聖剣をかざし、その青い光に包まれている間、ユアンは影の住人がどこに潜んでいるのかを瞬時に把握することができる。
しかしこの時、青い光は強く辺りを照らしていたが、影の住人の気配を感じることはなかった。
「本当に影が悪さをしているのか?」
と、ユアンは地元の者に尋ねたが、皆、怯えた様子で何度も首を縦に振った。
「あんな浅瀬で溺れるわけがないのです。渡ろうとした者たちは皆、命を落としました」
その日の真夜中、ふと目を覚ましたユアンは軍幕からファジルの姿が消えているのに気がついた。外へ出て辺りを見渡すと、暗闇の中に松明の明かりがぽつり、川岸にあるのが見えた。ユアンは足音を立てないようにそっと川に近づいた。
松明を持っているのはファジルだった。ファジルは左手で松明をかざしながら、川の浅瀬へと歩みを進めている。浅瀬で立ち止まったファジルは、ぶつぶつと小さな声で何かを言いながら、右手を上から下へ、そして左から右へと動かし始めた。その動かした指先からは白い光線が空中に放たれ、十字の模様ができている。次にファジルは斜めに腕を動かしてから、くるくると回した。すると、まるで蜘蛛の巣のような形の白い光がファジルの目の前に現れた。ファジルが右手を頭の上に振り上げ、川面に向かって振り下ろすと、白い光の網は大きく広がりながら浅瀬全体を包みこみ、やがてそれは蠢く塊となって川底から飛び出した。
川から上がったファジルは、その蠢く白い光を前に、腰を抜かしたかのように尻を地面につけ、怯えるように後ずさった。白い塊は飛び掛かろうとしているかのように、ファジルに向かってじりじりと近寄っていた。
その時、青い光が辺りを照らした。ユアンが聖剣を鞘から抜いたのだ。
すると白い塊は青い光に吸い寄せられるように方向を変え、聖剣に向かっていく素振りをみせた。しかし聖剣を下向きに握りしめて飛び上がったユアンが、白い塊が動き出すより先にその頭上から剣を突き刺したのだった。
耳障りな音を辺りに響かせながら、白い塊は散り散りになり、空間に消えて行った。
大きく息を吐き、聖剣を鞘にしまったユアンは、落ちていた松明を拾った。そして後ろで震えているファジルに向き直った。
「ファジル。君は……ソルアの血を持っていたのか」
ファジルは顔を引き攣らせ、首をゆっくりと横に振った。
「違う……違う……」
そう呟きながら頭を抱えてうずくまるファジルの背中にユアンは優しく手を置いた。
「ファジル、近頃体調が悪かったのは、そのためだったんだな?ソルアは二十歳を過ぎた頃にその能力が目覚めると言われている。なぜ、俺に言わなかった?」
「違います。そんな……そんな屈辱的なことが……」
と、ファジルは涙を流した。
「ソルアは悪ではない。本来ならば、わが国でも必要とされる種族なのだ。決して、忌み嫌われる存在ではない」
「親を殺したのが、ソルアであってもですか?」
「ソルアではない。あのソルアだ」
「同じことです」
ジニア国へと旅立った直後あたりに、ソルアとしての能力が目覚め始めたファジルは、もがき苦しんでいた。ファジルにとってソルアは最大の敵だったにもかかわらず、自分自身がソルアだったという現実に、ひどく困惑していたのである。
「ユアン様、私はユアン様のように強く、慈悲深く、皆に尊敬される立派な兵士になりとうございました」
ファジルは両掌で砂利をぐっと握りしめると、その拳を地面に叩きつけた。
その瞬間に、ファジルの身体は闇の中に消えたのだった。




