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最北の地、クスラ国へと一行は進んでいる。
ブラルト国から北東へ、まずは野生動物が多く生息する森林が広がるオーラク国を通り抜け、織物業の盛んなボジュア国に入る。
ここでハクトたちは、暖かい服を手に入れ、北国の寒さに備えることにした。しかしウォルフは、寒くても死ぬことはないと服を選ぼうとしなかった。
「僕は大丈夫。いらない」
「何言ってるの!」
ルイはミゼルと共に選んだ毛皮の上着と分厚い綿のズボンを、半ば強制的にウォルフに押し付けた。
「こんないい物、もったいないよ」
「寒くても死なないかもしれないけれど、寒さに耐えようとして体力を使うでしょう?」
「使った体力は、次の瞬間には戻ってる」
「もう……雪が積もっている中、半袖半ズボンのまま平気な顔をしていたら、怪しまれるでしょ。着なさい」
「そんな怖い顔しないでよ、ルイさん。お母さんに叱られているみたいだ」
ビクッとしながら、ウォルフは服を受け取った。
「確かに」
と、隣でトシが笑う。
「似てきたかもな、ルイのお母さんに」
「あら、そう?」
「ルイも半袖半ズボンで年中野原を走り回って、よく怒られていたじゃないか」
「子供の頃の話でしょ。そんなこと、思い出させないでよ」
ルイが膨れっ面でトシを睨む。
「トシだって、サラ様によく怒られていたくせに」
「そうなの?」
ウォルフが意外だといった様子で首を傾げる。
「よく嘘をついていたからな」
苦笑いで言うトシに、ウォルフは「なるほど」と頷いた。
「いいなぁ」
「何が?」
「僕もお母さんに怒られてみたかったな」
ルイが目を丸くしてウォルフを見つめている。何を言うべきか、あるいは言わないでおくべきか、迷っているルイの感情をトシは心で見つめている。そんなルイを助けるように、トシは優しい声でウォルフに尋ねた。
「ウォルフのお母さんは、優しい人だったんだろうな」
「どうかな」
ウォルフは無邪気に答えた。
「六百年以上も経てば、怒られた思い出も忘れちゃうのかも。覚えているのは、優しく微笑む顔なんだ。肌は白くて、まつ毛が長くて、髪は茶色でサラサラしててさ。綺麗な人なんだ」
「ウォルフにそっくり」
ルイが言うと、ウォルフは嬉しそうに頷いた。
暖かい服を買った店の前、トシの背後で三人の話を聞いていたシュウの頭には、ある光景がよぎっていた。
それは地下牢。湿った空気の中に、血生臭い匂いが混ざっている。
死人のような顔をしている白髪の男と、身体の大きさがその男の二倍ほどある猿が、こちらをギロリと睨んでいる。
二人の前に横たわる、一人の女性らしき身体。
今シュウの頭にうつっているのはカインの記憶だが、カインの記憶はその女性の顔に近づこうとしているようだった。記憶は、じっと目を凝らすように女性を見つめている。
カインの記憶が、横たわる女性の白い肌に長いまつ毛、そして茶色の頭髪に焦点を当てる。するとシュウには、その女性の顔がウォルフと重なって見えた。髪を長くしたウォルフが、地下牢の中で横たわっているように見えたのである。
シュウはハッと息を吸うと、数歩後ろに下がった。
「シュウ?」
シュウの異変を感じたミゼルが声を掛ける。しかしその声はシュウには届かず、シュウはその場から逃げるように走り出した。
シュウは服屋のある町の通りをよろけながら通り抜け、広場に出た。そして広場を囲むように植えられた高い木の幹に手を当てながら、崩れるように膝をついた。
シュウは再びハッと音を立てながら息を吸った。左の太腿に痛みが走ったからである。シュウはそこに手を当ててみる。しかし太腿に怪我などは何もない。ただ痛みと焦燥感を伴う恐怖がどっと押し寄せて来るのだ。
それは、死を前にしたカインの感情そのものだとシュウは気が付いていた。ファジルから受け取ったカインの記憶には、匂いや音も含まれていた。シュウはカインの記憶を通して、カインの人生の最期を追体験したのである。
その記憶は、まるで自分のものであるかのように鮮明で、痛みや息苦しさを伴った。カインの記憶だと理解していても、まるで自分が体験しているかのように迫ってくるものがあった。
シュウは胸を押さえ、苦しそうにうめきながら木の下で意識を失った。
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シュウは夢を見ていた。
トルク村、大工の親方の治療をした帰り道、シュウが傷ついたカインを抱き抱えている。
これはシュウ自身の記憶だ。今でも鮮明に覚えている。
「……クスラ国王ナバルはこの世すべてを己のものに……時間がない、シュウ様、聖剣を……聖剣を……」
カインの手は力を失い、だらりと下に落ちる。
「カイン殿」
シュウが叫んでいる。
カインの顔を見る。
しかしそれはカインではなく、自分の顔だ。
自分が自分を抱き抱えている。
自分が息絶えている……
トウの遠吠えが響き渡る……
叫び声をあげながらシュウが目覚めたのは、宿の一室だった。ガバッと勢いよく身体を起こしたシュウの顔を皆が見つめていた。
「シュウ」
そう声を掛け、顔を覗き込んだミゼルの目は腫れていた。シュウは肩で呼吸をしながら、自分の現状と、どれだけ皆に心配をかけているのかをすぐに理解した。そして無理やり口角を上げながら、ミゼルの頬に手を当てた。
「心配かけて、ごめん」
首を横に振りながら抱きつくミゼルを、シュウは優しく抱きしめる。
(生きている……)
ミゼルの鼓動を感じ、シュウは安堵した。しかし同時に湧いてくる死への恐怖が、シュウの身体を震わせた。ミゼルは、そんなシュウの背中を一生懸命にさすった。
「おい」
ハクトが遠慮がちに呼びかけた。
「一体、何があった?どうした?」
「申し訳ありません」
と、シュウが顔を上げないままに答える。
「記憶が……カイン殿の記憶が、時々僕の頭の中に現れるのです。それで少し混乱してしまっているようです」
トシがため息をつきながら髪をかき上げた。
「すまん、シュウ。父さんのせいだ」
「トシ、それは違う。あの時ファジル殿に、覚悟はあるのかと聞かれたんだ。全てを受け止める力が、僕に足りなかっただけの話だよ」
「しかし……」
「おい、シュウ。お前が話したカインの記憶は、あれで全部なのか?何か隠しているのではないのか?」
ハクトが険しい表情で尋ねた。
シュウは再びブルッと身体を震わせた。地下牢で横たわる女性の姿が頭の中に浮かんだからだった。
地下牢に女性のような人物がいたということは皆に話してあった。つい先ほどその顔がウォルフに見えたのは、ただ混乱しているだけのことだとシュウは自分に言い聞かせた。
「全部です。何も隠していません」
そんなシュウを部屋の隅で見つめていたウォルフが、ピクリと眉を上げた。シュウの感情が激しく揺らめくのがわかったからである。
(シュウが嘘をついた……)
ウォルフはトシに視線を移した。トシは目を閉じたままウォルフに顔を向けた。そしてゆっくりと頷いたのだった。




