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「あぁ……鬱陶しい」
と、悪意に支配されたミゼルは一同を見渡した。
「無駄な感情ばかりだ。何の役にも立たない」
悪意は、少しばかり戦意を削がれている影の住人たちに冷たい視線を浴びせた。化け物たちはビクッと身体を震わせる。悪意の機嫌を損ねてしまったら精気を吸い取られてしまうことを、化け物たちは知っている。
悪意は、化け物たちに自らの負の感情を与えた。化け物たちの体が一回り大きくなり、不気味な笑みを浮かべながら元気よく飛び回り始めた。
「トシよ……まだわからないのか」
死ぬほどの痛みから目が覚め、光と影の世界に違いが無くなった日、あのソルアは絶望の入り口に立った。リンビルの元を去り、比較的居心地の良かった影の世界を通ってヒバ国へ戻った。
子供の頃の自分に家族がいた記憶はない。物心ついたころには、国のために戦うソルアの部隊に所属させられていた。ソルアとして目覚める前からソルアとしての英才教育を受けていた。
彼に愛は必要なかった。影から身を守るものとして愛情が必要であることは認識していたが、そんなものに頼らなくても決して負けることはなかった。その天才を、部隊の者たちは神と呼び、彼が戦地に赴く日を皆心待ちにしていた。
しかし病が彼を蝕んだ。体調の悪化のために戦地に行けないことよりも、見えないことへの恐怖が、神の座からの失脚を迫っているように彼は感じていた。失明し国に戻った彼は引きこもってしまった。
そんな時、純粋な愛が彼に近づいた。その愛は健気に彼を支えた。彼は初めて愛というものに触れ、彼もそれを愛した。そして二人の間に子供が産まれた。
ヒバ国と隣国ジニア国との紛争は、長期に及んでいた。彼は紛争を終わらせるべく、戦地へと赴いた。そしてやはり彼は天才だった。ジニア国の西半分を統治している都の難攻不落と呼ばれた城を落としたのである。敵の武器を全て破壊し、将軍を拘束した。
しかしそこで彼が見たのは、ヒバ国の兵士たちが城の者たちを斬殺し、金品を強奪し、女を手篭めにする姿だった。いや、見えるのはその渦巻く感情と、怒号や悲鳴だったが、何が起こっているのかは容易に想像できた。
……何をしている?……
そう尋ねた男に兵士が答えた。
……当たり前のことをしている……
男は、その目で、光の世界と影の世界の区別がなくなった真の世界を見た気がした。人間と化け物の区別が全くできなかったからだ。それらは同じ姿、同じ匂い、同じ気配だった。神は一体、この世界のどこに線を引いたというのだ……男は、しかしまだその時には、光の世界に希望を持つことを捨てるべきではないと思っていた。そして国へ、妻子の待つ村へと戻った。
男は地獄を見た。
村は戦で焼け野原になっていた。生存者から、妻が生きながらにして焼かれたことを聞いた。そして焼け野原で泣いていた息子を、どこかの兵士がさらっていったことも知った。
男は絶望し、影の世界へ入った。そして自分が神となり、この世界を正しい姿にすることだけを考えて、影の世界で研鑽を積んだのだった。彼の世界に愛はもはや一滴も存在しなかった。
「やはり、経験が必要か」
悪意はファジルに向かって手を伸ばした。
「ファジル」
と、悪意は呼びかけた。その間に、多数の化け物がハクトの周りを取り囲んだ。ハクトは臆することなく化け物を斬っていったが、化け物は次から次へと現れた。
ファジルがハクトを助けようと指を動かし始めたところに、悪意が再び呼びかける。
「少しは言うことを聞け、グラン」
……グラン……
ほんの一瞬、ほんの僅かな動揺がファジルにみられた。ファジルは咄嗟に身構えたが間に合わなかった。ファジルの身体に大蛇のような化け物が巻きつき、あっという間にミゼルの横に引き寄せられてしまったのだ。
そして鈍い音が響く……化け物が牙をむき出しにしながらファジルの左の首筋に噛みつき、血が吹き出した。
「父さん!」
ファジルは苦悶の表情を浮かべながら、それでも技を出そうと右腕を上げた。しかし化け物がもう一段深く牙を押し込み、ファジルの頭と右腕は力を失って下がってしまった。
「ファジル殿!」
ハクトは周りを影の住人に囲まれている。トシは這うようにしか進めない。ウォルフは気絶したままで、シュウには大蛇が見えなかった。
悪意が楽しそうに笑った。
「いいぞ、その調子だ。己の非力さを呪え。お前たちは私を倒すことなどできない。トシ、お前は何人目で、私に身体を差し出すかな」
シュウが見えない敵に向かって短剣で立ち向かおうとした時、ファジルに巻き付いていた化け物がその束縛を解いてファジルを蹴り飛ばした。ファジルはシュウの目の前に投げ出された。
急いで駆けつけたシュウはファジルの傷跡に手を当てる。止血をしようとぐっと力を込めた。
「無駄だ」
淡々とした悪意の声が響いた。シュウは怒りで息ができないほどに胸が痛んだ。
「ファジル殿は、あなたの息子ではないのか?」
「ああ、もちろん。グランは私の息子だ」
「グラン?」
「私が名付けた名前だ。やはり、記憶のどこかに残っていたのだな、グラン。さらわれ、別の名を与えられて育ってきたが、頭の片隅に埋もれたこの名をふと思い出した……いや、そうとは気付かずに、中の名前として頭に浮かび、術をかけたのだろう」
トシがハッと息を飲んだ。
(中の名前……)
トシは、キレスとの会話を思い出していた。
**********
「ところでトシよ、トシというのは外の名じゃろう?」
トシが修行中だったある日、キレスがトシに尋ねた。
「外?」
「表向きという意味さ」
「トシの他に、名前はありませんが……」
「それだと影に名がバレてしまって、すぐにやられてしまうぞ」
「あっ……ウォルフから聞いたことが……影に名前を知られてはならないんですよね?ワンシャム国で化け物に名前を呼ばれた時、思わず反応してしまったら、身体が動かなくなってしまったんです。もう少しで食われるところでした」
「よく助かったな」
「父が……」
と言いかけて、トシは戸惑った様子で頭を掻いた。
「どうした?」
「その時に初めて会ったんですが……どうしてあの人を父だと確信しているのか、自分でもよくわからなくて」
キレスは優しい笑顔をトシに向けた。
「間違いないさ。その人はファジルだったに違いない。不思議とわかるもんなのさ、ソルアは。自分の肉親かどうかがな。その感覚を匂いと表現する者もおる。
影がソルアを判別できるのも、同じく匂いによるものじゃないかと、ポルトが論文にまとめておったな……まあ、それはいいとして、お主も中の名前を決めねばならん」
「決めて、どうするのですか?」
「自分に術をかける。ソルアの名を身体の中に刻む術をな。そうしておけば、表向きの名前で呼ばれたとしても、影に捕まることはない。ただし、そのソルアの名は、決して影に知られてはならぬ」
「どんな名前にすれば?」
「それは自由じゃよ。思い浮かんだ名前なら何でも……いや、しかしお主から連想されるような名前はやめたほうが良い。家族の名前や友人や恋人の名前はバレやすい。ふと頭に浮かんだ、花の名でも鳥の名でも何でも良い。好きな名前にしなさい」
「思い浮かぶ名前……」
「難しく考える必要はない。あまり考えてしまうと、お主の趣味嗜好が反映されてしまうからな。パッと思いついた名前で良い。術のかけ方を教えてやるから、よく見ておきなさい」
**********
「もしやと思って呼んでみたが、まさか本当に私がつけた名をソルアの名前としたとは。馬鹿な男だ」
鼻で笑いながら悪意が言った。
(馬鹿だと……?)
「おとなしく私に身体を差し出していれば、死ぬことはなかっただろうに。愚かだ」
(黙れ……黙れ……!)
拳にぐっと力を込めたトシが怒りに震えている。
「しかし、お前にもう少し能力があれば、父親を助けることができた。お前の力不足が、父親を死なせたのだ、トシ」
トシは地面に額を擦り付け、イヒラ邸でファジルに助けてもらったことを思い出していた。
(確かに……俺に父さんみたいな力があれば……)
「駄目よ!トシ!しっかりして!」
ルイがトシに覆い被さるように抱きついた。
「何を言われても、何が起こっても、望みを失ってはいけないの!」
「ああ……」と、トシは顔を上げた。首筋にあるルイの顔に頬を寄せる。「そうだな……ありがとう、ルイ……また俺の名前を呼んでくれて」
トシは力を振り絞って防御の術をシュウにかけた。
「すまん……これが限界だ……シュウ……頼む……」
そう呟くと、トシは意識を失った。




