第28話 夕食のお誘い
それからの日々は忙しなく、居心地の悪さが改善されることはなかった。
授業に出ればあちこちから陰口は根拠のない憶測が飛び交っているし、大学内を歩いているだけで嫌な注目のされ方をする。
かといって皐と離れると八雲先輩からの接触が怖い。
だから必然的に大学内で離れることが無くなり、それが逆に噂の信憑性を上げている悪循環。
でもさ……普通に考えておかしいと思わないのか?
フツメンの俺と大学一レベルの美人である皐が付き合ってるなんて、全く釣り合いが取れていない。
交流があることを見せたのもつい最近だし、色々気が早いと思う。
あの噂が信じられているのは、ひとえに八雲先輩への信用……もあるだろうけど、どちらかと言えば畏れの側面が大きいのではないだろうか。
俺を捨てて八雲先輩と付き合ったことで、今や二回生の中で有数の地位を確立した更科。
黒い噂は絶えないものの、気前のいい陽キャの手本みたいなイケメンの八雲先輩。
この二人を敵に回せば大学生活が危うくなる。
それこそ、俺のように。
でも、肝心の八雲先輩からのアクションが未だにない。
俺たちがどう踊るのかを愉しんでいるだけなのか、まだ準備が整っていないのか。
後者であることを願いつつ、最大限の警戒を続けていた。
『証拠集めもしばらくかかりそうだ。奔走してくれているみたいだけど、ちょっと前のことだから調べるのに難航しているみたいでね』
帰宅したところで明智先輩から届いていたメッセージを確認して「わかりました」と返しつつ、どうしたものかと考えながら身体を伸ばす。
あの二人が先に浮気をしていた証拠を探すのは、完全に明智先輩へ任せることになっていた。
俺と皐が動けば、八雲先輩に察知されてしまうかもしれないからだ。
出来たのは軽い事情聴取への協力くらい。
こっちは証拠が挙がるのを待つしかない。
「にしても……暇だ」
大学内ではこれまでと変わらず皐と一緒に過ごしているが、プライベートでは控えようという方向で纏まっていた。
それはつまり皐と遊びに行く時間がなくなってしまうわけで――すっかりその生活に慣れていた俺は暇を持て余していた。
正確には、一人でいることが退屈になっていた……だろうか。
授業の課題はあるし、スマホで動画や漫画は読めるし、家事もする。
でも、どこか物足りなさを感じてしまって、消化不良感が否めない。
「かといって不用意に外出るのもアレだし……」
流石に買い物には出るけど、ぱぱっと済ませるようにしている。
なるべく買い出しに出る回数を抑えるために材料を買い溜めているから、自炊の割合が高くなっていた。
ちょっと面倒ではあるけど、こういうのも悪くない。
悪くないのだが――
「……やっぱり俺、寂しがり屋なのか?」
たった数日、大学外で皐と会わなくなっただけでこれだ。
大学生になって東京へ出てきたばかりの頃は両親と離れたことへの寂しさを感じていたけど、それより酷くて自分でも笑ってしまいたくなる。
皐と遊んでいる時間は楽しく、大切な日常だったのだろう。
それを奪った二人のことはやはり許せない。
「でも、皐はどうなんだ? 数日に一度のペースで遊びに出ていたけど、それが出来ないとなるとストレスの解消手段が限られるのでは?」
皐は俺へ契約の話を初めてした時、娯楽に飢えていると言っていた。
そして、ふらっと遊びに出てしまう習慣が身についてしまったとも。
しかし今は不用意な外出を自粛している状態。
その制限は、皐の習慣にどれだけの影響を与えているのだろうか。
「……いきなり暴れ出すようなことはないと思うけど、心配だな」
外に出ずとも、現代には家で享受出来る娯楽が溢れている。
漫画やアニメ、映画、ゲーム……皐ならその辺の機器も備えていることだろう。
だから多少の我慢を強いることにはなるものの、問題ない……と信じたい。
「まあ、皐なら大丈夫だろ。限界近くなったら連絡して欲しいって言ってあるし」
その場合は皐と二人で、ではなく明智先輩と海老原も誘おうと話していた。
デートだのなんだのと余計な誤解を生まないための予防線であり、こんな状況でも息抜きの時間は大切という判断だ。
「それより夕飯の支度しないと。今日はどうするかな。カルボナーラか、ペペロンチーノか……」
簡単に作れて美味いパスタ料理に頼り切りなのが分かりやすいラインナップを頭に浮かべていると、スマホが着信を告げた。
相手は……皐だった。
「皐? なにかあったか?」
『何かあった、というわけではありません。……ただ、家に一人でいるのが退屈だったので、話し相手が欲しいなと思いまして』
何事もなかったことに安堵するも、電話をかけてきた理由の方で苦笑してしまう。
どうやら皐も俺と同じ状態だったらしい。
当たり前だけど一人暮らしは家に話し相手がいないんだよな。
「そういうことなら大歓迎だ。俺も暇だったし」
『……そう言っていただけると助かります』
「こんな状況だからな。一人でいると色々余計なことを考えたり、不安になったりすると思うし。てか、俺もそうだからさ」
『わかります。何の得にもならないとわかっていても思考が止まらなくて……他のことで気を紛らわそうと試みたのですが、それもダメで』
「皐も寂しがり屋ってわけだ」
『……認めるしかなさそうですね』
自分へ呆れたような、落ち着いた声音。
そして、控えめな笑い声が届いた。
『わたしも丸くなった、ということでしょうか』
「関わる前の皐はもっと氷みたいに冷たくて、近づくな――って雰囲気を周囲に振り撒いてた気がする。ハリネズミみたいな感じだ」
『ハリネズミ、という評価には物申したいことがなくもないですが……変われたのは皆さんがいてくれたからです』
「だとしても、皐にその気がないと変われないだろう?」
『かも、しれませんね。……ちなみに、どちらのわたしの方が好ましいと思いますか?』
「俺は今の皐の方が付き合いやすくていいな。仲良くなったことで、少しずつ素の部分が見えてきたっていうか」
契約関係を結んだ当初から感じていたのは大学での人形っぷりとは裏腹に、意外と人間味があったことだ。
猫やぬいぐるみなんかの可愛いものが好きだったり、喜怒哀楽がはっきりしていることもそうかもしれない。
冷静沈着に見えて感情的な面もあるとか、寂しがり屋とか……パッと思いつくものだけでもこれくらいはある。
そこまで言及して欲しいと思っていなさそうだから口にはしないけど。
……照れてないぞ?
『……素のわたし、ですか』
「気に障ったなら取り消すけど、違ったか?」
『いえ、そうではなく……慧さんに見せていたわたしが素なのだとしたら、年甲斐もない言動をしていた気がして、急に恥ずかしくなってしまい……』
「大学生なんてそんなもんだろ」
『二十歳は世間的には大人ですよ?』
「かもしれないけど、友達の前で無理して抑え込む必要もないと思うぞ。てか、他のはしゃいでる奴らに比べたら、かなり大人しいだろ」
酒を浴びるくらい飲んで騒ぎ立てるわけでもなく、使ってはいけない金までギャンブルに投資するわけでもない。
金銭感覚は別としても、一般常識の範囲内で楽しんでいる皐なんて可愛いものだ。
『自分が楽しむために他の方へ迷惑をかけるのは許されないと思います』
「信じがたいことに、そんな簡単なことを守れない奴が大学生には大勢いるんだよ」
『……現にそういう人から被害を受けている状況では笑えませんね』
「全くだ」
電話越しに重なるため息。
その後、「ピー」という電子音が響いてきて。
「今の音は?」
『ロールキャベツを煮込んでいたタイマーの音ですね』
「ロールキャベツか……いいな。俺も夕飯作らないと」
『今日は何にされるのですか?』
「パスタ系だな。楽で美味いし」
『……まさか単品なんて言いませんよね』
「そのつもりだけど」
数秒ほどの沈黙。
後に、心底呆れたと言わんばかりの深いため息。
「パスタの何がダメだって言うんだ。手軽で美味くてバリエーションも豊富。これ以上ない一人暮らしを始めたばかりの大学生の味方だぞ」
『パスタが悪いとは言っていません。わたしもよく作りますから。ですが、単品だとバランスが偏ってしまいますよ』
「金欠大学生に必要なのはバランスじゃなく量だ」
どれだけ美味しくても腹が膨れなければ意味がない。
自炊に求められるのは最低限食べられる味の保証。
それを達成しやすいのがパスタを含めた麺類ってだけだ。
調理が簡単なのも非常にいい。
複雑化すると意識を持っていかれて上手く作れなかったりするし。
「ロールキャベツは実家で時々母さんが作ってたなあ。コンソメの匂いってどうしてあんなに食欲をそそるんだか。……やば、そっちの口になってきた。コンソメあったかな……スープくらいはあってもいいな」
『あの……もしよければ、うちへ夕食を食べに来ますか?』
恐る恐る、といった雰囲気での誘い文句が聞こえて、思わず「え」と声が漏れる。
皐の家で夕飯を……?
風邪引いた時に作ってもらったお粥でさえあんなに美味しかったんだから、ロールキャベツも絶対に美味しいのは簡単に想像できるけど――
「それは申し訳ないし、皐の部屋に上がるのも色々アレだし、あんま外に出ない方がいいって話になってたと思うんだけど」
『無暗に誘っているわけではありませんよ。わたしの部屋で夕食をご一緒に、と誘ったのは慧さんを信頼してのこと。そして、マンションのセキュリティー的に不審者は入ってこられないだろうと踏んでのことです』
「だからってなぁ……」
『それともわたしがロールキャベツのおすそ分けを持っていきましょうか?』
「いや、それだと皐が危ないかもしれないし」
『だったら慧さんが来てください。そのバランスの悪さは看過できません。それとも……食べたくないですか? わたしの作ったロールキャベツは』
その質問は卑怯だろう。
食べたくないわけがない。
でも、俺が断れば皐が来る。
このアパートにセキュリティーらしいものはなく、顔を合わせたところを見られる可能性がある。
しかし、皐のマンションのセキュリティーは信用に足るのだろう。
だから皐も誘ってきたわけで……。
「……これは契約としての付き合いか? それとも、友達として?」
『どちらでも構いません。免罪符が必要であれば……食後に少し付き合ってください。ゲームもありますし、映像系のサブスクもあるので』
ダメ押しとばかりに通話の裏で皐が住むマンションと思しき場所の住所と周辺のスクリーンショット、それから部屋番号が送られてくる。
あんなことを聞いた時点で気持ちが偏っているのは自覚していた。
まあ、要するに――アレだ。
「……本当にいいんだな?」
『どうぞ遠慮なく。支度をして待っていますね』
俺は既に、皐との時間に飼い慣らされてしまっているらしい。




