第30話 この関係がちょうどいい
使った食器を軽く洗い、食洗器にセットしてから皐が常備している緑茶を淹れ、テレビの前にあるソファに腰を落ち着けていた。
……このソファ、めっちゃ座り心地いいな?
余裕を持たせるためなのか、一人暮らしのはずなのに二人掛けのそれは、座ると身体が包み込まれるような感覚に見舞われた。
皐も隣に座っているけど、拳三つ分くらいの距離を開けて座っている。
心なしか落ち着かない雰囲気。
靴下に包まれた足先がそわそわと動いていて、緊張しているのが伝わってきた。
「皐。やっぱり無理しない方が――」
「……いえ。話します」
首を振り、こほんと咳払いも挟んで、空に視線で線を描く。
なにかを思い返すかのような目。
滲むのは懐かしさと、僅かばかりの悲壮。
「――わたしは、中学生の頃に交通事故で両親を失いました」
なのに、そう告白する皐の声音は、酷くあっさりとしていて。
なにかを言わなければ、と思った。
反面、喉を異様な閉塞感が支配して、なんの言葉も出せなかった。
「飲酒運転をしていたトラックが、わたしの父が運転していた車と正面衝突して、わたしだけが生き残りました」
運がいいとは口が裂けても言えない。
皐の大切な家族は失われた後だ。
「これがもう、六年も前のことです。気持ちの整理もついているので、お構いなく」
「……でも、それで終わりじゃないんだろ?」
「ええ。……わたしの両親が事故死した後、待っていたのは壮絶な遺産相続争いでした。というのも、当時のわたしは地方に住んでいた旧家の人間……明智さんと同じような感じで、それなりの資産を蓄えていたわけです」
「その後、どうなったんだ?」
「結論だけお話すると、両親から相続した家や土地の権利を譲渡する代わりに相応の金銭を貰い受け、唯一親身になってくれた祖母以外の親族と縁を切りました」
中学生の少女に背負わせるには重すぎる決断だと、率直に思う。
両親を失い、味方だと思っていたはずの親族には食い物にされ、手元に残ったのは金銭と祖母だけ。
「きちんと祖母が雇ってくれた弁護士伝手で契約書も交わしていて、以降は一度も関わっていません。連絡先も知らないのですから当然ですね」
「……そう、なのか」
「それからは地元を離れ、祖母方の家で暮らしていました。高校もそちらで通っていて、生活費は相続で得た金銭があったため、苦労しませんでした。その傍らで将来のためと祖母に勧められて行っていた資産運用の結果、今のままのペースだと働かずとも老後まで暮らせる程度の貯えが出来ました。ですが、高校二年生の時に祖母は病で亡くなってしまって……天涯孤独の身となったわたしは大学入学を機にこちらへ引っ越してきたわけですね」
ひとしきり話し終えたのだろう。
ふう、と息をついて、結局口をつけていなかった緑茶を飲む。
まるで何も思っていない風を装った雰囲気。
でも、隠せないほど頬が強張っているし、手は膝の上で硬く握られ、眼差しは逃げるように俺とは反対側へ。
「……皐の事情は、なんとなくわかった」
話を聞いて、当初から抱いていた疑問に対する答えと、憶測が脳裏を過る。
金銭に困っていなかったのは相続で得た金銭を資産運用して増やした結果。
定期的に遊びに出る癖も事故や、祖母を亡くした孤独を忘れるため。
親しい間柄の相手を作ろうとしなかったのは、両親を失ったことを思い出さないようにするための自己防衛?
今思えば多すぎるくらいに手を繋ごうと求められたのも、皐が誰かとの繋がりを無意識的に欲していたから――なんて考えるのは飛躍しすぎだろうか。
つい先日まで大学では自分の殻に籠り、他者を寄せ付けず、孤独ではなく孤高を貫いていたのは、遺産相続争いで他者を根本的に信用できなくなっていたから。
それなら俺に対して口約束を信用していないと言っていたのも納得できる。
皐が楽しい話ではない、と言っていた意味がようやくわかった。
「それで、皐は俺にどうして欲しいんだ?」
「…………っ」
試しに聞けば皐は呆気にとられたのか目を丸くし、逡巡を経てから苦笑へ変えた。
「慰めるとか、そういうのはないんですか?」
「俺の手には余るだろ、どう考えても。あと、皐から慰めて欲しいって雰囲気を感じなかった。かといって何も求めていないわけではないとも思った。生憎と女心を察せられるほど鋭いわけじゃないから、素直に尋ねたんだが……」
「……そうですね。わたしが慰めを欲していないのも、何かを求めていたのも、慧さんが鈍感なのも正解です」
さりげなく刺されたけど、俺の答えが間違っていなかったようで助かった。
安堵した直後、ソファが微かに軋む。
皐が間の距離を詰めるために、座り直したからだった。
肩や腕、腰が触れ合うほどの近さ。
「わたしは当初、慧さんとは契約だけの関係で済ませようとしていました。今のように、近しい仲になることを望んでいなかった。それはわたしが孤独を受け入れたつもりだったからです」
「……孤独を受け入れた人間があんな契約をするか?」
「慧さんのご指摘はもっともで、わたしは当たり前のことを見失っていました。この現代社会において、文字通り孤独に生きることはできません。どこかで、誰かの手を必ず借りている」
例えば、このように――と、膝の上に置いていた手へ、皐の手が被せられる。
ほんのり伝わる手の冷たさ。
細い指が手の甲を這う。
こそばゆく、じれったい、探るようなそれ。
集中力が乱される。
皐の部屋で二人きり。
隣に座り、手をまさぐられるこの状況に、思わないことがないでもない。
「わたしは完全に諦めたわけではなかったのでしょう。密かな憧れがなければ、友達という関係を悪くないとは評さないはずです」
「……いざ友達として付き合おうってなったら歯止めが利かなくなった、とか?」
「お恥ずかしながらその通りです。自分でも半ば無意識の部分が多かったのですが……ご迷惑ではなかった、ですか?」
「迷惑かどうかって話なら、迷惑なわけがないって答えになるかな。健全な男子大学生として、皐くらいの美人に懐かれて嫌な思いはしないさ」
「…………冗談っぽく言うのは良くないと思います。あと、懐いては――」
「この手についてはどう説明するおつもりで?」
少々不満げに否定する皐へ先んじて聞いてみると、俺の手に被せられた自分の手をまじまじと眺め、盛大に視線を逸らす。
「それは、たまたまです。たまたま手を置いたら、そこに慧さんの手があっただけで、わたしとしては無自覚だったのですが、もし邪魔だと言うのであれば退けていただいて結構です」
「俺としても皐が嫌なら自分で退けてくれて構わないんだけどな」
「……その返しは意地が悪いと思います」
「変な意地を張るからだ。素直に思ってることを言ってくれていいのに。手くらいならいくらでも貸せるぞ」
どうする? と聞けば、諦めたように力が入っていた肩を落とした。
「…………わかりました。わたしが悪かったです。この期に及んで言い訳をしようだなんて考える必要がありませんでしたね。……こんな話をしたのは初めてで、不安を紛らわすために慧さんの手を借りました。これで満足ですか?」
「そこまで言わせる気はなかったんだが」
「……………………一発だけでいいので頬を叩いてもいいですか」
「皐が自滅しただけだろ! 理不尽だ!!」
顔を赤くし、震えた声で告げる皐へ身を引きながら抗議をする。
俺を睨む眼差しは本気半分、冗談半分といった様子。
こっちも演技交じりだからお相子だな?
数秒見合った後、皐が息を吐きながら気を緩める。
「――話を戻しますが、わたしは慧さんを手放したくないと思ってしまいました。勝手ながら孤独から掬い上げていただき、楽しい時間を共に過ごした大切な友達です」
「……先に助けてもらったのは俺だけどな。あの日、食堂で皐が声を上げてくれたのが、俺のためじゃなかったとしても嬉しかった。間違っているのは俺じゃないと肯定してくれたみたいで、救われた気がしてた」
「本当にわたしの目に余っただけなのですが……」
「なんでもいいよ。俺が救われたって勝手に思ってるだけだから」
「それを言うならわたしも同じで――」
なんて言い合って、気付けばお互い笑っていた。
「都合が良すぎますね、わたしたち」
「でも、この関係がちょうどいい……だろ?」
「外野がどんなに騒いでも、わたしたちはわたしたちです」
都合がいい契約から始まった友人関係。
それは、今やかけがえのない繋がりとなっている。
「……実はわたし、少しだけ考えていたことがあるんです。もしもわたしが八雲さんに自分の身を売ったとしたら、慧さんを助けられるんじゃないか――」
「冗談でもやめてくれ」
最後まで言わせたくなくて、強引に言葉を挟んで皐の手を握ると、困った風に笑う。
「もう言い出しませんよ。わたしが慧さんを大切に思っているように、慧さんがわたしを大切に思ってくれていることがわかりましたから」
「……逆に俺が同じようなことを言い出したらどうするつもりだったんだ?」
「全力で止めましたね」
「そういうことだ」
「やっぱりわたしたち、似た者同士なんですかね」
「かもなぁ……」
「適当に返事をしないでください」
「振ったのは皐じゃなかった??」
適当な返事をしたつもりはなかったんだけどなあ。
本当に似てるところはあると思ったし。
「――わたしがしたかったお話はこれで終わりです。楽しい内容ではなかったと思いますが、聞いていただいてありがとうございます」
「迷いは晴れたか?」
「快晴です。今なら星も綺麗に見えそう……プラネタリウムとか、今度行ってみたいですね」
「都会じゃあ星なんて滅多に見えないからな」
「では、また今度の予定ということで」
「……ところで、この手はいつになったら離してもらえるんだ?」
「いつでも貸すって言っていたのは嘘なんですか?」
「嘘じゃないけど……」
「なら、このまま映画も観ましょう。徒歩で帰れる距離ですから、時間を気にする必要もありませんし」
「……日を跨ぐ前には帰るからな?」




