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「そこへ座りな」
細長く続く建物の奥に入ると、色鮮やかな絨毯が敷かれた部屋に通じていた。部屋の隅に置かれた暖炉に火は入っていなかったが、とても暖かい。その奥にも部屋がいくつかある様子で、甘い良い香りが漂ってきていた。
老女が指をさしたのは、布で作られた長椅子だった。ルイとウォルフは並んでそこに座った。長椅子には綿が入っていて、とても座り心地が良かった。
「うわー、柔らかくて暖かい」
ウォルフが無邪気にそう言うと、老女はフフフと笑った。
「弟さん?可愛いわね」
突然、違う女性の声がしたかと思うと、目の前の老女の腰がスッと伸びた。
「え?」
驚く二人の前で老女は自分の白髪の短髪を掴むと、それを剥ぎ取った。短髪の下にあったのは、茶色の美しい髪だ。老女は結えられていた髪をほどくと、長い髪を揺らせながら振り返った。
「ごめんなさい、怖いお婆さんだったでしょう?」
二人はポカンと口を開けて老女を見ていた。顔には深い皺やしみがたくさんあり、声と姿とが合致しなかったのだ。
老女は二人が固まっているのを見て、ハッと顔に手を当てた。そしてニコリと笑った。
「まだ怖い?これは化粧よ。上手でしょう?」
ルイとウォルフは顔を見合わせた。
「やっぱり、旅の人?」
二人は頷いた。
「危ないわ。変装もせずに女性が外に出るなんて」
「どうして変装を?」
と、ルイが尋ねる。
「若い女性を次々と襲う化け物がいるからよ」
そう言いながら、老女に化けていた女性は白髪のカツラを棚の上に置いた。
「私はナオ。店にいたのは私の兄。あなたたちは?どこから来たの?」
「私はルイといいます。こっちはウォルフ。私たちはフオグ国から……」
「え?フオグ国?」
ナオは信じられないといった様子で手を広げ、目を見開いた。
「一体どんな理由があったら、あなたのような若い娘が弟を連れて、そんな遠い国からこんな所にまで来るっていうの?」
「あ、あの……私たちは……」
説明するべきか否か判断に迷ったルイは、ウォルフにチラッと視線を向ける。しかし、ウォルフはこの状況を面白がっている様子でニコニコとしていた。
ルイは少しムッとした表情でウォルフを睨んだ。そんなルイに気付いたウォルフは、あっ……と口を開け、慌てて答える。
「僕たち行商人なんだ。ね?お姉ちゃん」
ルイは少し戸惑いながらも頷いた。
「じゃあ、ボジュアには織物を仕入れに来たのね。でも、ここより北は行かない方がいいわ。すぐ北のジーガル国はまだ大丈夫だけど、その隣国のグランナ国はクスラ国に占領されて無茶苦茶になってるって話だし、第一、ボジュアとジーガルの国境にあるノウズ湖には化け物がいるし」
そんな話をしながら、ナオは机の上の籠にあった赤い果物を手に取って、包丁で皮をむき始めた。くるくると器用に果物を持った手を回し、薄く皮をむいた後、縦に八等分に切り分けてから種を取り、皿に並べて二人の前に置いた。
「エプレよ。今が旬なの。良かったら食べて」
ウォルフが子供っぽい笑顔を見せながらエプレをひとつ口に入れた。エプレはシャキシャキとした食感でさわやかな甘さの、みずみずしい果実だった。
「おいしい!これにしようよ、お姉ちゃん」
ウォルフったら、姉と弟っていう勘違いを面白がっているんだわ……と、ルイは少し呆れ顔で頷いた。
「あの……それで、その化け物というのは?」
ルイが尋ねる。ナオは小指の爪を立てて目と眉の間をぽりぽりと掻きながら、椅子に座った。
「ごめんなさい、化粧が痒くて。こんな思いをしないといけないのも、化け物のせい。憎いわ。
化け物はね、若い女性や少女を狙ってさらっていくの。連れて行かれてしまった人は二度と戻ってくることはないから、きっと化け物に食べられてしまったんだろうって言われてる。
はじめはノウズ湖の近くを通りかかった人たちが狙われた。でも化け物が出るってわかってからは、あまり人が湖には近づかなくなって。そうしたら、夜中に町の方に出てくるようになったの。
いつも一人捕まえると、どこかへ消えていく。でもある時、夜寝る時にも娘を男の子の身なりにしていたら、化け物に家に忍び込まれても娘が連れて行かれなかったっていうことがあってね。若い女性は皆、とにかく女であることを隠すようになった。それでも時々変装がばれてしまって、被害にあってしまうの。
化け物が現れるのは満月のあたりが多い。きっと月明かりで顔を見ているんだと思う。だから、あなたは狙われたの。もうすぐ満月だから」
「狙われた?」
心当たりのないルイは首を傾げた。
「化け物には、まだ出会っていません」
「違うわ。事情を知らない異国の女性が化け物に連れていかれたら、とりあえず今回の満月で、自分の娘や奥さんが狙われることはない。今まで町を歩いていて、誰にも注意されなかったあなたは、この町の人たちに利用されそうになっていたってこと。言わば生贄」
「そんな……」
「ごめんなさいね、決して悪い町ではないの。全部化け物のせい。みんな心が疲れていて、限界に近い。化け物を倒そうと、男たちが武器を手に入れて湖を見張ってはいるのだけれど、ものすごい速さで走って逃げてしまうらしいの。捕まえた女性を脇に抱えて湖に潜って……そうしたら、もう浮かんでくることはない」
「その化け物って、どんな姿をしてる?」
ウォルフが少し緊張した様子で尋ねた。
「猿よ。私たちの二倍ほどはある、とても大きな猿」
思わず叫びそうになったルイは、手で口を塞いだ。シュウから聞いた大きな猿の話を思い出したからだった。カインの記憶の中にあった、地下牢にいた猿の話を。
「ナオさんも見た?」
ウォルフから笑顔が消えている。ルイはざわつく胸を落ちつかせるように胸に手を当てた。
「ええ。夜中に叫び声がして外を見たら、誰かを抱えて逃げているところだった。一瞬だけだったけれど、とても恐ろしくて、身体が震えて、情けないことだけれど助けに行く勇気もなかった。
化け物は、特に茶色い髪が好きみたい。今まで連れて行かれた十五人のうち、茶色い髪の人は十一人。私やあなたのような茶色。あなたは男の子で良かったわね」
ナオは立ち上がると、「ちょっと待ってて」と、奥の部屋へ向かった。そして黒い毛糸で編んだものを両手に乗せて戻ってくると、それをルイに差し出した。
「とりあえず、これを使って。いいの、持っていってくれて構わない。編み物が趣味でね、売るほどあるのよ」
ナオが持ってきたのは、黒い毛糸で編んだ帽子と大きな肩掛けだった。ナオはルイの髪を帽子の中に入れこみながら帽子をかぶせ、ルイの顔が隠れるように肩掛けを巻いた。
「茶色じゃなくても、長い髪の人は狙われやすい。これで少しは隠せる。でも、やっぱり変装はした方がいいわ」
「ありがとうございます。でも、どうしてこんなに親切にしてくださるのですか?」
ナオは微笑みながらルイを見つめた。
「町の人たちは、あなたを犠牲にしようとしていたのにって?」
ルイは肩掛けの端をぎゅっと握りしめながら頷いた。手触りのよい、とても暖かい肩掛けだった。
「九番目の犠牲者はね、私の親友だった」
ナオは少し目を伏せた。ナオから悲しみの感情がブワッと広がるのを、ウォルフは憂いた表情で見つめていた。
「私も町の人たちと一緒だったって、その時に気付いたの。誰かが犠牲になると、可哀想にって悲しい気持ちになるのと同時に、私じゃなくて良かったと、どこかでホッとしていたんだって。でも親友が犠牲になって、そんな自分がたまらなく嫌になった。
だから、被害を止めるためにできることはしようって、心に誓ったのよ」




