7-2
炊事場にある食卓の上には、ルイが作った料理が並べられていた。ルイは食卓に両肘をつき、額を抱え込むように手を当てて座っている。
(きっともうすぐ無事に帰ってくる)
そう思いながらダジンに目を向ける。
(ウォルフ、すごく美味しいのが焼けたのよ。はやく帰ってきて)
祈るような気持ちで目を瞑っていると、炊事場に誰かが入ってくる気配がして、ルイは急いで顔を上げた。しかしそこにいたのはウォルフではなく、シュウとミゼルだった。
「あぁ……先生……起きたのね」
取り繕った笑顔を見せるルイに、シュウは優しい表情で頷くと、食卓の上を見渡した。
「すごい。ご馳走だね」
「先生が起きるのを待っていたの。美味しいものをたくさん食べれば、きっと元気になるわ」
「そうだね、その通り。食べることは生きることだ。でも、もうひとつ欠かせないことがある」
「欠かせないこと?」
「家族や仲間と一緒に食べることだよ」
ルイは「あ……」と呟きながらシュウとミゼルを交互に見つめた。シュウの全てを包み込むような笑顔とミゼルの戸惑いを含んだ表情に、ルイは諦めたようなため息をついて首を振った。
「やっぱり、先生に隠し事なんて百年早いわね」
「ごめんなさい、ルイさん」
ミゼルが泣きそうな顔で謝った。
「ミゼルさんが謝ることなんて何もないの。ウォルフが何を考えているのか、見抜けなかった私が悪いの」
「いや、それは違う。誰も悪くないよ。もし悪いのは誰かを決めなければならないのであれば、兄上ということにしておこう」
ルイとミゼルが驚いた様子でシュウを見やると、シュウはしかめっ面をした後に、フフッと笑った。
「まさか兄上が芝居をしていただなんて……騙された僕も間抜けだけれど、兄上がお腹が痛いなどと言い出さなければ、僕らはもうこの国を立っていたはずなんだ。だから、悪いのは兄上だということにしておこう」
ルイとミゼルは顔を見合わせた。そしてどちらからともなく笑い始めた。
「ちょっと待って、先生。それはいくら何でもハクトさんが気の毒だわ。先生を気遣って、あんなに頑張って演技したのに」
ルイはハクトの迫真の演技を思い出して、また笑っている。
「そうだね。誰も悪くない。だから自分を責めたり後悔したり、この状況を悲しんだりしないで。そんなことをしていたら、影の住人が喜んで近づいてくる。二人はここで、そんなふうに笑って待っていて。必ず皆と帰ってくるから」
そう言うと、シュウは食卓の上に置いてある燭台を一つ、自分の方に近づけた。そして蝋燭の火を消し炎の剣を抜くと、呪文のような言葉を唱えた。
「テフ・ア・ラーエ」
剣の炎が少し広がった。炎は波打つように動くと、その一部が剣先に集まり蝋燭へと移動する。すると蝋燭は夕焼けのような暖かい色の火を灯し始めた。
「永遠の愛をここに、という意味の言葉だよ。ファジル殿に教えてもらった言葉のひとつだ。この灯りは影の力を弱めるから、影が近寄ってくることはない。僕たちが帰ってくるまで、二人はこの灯りの側にいて」
「先生にぴったりの言葉ね」
ルイは蝋燭の灯りに包まれた途端に、心が和らぐのを感じていた。
「わかったわ。ミゼルさんと待ってる」
しかし、その直後にルイは小さな悲鳴を上げた。隣に突然、トシが姿を現したからだった。
「トシ!」
びっくりさせないで!と、思わず怒鳴りそうになったルイだったが、トシの様子を見て言葉を飲み込んだ。トシは全身ずぶ濡れで、肩で苦しそうに呼吸していたのだ。
「出たんだね、猿の姿をした化け物が」
シュウが落ち着いた声で尋ねた。
「ああ……」
と、トシはシュウに顔を向ける。
「この炎があってくれて助かった。おかげで、ここまで真っ直ぐ来ることができた」
トシの目には、ルイやミゼルを包み込むほどの大きさの炎が映っていた。
「これが闇の炎の力か……なるほど、これならあのラントとかいう猿を鎮められる」
「ラント……昔、ウォルフを逃がしてくれたという……」
地下牢の光景が再びシュウの脳裏に映った。
(そうです、カイン殿。おそらく、その猿が女性をさらう化け物に違いありません)
と、シュウは心の中でカインに話しかける。記憶はまた、地下牢で横たわる女性の顔を見つめている。ウォルフとそっくりの顔を……
「おそらくラントが女の人をさらって、ウォルフの父親の所へ……」
と、言いかけたトシは口をつぐんだ。ウォルフとラントの会話から、ウォルフの父親が何をしているのかが推測できたものの、その常軌を逸した行為を口にすることすら、トシにはためらわれた。
しかしシュウには、トシの言葉の先を予想し得た。カインの記憶があったからである。
「まさか……」
(カイン殿の記憶にあった地下牢の女性……ウォルフに見えたが、あれがウォルフの母親だったとしたら?……いや……まさか……しかし……)
シュウの頭の中で、カインの記憶にあった誰かの話し声が響いてくる。
……見たか?……
……ああ……
……皮膚が綺麗に剥ぎ取られて……あんな残酷な死体、見たことない……
……生きたまま剥がれたらしい……
……まだ若い女だったのにな……
……人間のすることじゃない……
予想が確信に変わった時、シュウの顔から血の気が引いた。そしてウォルフの身を案じた。少年のように無垢で、そのために心が傷つきやすいウォルフが、今、何を思っているのだろか、と。
「ウォルフは?」
「連れて行かれそうになったが助けた。だが、ウォルフに拒絶され、ラントの中の影の力を抑えていた愛の感情がなくなってしまったんだ。ラント自身の負の感情が一気に放出され、影が巨大化している。ハクトと俺だけではウォルフが守れない。だからお前を迎えにきたんだ。行けるか、シュウ」
「もちろんだ」
シュウは、緊張で身体を強張らせているミゼルをそっと抱き寄せた。
「心配しないで。ルイちゃんと笑って待っていて」
そんな二人を横目で見ながら、ルイは泣きそうになる自分を勇気づけるように力強くトシに抱きついた。
「トシ、ウォルフに伝えて。美味しいダジンが焼けたのよって。あなたが帰ってくるのを待ってるって」
トシはルイの背中を優しくポンポンとたたくと、「わかった」と微笑んだ。




