10-2
シュウはファジルの首筋からそっと手を離すと、項垂れたまま立ち上がった。ファジルはぐったりとしたまま動かない。シュウは血で染まった両手をぐっと握りしめた。
シュウの周りを守るように、トシが出した虹色の防御壁が光っている。大蛇のような影がシュウに体を伸ばしたが、バチッという大きな音を出しながら防御壁は影の体を弾き飛ばした。
シュウは、ファジル、トシ、ウォルフ、ダイチ、と、倒れている男たちを順に見やった。少し離れたところで、ハクトが影たちと戦い続けている。
(これ以上、犠牲を増やすわけにはいかない)
シュウは悲しげな表情で、ミゼルを見つめた。
「さて、お前をどう料理しようか」
そう言ってヒヒヒと笑う悪意に、シュウが語りかける。
「ミゼル、聞こえるかい?」
悪意はハッハッと笑う。
「聞こえない。ミゼルの意識は私の支配下にある」
「ミゼル、必ず君を助ける」
「さて、どうやって?」
悪意が両手をシュウに向けて振り下ろすと、ハクトを襲っていた化け物たちが一斉にシュウに向かって攻撃を始めた。
防御壁は消耗品である。受ける攻撃の強さにもよるが、何度も叩かれれば割れてしまう。壁が段々と薄くなっていったところに、大蛇のような影の一撃をくらったシュウは、ダイチの側まで飛ばされてしまった。
「お前に、ユアンの息子を名乗る資格などないな」
と、悪意はため息をつく。
「何の役にも立たない。まあ、トシとは仲が良いようだから、お前の死はある程度役に立つだろう」
「待て……」
と、シュウは腹を押さえながら起き上がった。
「ミゼルの身体を出て、僕の中に入れ」
「ん?」
と、ミゼルの眉が引き上がる。
「シュウ!」
と叫ぶハクトに向かって、シュウは何かを訴えるような瞳で答えた。シュウの視線は、次に聖剣に向けられ、そしてまたハクトの目に移った後、再びミゼルに戻った。ハクトはハッと息をのんだ。
(シュウ……お前……まさか……)
「そこまでして、この女を助けたいと?」
悪意の言葉に、シュウは覚悟を決めた様子でうなずいた。
「いいだろう。しかし、お前には全く入り口がなくて困る。愛を消し去り、感情を解放しろ。恨みや憎しみの感情をだ」
シュウはふうっと息をつくと、その場に胡座をかいて座り、少し前のめりにうつむいて両手を額に当てた。
(シュウ……悪意を自分の中に入れて閉じ込め、俺に斬らせるつもりだな?)
ハクトはシュウに近寄ろうとしたが、再び無数の影に囲まれてしまい、足を止めざるを得なかった。
「やめろ!シュウ!」
化け物たちを聖剣で斬りながら、ハクトは叫んだ。
「ほう……いいだろう。望み通り、お前の身体に入ってやろう」
悪意がシュウの感情の変化を見て、満足げにうなずく。そして、ミゼルの身体から出ようと動き始めた時だった。
ミゼルが両手でしっかりと目を押さえた。
「シュウ!」
ミゼルの声だ。悪意ではなく、ミゼルが叫んでいた。シュウは目を見開きながら立ち上がった。
「シュウ!」
再び叫ぶと、ミゼルは身を丸めながら地面に伏せた。
「ミゼル!」
「はやく!シュウ!」
「このっ……女!目を開けろ!お前の身体を突き破るぞ!」
と、悪意の声がミゼルの口から聞こえる。
「シュウ!退治して!はやく!」
ミゼルは手をぎゅっと目に押し付けている。
「ミゼル!目を開けてくれ!」
シュウが叫んだ。
「嫌!シュウに乗り移らせたくない!」
「ミゼル!」
悪意は獣のような怒声を上げた。悪意はミゼルの目の奥にある袋のようになっている影の空間に入り込んでおり、しかもミゼルの愛情が悪意の周りを取り囲んだことで身動きがとれなくなっていたのだ。
「女!お前が死ぬぞ!」
「私は構わない。シュウを守れるなら」
その時、横で倒れているダイチから声が聞こえた気がして、シュウは顔をダイチに向けた。ダイチの胸には、シュウの手から離れた剣が刺さったままになっている。
シュウはその剣の柄を握った。そしてダイチの胸から剣を抜く。しかし、簡単には抜けなかった剣先の違和感に、シュウはダイチの懐を広げて見た。
そこにあったのは、聖剣とそっくりに作られた剣の柄だった。シュウの剣は、その剣の柄に施された彫刻の隙間に引っかかっていたのだ。剣の柄を取ると、ダイチに傷はなく、胸も動いているのが確認できた。
(良かった……生きている……)
そしてシュウの耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
……正しき者よ、悪を打て……そなたの溢れる思いに我は寄り添おう……
それは昔、シュウが聖剣に呼ばれた時と同じ声だった。どこから聞こえてきたのか、シュウにははっきりと分かっていた。シュウは自分の剣を手放すと、聖剣と同じ剣の柄を両手で握りしめた。
……我は悪を焼き尽くす……そなたと共に愛を守ろう……
シュウの身体から愛情の炎がブワッと燃え広がり、その炎が剣の柄に集約されていく。そしてその炎が剣身の形を作った。
シュウは炎の剣を悪意に向かって構える。
今のシュウには、悪意の気配も、影の住人の気配も感じ取ることができた。
「そこにいたのか」
シュウは、ミゼルの目の奥の空間に閉じ込められている悪意を正確に捉えた。
「貴様……!」
それが悪意の最後の言葉だった。シュウは悪意に向かって突進していく。そして、炎の剣で悪意を突き刺した。
剣が刺さったところから、炎は悪意の体全体に瞬時に広がった。甲高い悲鳴が辺りに響く。炎は悪意の体を焼き消しながら次第に小さくなり、最後には蝋燭の灯りのように、揺らめきながらフッと消えていった。
シュウもミゼルもハァハァと息遣い荒く、しばらく動くことができなかった。
「シュウ?」
と、ミゼルが不安げにシュウを見上げた。
シュウは深呼吸をすると、炎の剣を握りしめていた手の力を緩めた。炎は先ほどよりもおとなしくなっていたが、剣身の形を作ったままだった。
「ミゼル」
シュウは剣を右手に持つと、恐る恐る立ち上がったミゼルを左腕で強く抱きしめた。
「シュウ……終わったのね?」
「ああ」
ミゼルはシュウにぎゅっとしがみついた。シュウは震えているミゼルの背中を優しくさすった。
「怖い思いをさせて、すまない」
戦いの様子を固唾をのんで見守っていたルイは、抱きしめ合う二人を見て安堵し、しがみついていたトシの背中に顔をうずめた。
「トシ!シュウ先生が勝ったわよ!」
トシは意識を失ったままだ。ルイは頬をトシの背中にうずめたまま、手を伸ばしてトシの頭をなでた。
(トシ……あなたの目は、きっともう見えなくなっているのよね?そんな辛い状態で、こんなになるまで戦って……しかもお父さんまで……)
ルイはファジルを見やった。ファジルは血まみれになって倒れている。ルイはトシから離れ、立ち上がった。極度の緊張から解き放たれたばかりだからか、足も手も震えていて、腰が砕けそうになるほどぐらついた。歩き始めたルイは、すぐにこけてしまったが、そのまま四つん這いでファジルの元へと向かった。
(もっと、トシの側にいてあげてほしかった。もっと、トシと親子の時間を過ごしてもらいたかった……)
ルイは大粒の涙を流しながら、今はもう血が止まっている首筋に手を当てた。そして、ハッと息を吸い込んだ。
「せ…………先生!」
その緊迫した声に、シュウが驚いた様子で顔を向けた。
「先生、はやくきて!トシのお父さん、まだ呼吸があるわ!」
シュウは炎の剣を自分の剣の鞘にスッとおさめると、ミゼルと共に急いでファジルの元へと向かった。
悪意が消えると、ハクトを襲っていた化け物たちは、慌てふためきながら逃げていった。
ハクトは大きなため息をつきながら、夜空を見上げた。屋敷の屋根は吹き飛んでしまっていて、頭上には星空が輝いていた。穏やかな波の音も聞こえる。
(終わった……)
ハクトは聖剣をゆっくりと鞘に差し込んだ。聖剣での戦いは、普通の剣で戦っている時よりも倍の体力を消費した。ハクトは息を整えながら、シュウとミゼルに視線を移した。
(まったく……無茶なことをする二人だ。しかし、おかげで乗り越えられた……)
ハクトは炎の剣をじっと見つめた。
(あれは……闇の炎なのか?)
それからハクトはウォルフを見やった。ウォルフに刺さった矢尻は半分ほど抜けていたが、まだ回復には時間がかかりそうだった。ハクトは柱に縛られているアルマを助け出して床に寝かせると、ウォルフに近づいた。ウォルフのそばには、切れた指がいくつか落ちている。ハクトはそれらを拾い集めると、一本ずつウォルフの切れた指元に近づけていく。すると、断面から肉片のような突起物がニョロニョロと動きながら出てきて、切れた指先を迎え入れた。
指の接合が全て終わると、ハクトは針や矢尻をそっと抜いていく。
「また、こんな痛い思いをさせてすまない」
「ぼ……く……は……へ……い……き……」
ほんの少しだけウォルフが目を開けた。
「ウォルフ……気がついていたのか」
「へ……い……き…………い……つ……も……い……っ……て……る」
「ああ、そうだったな」
「か……っ……た?」
「ああ」
「ど……う……や……っ……て?」
ハクトはシュウが炎の剣を鞘にしまうのを複雑な表情で見ていたが、小さなため息をつくと、優しい微笑みをウォルフに向けた。
「もう大丈夫だから、今は休め」
ハクトの微笑みに、ウォルフも微笑みで返すと、再び目を閉じて眠った。




