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ザリガニの恩返し

作者: SHOW

 よほど確信があるんだね。君自身が夢を見ているのだ、という事に。

 もしかしたら君こそが――誰かに見られている夢なのかも知れないじゃないか。


*****


「あ、ザリガニ……」

 インターホンが鳴ったので玄関のドアを開けてみると、そこには一匹のザリガニ。

 僕よりもちょっとだけ背の高いそのザリガニは、なんだか取って付けたような二本の足でそこに立っていた。

 肩の部分からぶら下がっているのは、ザリガニのアイデンティティでもあり、その持ち主が間違いなくザリガニである事を証明する、二本の真っ赤で大きなハサミ。

 ザリガニ怪獣ザリガニというか、ザリガニ星人ザリガニというか、とにかくそんな感じだ。

 その日はちょうど盆の入りで「お盆なんだから、今年こそは家に帰って来なさいよ」と母親に言われていた大学の長い夏休みの真っ最中でもあり、数年前から体調を崩して入退院を繰り返していた祖父がお盆を理由に三ヶ月振りの外泊許可をもらって家にいたり、小さな頃からおじいちゃん子だった僕にとっては祖父がいるとはずいぶんとタイミングよく帰って来たものだなぁと浮かれていたところではあるのだが、まさかザリガニをナマで見る事ができるとは思いもよらなかったのである。

「うわ、ザリガニ……」

 いつの間にか、僕の後ろには妹が立っていた。来客があったのに話し声一つ聞こえてこないのを不思議に思い、様子を見に来たらしい。そして予想外のザリガニにもう一度、「うわぁ」と声をもらす。

「何しに来たの、こいつ」

「さあ……」

「だってザリガニだよ、ザリガニ」

「見りゃわかるよ、そんな事」

「やっぱり、恩返し?」

「そりゃあザリガニだからね」

「私、恩返しなんかされるような事してないよ」

「僕だってした事ないよ」

 僕と妹がそんなやり取りをしている間も、ザリガニは玄関のドアのところでまったく動く気配を見せない。

 そのうちに妹は「じゃあ、おじいちゃんだおじいちゃん」などと勝手に決めつけて、奥の部屋へと小走りに引込んで行くのだった。直後、「おじいちゃん、ザリガニが来たよ! ザ・リ・ガ・ニ!」と、祖父に説明する妹の大きな声。

 興奮しているのか、それとも、年寄りはみんな耳が遠いものだと思っているのか。どちらにしろ、そんな大声を出さなくても祖父には聞こえていると思うんだけどなぁ。

「入れてあげなさい、だってさ」

 しばらくして戻って来た妹は僕にそう言うと、またすぐに奥の部屋へと引っ込んでしまった。ザリガニの接客なんて厄介事は、すべて僕に押し付けて。

「――だそうです。どうぞ」

 はたして、ザリガニに日本語など通じるのか非常に疑問ではあったが、そいつはぺこりと頭を下げると、真っ赤な甲殻をがしゃがしゃ言わせながら家の中へと上がってきた。

 という事は、先ほどの僕と妹の失礼なやり取りもすべて正確に聞き取っているわけだよな、やっぱり。

 そんな事を考えながらザリガニを居間まで連れて行くと、ちゃぶ台の向こう側に腰を下ろしている祖父。その真正面にザリガニを座らせ、僕はその二人の間に同じように腰を下ろし、あぐらをかいた。

 ザリガニはその二本の足を器用に折りたたみ、黙って正座をしている。

 ずいぶんと礼儀正しいザリガニだなぁ。

「ニボシ」

 祖父がそう口を開いた。

 はじめ、僕にはそれがいったい何を意味しているのかさっぱりわからなかったが、数瞬考えたあと、「ああ、ニボシね。ザリガニを飼う時なんかはよくニボシを餌にするもんなぁ。そうだよニボシだよニボシ。じいちゃん、気が利くなぁ」なんて答えに辿り着いたまでは良いのだが、それが誰に向けて言った言葉なのかがわからないので、結局のところ祖父が何を考えているのかはわからずじまいだ。

「ニボシはお好きですか?」とザリガニに聞きたかったのかもしれないし、僕に「ニボシを買って来い」と言いたかったのかもしれないし、もしかすると「ニボシから上手にダシを取るコツはねぇ」なんて、どうでも良い事を言いたかったのかもしれない。

 そんな感じで困り果てていると、台所の奥からこっそりとこちらの様子をうかがっていた妹に向かって、もう一度、「ニボシをお出ししなさい」と祖父。

 妹は一瞬、こちらに向かって「うへぇ」という表情を見せたが、すぐにばたばたと走り出し、台所からざあざあからからとニボシを器に出す音が聞こえてきた。

「ザリガニの恩返し――か」

 器いっぱいのニボシと一緒に出された番茶を一口すすったあと、祖父はそう静かに話し始めた。

「昔は、恩返しといえば鶴や亀だったんだけどねぇ。最近じゃ、ザリガニとかアメフラシとかクラゲとか、そういったもんがよく恩返しに来るとは聞いていたけど、まさか、こうして自分のところにも来るとはねぇ」

 そうしてしみじみ話す祖父の目の前では、ザリガニが首の横から伸びている二本の細い食腕を器用に使って、ニボシを頬張っている。

「じいちゃんは、このザリガニに何をしてあげたのさ」

 そう聞くと、祖父は宙に視線を泳がせながら、「さてねぇ……。小学校で飼っていたザリガニが共食いされそうになっていたのを助けた事もあるし、中学校の時には車道に出てしまったザリガニを田んぼに戻してやった事もあるしねぇ。あとは、そうだなぁ――」などと、様々なザリガニ救出劇を語ってくれたのだが、目の前にいるザリガニがはたしてどのザリガニなのかは、結局わからないのだった。

「今でこそ、ザリガニなんてのはそう見かけなくなったけど、昔はそれこそ、そこいら中にいたもんだからねぇ」

 祖父は、湯飲みに残っていた番茶をずずずぅと飲み干したあと、「ま、そういう事だよ」と締めくくった。

 祖父が言うのだから、そういう事なのだろう。

 ふと気が付くと、妹がザリガニの後ろに立ち、そいつをじろじろと見ている。

 そりゃ、ザリガニだもんな。滅多に見られるもんじゃないもんな。だけど、珍しいから見たくなるというのもわかるが、ちょっとザリガニに失礼なんじゃないのか、それは。

 そんな事を思ってじろりとにらみつけると、妹はその視線をするりとかわし、ついにはその場にしゃがみ込んで、ザリガニの足の裏をまじまじと見ているのだ。

 とうのザリガニはというと、気が付いていないのか、それとも気にしていないのか、相変わらず無言でニボシを頬張っている。

「おい、失礼だろ」

 いっこうにそれをやめようとしない妹にしびれを切らしてそう言うと、妹は不満そうに、「だって、お兄ちゃん、土足」などと、わけのわからない事を言い出した。

「このザリガニ、土足で家の中に上がってきたよ」

 言われてみれば確かにそうなのだが、本人を目の前にして言わなくても良いじゃないか。

 そう思い、「土足もなにも、はじめから何も履いてないだろ」と一応のフォローはしてみたのだが、妹はさらに不満げな顔をして、「だから、裸足だし、土足」と、矛盾した言葉を力いっぱい吐き出すのだった。

「だって、廊下とか部屋とか、汚くなるじゃない」

「そんなもの、あとで拭いておけば良いだろ」

「結局、私がやるんじゃん」

 こうなると、もう手が付けられない。「結局いつも私が」なんて言いながら小学生の時の話を引っ張り出してきたり、「あとでやれば良いなんて言うけど、その前にお母さん達が帰って来たらどうするの」とか何とか、思い付く限りの言葉をそのままわめき散らす。

 頼みの綱の祖父はといえば、まるで僕達のやり取りを楽しんでいるかのように、笑みすら浮かべてザリガニと一緒にニボシを頬張っているのだった。

「わかったわかった。僕がやれば良いんだろう。今すぐに」

 勝った。そんな声すら聞こえてきそうなほどの満足気な表情を浮かべたあと、妹は台所からバケツと雑巾を持ってきて僕に一言。お願いね。

 納得のいかないまま僕はそれらを受け取り、居間を抜け、ザリガニの歩いた廊下を通り玄関へと行ってみた。

 そこまで来て、監督気取りで後ろからついて来ていた妹が、「あれぇ」と間の抜けた声をもらす。

 なにしろ、どこも汚れてなどいないのだ。廊下にも玄関にも、足跡ひとつ付いてはいなかった。

 家の前には砂利が敷き詰められているため、そこを通ってそのまま家に上がれば、廊下には白い足跡が付くはずだ。実際に僕も小さな頃、それで何度も母親に怒られた事があるくらいだ。

 まったくわけがわからなかった。あのザリガニは、いきなり家の前に現れたとでもいうのか。

 居間へと戻り、妹が不思議そうな顔でザリガニの足を眺めているのを横目に、僕は先ほど見てきたものをそのまま祖父に説明した。

「ああ、それは彼が『夢』だからじゃないかな」

「ユメ?」

「そう、夢。まあ、もう少し簡単に言えば、幽霊とか幻とか、そういうものだ。物理法則にとらわれる事のない、実体を持たない何か、ってところかね」

「でも、さわれるよ、これ」

 妹はそう言いながら、大胆にもザリガニの背中をぺちぺちと叩くのだった。その弾みで、ザリガニの食腕からぽてっとニボシが落ちる。

「それはそうさ。たとえ夢の中でも、モノには触れる事ができるだろう? 動く事だってできるし、会話だってできる」

「つまり、ここにいる僕達みんなが、同じザリガニの夢を見ているって事?」

「さてねぇ……。もしかしたら私達こそが、ザリガニの見ている夢なのかもしれないよ。うん。その方が効率的だからね。何人もの人に同じ夢を見せるより、この世界そのものがザリガニに見られている夢なのだ、とした方がね」

 ふうん。そうか、そういう事になっているのか。じいちゃんは本当に物知りだなぁ。それになんだかちょっぴり詩人だ。なにしろ、「この世界そのものがザリガニに見られている夢」なのだ。うんうん、やっぱりじいちゃんはすごいなぁ。

 そんなふうに感心していると、妹が思い出したように話を振り出しに戻した。

「で、結局こいつは何をしに来たわけ?」

「だから、恩返しだってさっきも言っただろ。他に何があるって言うんだよ」

「だってこいつ、さっきからニボシ食べてるだけじゃん」

 そりゃお前、ザリガニだからな。ニボシぐらい食べるさ。そう言おうとしたが、やめておいた。妹の言っている事はもっともだし、それに、僕自身気になってはいたのだ。このザリガニはいったい祖父に何をしてくれるのだろうか、という事が。

 がちゃり、と赤い甲殻達がこすれ合う音。

 ザリガニが、まるで僕達の会話に急かされたように立ち上がり、「うわぁ」などとその場で尻もちをついた妹の足をひょいとまたぐと、居間を抜け、玄関目指して歩き出した。その後ろをてぽてぽと祖父が、どたばたぎゃあぎゃあと妹が続く。

「ねぇ、これどういう事。こいつ、このまま帰っちゃうわけ? これじゃあ、ニボシ食べに来ただけじゃない。どこが恩返しなのさ。ちょっと、お兄ちゃんも何か言ってやってよ」

 別にお前に用があって来たわけじゃないんだから、何もそこまで憤慨する事ないだろ。

 そう言おうとした時、ザリガニはぴたりと足を止めた。玄関を上がってすぐにある和室の前。

 それは、祖父の部屋だった。

「ここでよろしいですか?」

 祖父がそう尋ねると、ザリガニはこくりとうなずき、そしてそのまま、祖父と一緒に部屋の中へと入って行く。

 僕と妹は入り口のところで立ち止まり、その様子を見ている事にした。もちろん、妹は中へ入ろうとしたのだが、僕はそれを制した。恩返しをされるのは祖父なのだから、と。妹は何事かをぶつぶつとつぶやきながら、それでも一応は僕の横で立ち止まった。

 ザリガニは祖父の部屋の中央に立つと、何かを探すように、ぐるりと辺りを見渡す。そして、部屋の一番奥にあったタンスに目をとめると、それに歩み寄り、上から三番目の引き出しを勢い良く開いた。

「探し物でも?」

 祖父の声には何の反応も見せず、ザリガニはその開いた引き出しに頭を突っ込み、二本の食腕を使って中をかき回しているのだった。

 その横でただ黙ってそれを見ている祖父の足下に、引き出しから放り出された様々なものが、どたどたばさばさと落下してくる。歯の欠けたクシ。穴が開いて使い物にならなくなった小銭入れ。妹が幼稚園の時に描いた祖父の似顔絵。そんなもの達が今、祖父の周りに無造作に散らばっているのだった。

「警察呼ぼうよ。絶対泥棒だって、あいつ――」

「うるさい」

 僕の袖を必死に引っ張りながらの妹の懇願を一言で却下し、僕は祖父と同じように、ザリガニの動き一つ一つを目に焼き付けていた。

 きっと、祖父も僕と同じ事を考えているに違いない。そして、笑いがこみ上げてきそうなほどの期待感。

 ザリガニの恩返し。

 高値で売れる上質な布を織ってほしいわけじゃない。ましてや、竜宮城に連れて行ってほしいわけでもない。ただ祖父が喜び、そして、驚くような何かを――。

 がさり。

 おもむろに、ザリガニがその頭を上げた。引き出しにはもうほとんど何も入っていないだろう。そう思わせるほどのものが、祖父と、そしてザリガニの足下に散乱している。

「写真……」

 妹がそうつぶやいた。見ると、ザリガニの食腕の片方には一枚の写真がはさまれている。白黒というよりは、とうの昔に色あせてしまったのだろうセピア色の写真が。

「これは……」

 ザリガニからそれを受け取る祖父の手は、微かに震えていた。そして、その目にはうっすらと涙まで浮かべているのだった。大事そうに、いとおしそうに、その写真をなでながら祖父は何度もうなずく。

「うん、うん。そうか、こんなところにしまってあったのか。いや、ずっと探していたんだよ、これを。入院する時にも持って行きたいと思っていたんだ。ありがとう、本当にありがとう……」

 そう言いながら大粒の涙をこぼす祖父の手に握られた写真、それには僕がまだ小さい頃に他界した祖母が写っていた。

 祖母が、まだ若かった頃の写真だ。

「な、ちゃんと恩返ししてくれただろ?」

 呆気に取られている妹にそう言って、僕は部屋の中へと一歩踏み出した。祖父に声をかけてやりたかったし、それ以上に、ザリガニにお礼を言いたかったから。

 だけど、僕の足はそこから先には進まなかった。僕は動く事もできずに――ただそのすべてを見ていたのだ。

 ザリガニが、その大きくて真っ赤なハサミを頭上高く持ち上げる。「おじいちゃんっ!」と後ろから妹の叫び声。しかし、それが響き終わるよりも先に、真紅の塊は祖父の頭めがけて振り下ろされた。

 涙でぐしゃぐしゃになった祖父の顔は、より一層奇妙なまでに歪み、畳の上にはざあざあばらばらと血やわけのわからない赤い破片がまるでお祭り騒ぎだ。

 祖父の手からひらりと祖母が舞い落ちる。それを追うようにして祖父の体もぐらりと傾くが、下から飛んできたザリガニのハサミがそれを支えた。ぶしゅうぶしゅうと腹部から液体やら気体やらをまき散らし、ザリガニに支えられた祖父は文字通りの宙ぶらりん。手も足も、ぷらぷらと力なく揺れている。

「おじいちゃんっ!」

 声も出ない僕の後ろで、妹がもう一度叫んだ。だけどその声は、まるでザリガニから発せられたように見えた。妹の声と同時に、ザリガニの口が大きく開かれたから。

 首にある食腕の辺りまで裂けたその内側には、上にも下にもずらりと歯が並んでいる。刃物のように鋭いそれらの歯が、何列にもなって口の中を埋め尽くしているのだった。

 どさり、と後ろで何かが落ちる音。振り返ると、妹がその場にへたり込んでザリガニを指さしながら、「ひいいぃぃ」などという状態なのだった。

「とめてよ。お兄ちゃん、あのザリガニとめてよ」

「とめられるもんなら、とっくにそうしてるよ」

 ザリガニの大きく開かれた口が祖父の頭に覆いかぶさり、そして、一気に喰らいつく。肉が引き千切られ、骨の砕ける嫌な音。ザリガニの歯の間から、赤いのやら白いのやら硬いのやら柔らかいのやらが次から次へとこぼれ落ちてはぼたぼたばらばらと畳を叩き、もはや祖父のものとは見分けのつかなくなったひと塊のそれはザリガニの口の中でびくんびくん動いてはぶうぶうしゅうしゅうと何かを吐き出し続け、妹はといえば相変わらずひいいぃぃであり、その間もザリガニの口は動き続け、それに合わせてのどが脈打っていた。

 ――喰っているのだ。

 祖父の右腕が、そのハサミで切り落とされる。

 ――あのザリガニは。

 右腕が、切断面から口に放り込まれる。

 ――祖父を喰っているのだ。

 はらわたにかぶりつき、脈打つザリガニののど。

 ――いったい何のために。

 それはもう、ヒトの形を失うまでに喰い荒らされている。

 ――これがそうだというのか。

 それでもザリガニは止まらない。

 ――これが。

 うずくまり、畳に落ちた肉片すらむさぼり喰う。

 ――ザリガニの恩返し。

 僕の見ている目の前で祖父は祖父でなくなり、そしてそれすらも、今は消えてしまった。跡形もなく、だ。肉片の一つも、髪の毛の一本でさえそこには残されていない。

 ザリガニがゆっくりと立ち上がった。

 その手には、真っ赤に濡れた祖母の写真。そいつを、先ほど祖父がそうしたようにハサミの先で大事そうになでたあと、口の中に放り込むのだった。

 いったい、その体のどこに人間一人分の肉が入っているのかは、まったくわからない。ザリガニはやって来た時と同じ体型で、そしてやって来た時と同じように甲殻をがしゃがしゃ言わせながら、こちらに向かってぺこりと頭を下げると、立ち尽くしたままの僕とへたり込んだままの妹の間を抜け、黙って家を出て行ったのだった。

 しばらくそのまま動けないでいると、居間から電話の呼び鈴が聞こえてくる。

「わ、私が出る、私が。電話に出ます」と半ばパニックを起こしながらそう言うと、妹はずるりずるりとそのままの姿勢で這い進んでいった。

 残された僕は、ザリガニによって引き出しから放り出された様々なものを眺めながら、あのザリガニがした事について考えていた。

 あれは恩返しだった。それは間違いない。ザリガニが恩返し以外の理由で人前に現れるなんて事はありえない。だからあれは、あのザリガニなりの祖父に対する精一杯の恩返しだったのだ。

 問題は、それで祖父が満足したかどうかだ。それも、ただの満足では駄目だ。それなら、祖母の写真を見付けるだけで充分だったはずだ。つまり、ザリガニのあの行動にはそれ以上の意味が必要なのだ。

 そうでなくては祖父が――。

 僕の思考をそこで中断させたのは、居間から聞こえてきた妹の声だった。「だからザリガニが」とか「そうじゃなくておじいちゃんは」とか、しまいには「だからハサミがブンってなって」とか僕が聞いても意味不明の言葉を連呼している。電話の相手にとっては、なおさらちんぷんかんぷんだろう。

 仕方がないので居間へ行き、妹に代わるよう促す。

「おじいちゃんの病院から。もう、何を言ってるのかさっぱりわかんないのよ」

 それはお前だろ、と思いながらも受話器を受け取り耳にあてる。聞こえてきたのは、僕も何度か会った事のある祖父の主治医の声だった。

「もしもし、お兄さんだね。いや、急な事で妹さんはパニックになっちゃったみたいで。お兄さんは落ち着いて聞いてくださいね」

「はあ」

「実は君たちのおじいさんの容態が急変しまして。我々も手は尽くしたのですが……。先ほど、亡くなられました」

 何を言っているのだ、この人は。

「それでですね、至急家族の方と連絡を取って、病院まで来てください」

 だって、祖父はさっきザリガニに食べられたじゃないか。

「……あの、お兄さん? 大丈夫ですか?」

 大丈夫です。それだけ言って、受話器を置いた。


*****


 祖父の通夜と葬儀は滞りなく行われた。

 なにしろ、祖父の死因は急性心不全であり、棺桶の中にはちゃあんと祖父が入っているのだ。妹が親戚に、「おじいちゃんはザリガニに殺されたのだ」と吹いて回る以外は、どこにでもある最後の別れってやつだった。

 祖父が家にいた事を知っているはずの両親でさえ、何事もなかったかのように、涙を流しながら「最期くらいは家でゆっくりさせてやりたかった」などと語っているのだ。

 あの時、いったい何が起こったのか。

 結局、『本当のところ』なんてものは祖父と、そしてあのザリガニにしかわからないのだろうが、大体の予想はつく。

 まあ、なにしろお盆だったしなぁ。そういう事が起こっても不思議ではないのだろうなぁ。

 祖父はお盆だったので、家に帰って来てしまったのだ。それを見かねたあのザリガニが、祖父を消化し、そしてちゃんと昇華してくれた。

 そういう事だったのではないだろうか。

 はたしてその推論が、どれほど『本当のところ』に近付けているかはわからないが、結構良い線いっているのではないだろうか。なんとなく、そんな気がする。

 とはいっても、この世界はザリガニの見ている夢に過ぎない。理由や意味なんてものは、どうとでもできる。いや、それ以前に、夢に見られているものが『本当のところ』を理解しようなどというのが間違いなのではないだろうか。

 いくら推論してみたところで、それは結局、夢を見ているものにしか辿り着く事のできない場所なのだ。

 そう思うと、すこしだけ気が楽になった。

 何かしらの理由があって、祖父はああいう事になった。ただ、それだけだ。

 そして、祖父はそれで満足だったに違いない。

 だから僕も、もし困っているザリガニを見たら助けてやろうと思うのだ。

 そのザリガニが、僕に恩返しをする夢を見てくれる事を願って。

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