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一晩中降り続いた雨は明け方には止み、朝日が雲間から顔を出すと、艶やかな世界は新たな呼吸をし始めているかのように光り輝いていた。
トルク村の村長宅の紅色の門を出たシュウは、その新しい空気を胸一杯に吸い込むと、安堵のため息をついた。
「なんとか助けることができた」
村長の孫娘キリの高熱は、五日目にしてようやく下がった。途中何度も意識が朦朧とし、苦痛に顔をゆがめながらもがき、シュウが調合した薬を飲むことも困難な状況だった。
おそらく、タナムシに噛まれたのだろうと思われた。キリのくるぶしにはタナムシに噛まれたような跡が残っていたし、噛まれた箇所から徐々に広がる赤い発疹も見られた。タナムシには毒があるが、すぐに手当すれば大事には至らない。キリは遊ぶのに夢中だったためか、噛まれたことに気づかず、数時間後に意識を失ってしまったのだ。
「トウ、来ていたのか」
村長宅の門のすぐ近くで、中の様子をうかがうように座っていたココラル(翼を持った犬)のトウが、クゥンクゥンと鼻を鳴らしながらシュウの足元にすり寄ってきた。
「安心して、君の大切な友達の熱は下がったよ。もう大丈夫だ」
トウは、シュウの周りを嬉しそうに回ると、シュウが手に持っていた鞄を口でくわえて歩き始めた。
シュウはトウの後ろ姿に笑顔を見せると、朝日に照らされた村長宅に向かって一礼し、トウの後を追いかけた。
「リンビル先生はお一人でお困りではなかったかい?」
と、シュウがトウに追いつき尋ねると、トウは長い尻尾をゆさゆさと横に振って応えた。
「そうか。ルイちゃんもだいぶ仕事に慣れてきたし、安心だね」
シュウの師匠であるリンビルは、フオグ国一の名医と評され、国王の専属医師を長年勤めていた人物だ。齢が八十を過ぎ、国王の専属医師を後継に譲った後は、故郷のトルク村で診療所を開いている。
リンビルの下で医学を学ぶようになってから七年が経ち、シュウは、九十歳に近い名医と共に村の診療所を支えている。
「トウ、見てごらん。なんて美しいんだろう」
小さな川にかかる橋を渡っていたシュウは立ち止まり、左手側に広がる草原に目をやった。そこには、白い小さな花をひとつの枝にいくつも咲かせた植物が群生していた。
アイロミ草と呼ばれるその植物の根は痛みを和らげる薬として、白い花は胃腸の調子を整える薬として使われている。
「アイロミ草を摘んでいこう。雨上がりの朝に摘んだアイロミ草はとても上質なんだ」
シュウとトウは橋を渡ると、所々にぬかるみの残る草原に入っていった。トウは、乾いている石の上に鞄を置くと、アイロミ草の周りを前足で次々と掘り始めた。そうして抜きやすくなった草を、根を切らないようにゆっくりとシュウが引っ張り出していくのだった。息のあった丁寧な作業で、アイロミ草は花も根も傷つくことなく抜かれていった。
アイロミ草の束が両手に抱えるほどになり、もうこのくらいで良いかとシュウが腰をあげた時だった。
「よう、朝から花摘とは、相変わらず乙女な奴だな」
その声にシュウが振り返ると、橋の真ん中で笑顔をこちらに向けている男がいた。
「トシ!帰っていたのか」
「ああ、昨日着いたんだ」
シュウは摘んだ草を抱え、男のいる橋の方へと急いだ。
「久しぶりだ。会えて嬉しいよ、トシ。家にはもう帰ったかい?」
「もちろんさ。村についてからすぐに」
「それは良かった。母上は君のことをいつも案じておられるだろうから」
「おいおい、言っとくがな、シュウ。お母上様がいつも心配しておられるのはお前のことだぞ」
と、トシは花を抱えて草原から出てきたシュウの身体に抱きつくと、背中をポンと叩いた。
「分かってるよ。それより、もうまたすぐに村を出るなんて言うんじゃないだろうね」
「まだしばらくは村にいるつもりさ」
「それを聞いて安心した。今から診療所に帰るんだ。リンビル先生の診察はもう受けたかい?」
「いや、まだだ。診療所に行ったら、キリちゃんが高熱で、お前が村長の家に籠りきりだと聞いたから、お前の所に行こうとしていたところだったんだ。俺に何か手伝えることはないかと思ってな。しかしその様子じゃあ、キリちゃんは良くなったんだな?」
シュウは、にこりと頷いた。二人は並んで歩き出し、シュウの鞄をくわえたトウがそれに続いた。
「少し痩せたんじゃないか、トシ」
「そうか?ここに帰ってくる前、イラル国にいたんだが、いつもにまして暑い日が続いていたからな、そのせいだろう」
「眼の調子はどう?」
「相変わらずさ。俺の心配は良いよ。お前はどうなんだ」
「どうって、僕も相変わらずだよ」
「相変わらず意地を張って、母上にすら会いに行っていないようじゃないか」
「別に意地を張っている訳じゃ……」
「いい加減、ハクトと仲直りをと母上は望んでおられるぞ」
「僕は兄上と喧嘩をした覚えはないよ」
「三年前に約束したろ?次に俺が戻ってくるまでに、母上にだけでも顔を見せに行くって」
「約束したわけではなくて、君が勝手に言っていただけのことじゃないか」
と、シュウは苦笑いを浮かべた。
「お前が軍に入らずに医者になることは、父上も母上もお許しになったわけだし、どうしてそこまで頑なになる必要があるというんだ?」
トシは七年前、十七歳のシュウがリンビルの元で医術を学ぶ決心をし、家を出ることを申し出た時のことをよく覚えている。
シュウの父ユアンはフオグ国軍総帥であり、国の危機を救った英雄、そして聖剣の使い手として国内外に知られている。
先の戦で父を亡くし、母親も病気で亡くした幼いトシは、父の親友であったユアンに引き取られ、ひとつ年下のシュウと二つ年上のハクトと三人兄弟のように育ってきた。
シュウとハクトの母サラは、自分の子供達と同じように深い愛情でトシを包んでくれた。シュウもハクトもトシも、偉大な父に憧れ、お互い切磋琢磨して剣や弓矢の腕を上げてきた。
だから当然のように、三人とも父の率いる軍隊に入り、国王とこの国を守るものだとトシは思っていた。
しかしある日、シュウは突然医者になると家族の前で言い出した。あれは、フオグ国独立記念の式典があった日の翌日のことだった。
兄のハクトは頬を紅潮させながら激怒した。片ひざをついて許しを請うシュウの前に仁王立ちし、自分と勝負をしろ、と剣を抜いてシュウの目の前に突きつけたのだ。
母のサラが助けを求めるようにトシに近づき、手を握りしめた。その手を握り返しながら、トシは事の成り行きをじっと見つめていた。
シュウの言い出したことに驚きはしたものの、彼らしいともトシは思った。シュウは軍人になるにはあまりに優しすぎると日頃から感じていたのだ。
しかしハクトの怒りは大きかった。あまりに大きすぎて自分で自分をコントロールできていないようだった。
張り詰めた空気の中、ユアンはにこにこと笑いながら二人に近づくと、剣を握りしめているハクトの腕を優しくつかんで剣を下ろさせた。ハクトが納得できないと怒りの矛先を父親に向けたが、ユアンは笑って首を横に振った。
「シュウ、それがお前の進むべき道だと信じるなら、遠慮することは何もない。我々がそれを邪魔してはならないのだよ、ハクト」
今、横で歩いているシュウは穏やかで凛としていて、皆から信頼されている医者だ。この道がシュウにとって正しいものだったのだと自信をもって言える。
しかしトシの心には、何かもやもやしたものがずっと離れないでいる。
幼い頃からシュウともハクトとも兄弟として過ごしてきた。剣術の稽古などもずっと一緒だった。だから知っているのだ、シュウは確かに誰よりも強かったことを。シュウがハクトと試合をするといつもシュウが惜敗していたが、そこには、ほんの少しの嘘が混じっていたことを。誰も気づかない、しかしトシにはそれがわかった。いや、おそらく父も兄も気づいていたに違いなかった。だからあの時、そして七年を過ぎた今でさえ、ハクトはシュウを許していないのかも知れない。
「ねえ、トシ、聞いてる?」
シュウの声で、トシはビクッと顔を動かした。
「わるいわるい、何だって?」
「ルイちゃんが、診療所を手伝ってくれているんだ」
「ルイって、あの乱暴者のか?」
「そんな言い方をするのは君だけだよ」
とシュウは笑った。
「君はずいぶんルイちゃんに助けられてたじゃないか」
「子供の頃の話だ。俺は平気なのに、ルイが勝手に俺がいじめられてると思って喧嘩の相手を追っ払っていただけだ」
「ずいぶん会ってなかっただろう?きっと驚くよ」
「どうして?」
「診療所に行けば分かるよ」
と、シュウは楽しそうに笑った。
興味を持っていただいてありがとうございます。
よろしくお願いします。