ノートを破くって大変ですわよ?
「くっ、なんだ! 馴れ馴れしいぞ、いまさら余に媚びを売って助命嘆願をするつもりなら――」
「いえ、そうではなく。参考までにお聞きしたいのですが、最初に私の罪としてあげつらわれた『学園内における様々な嫌がらせ』とは、いかなる行為を指すのでしょうか?」
「ふん、決まっている。口に出すのもオゾましい……えーと」
「いまさらしらばっくれるなんて悪あがきですぅ! レティツィア様は」
途端にあやふやになったカスト王太子に代わって、被害者本人を自称するバッカラ男爵令嬢が憤懣やるかたない表情で(子供が駄々をこねるように、ぶーっと頬を膨らませ)、目くじらを立てて喚き散らします。
「……貴女には発言の許可を与えておりません。また尊き御身のファーストネームを口にできる立場ではありませんよ、“カロリーナ・コジマ・バッカラ準男爵令嬢”」
そんな彼女の舌鋒をピシャリと叩き切って、ナディアが氷のような冷ややかな眼差しと警告を放ちました。
「“準男爵令嬢”?」
「はい、レティツィア王女殿下。現在、エーブリエタース王国内にバッカラ男爵なる家門は存在しておりません。奴隷商人上がりのバッカラ準男爵ならば王都内に居を構えていて、仄聞するところでは旅芸人との間に生まれた庶子を、三年前に養女として引き取り、二年前にロッシーニ学園へと編入させたとのことですが」
続くナディアの補足に、心当たりがあるらしい卒業生や保護者の一部がウンウン頷いて同意を示しています。
準男爵というのは金銭で買える身分であり、一応は世襲することができますけれど、貴族院議員にはなれませんので、一代貴族であっても貴族として認められる聖職貴族や法衣貴族未満。
貴族ではなく騎士爵や郷士同様の上流階級――平たく言えば身分としては平民でしかありません。
ちなみに上流階級にもさらに階級があり、郷士や大地主などの“生まれよき上流階級”と、外国貿易商や法律家、内科医師、ホテルの経営者などである“育ちよき上流階級”では、基本的に貴族と同じく血統が正しい“生まれよき上流階級”の方が重んじられます。
また最近では、植民地で奴隷を使役するプランターや、貴金属の鉱山などで一獲千金を成し遂げた“にわか成金”という、上流階級と中産階級の中間のような者たちも、思いがけずに存在感と発言権を増すようになってきたと聞いていますので、為政者として今後の動向に留意しなければならないでしょう。
閑話休題――
「なによ、アンタ! たかだか付き人風情が偉そうにあたしに命令するんじゃないわよ!」
取り付く島もなく警告され、自分の身分が男爵令嬢ではなく準男爵令嬢であると暴露されたバッカラ準男爵令嬢が、キーキーと耳障りな声を張り上げてナディアに食って掛かりました。
「いえ、ナディアは伯爵家の継嗣ですから、貴族でもない準男爵家の令嬢である貴女にものの道理を弁えるよう、注意する権利と義務は十二分に保持していますわ」
この場合の『義務』は女主人である私の体面を守って、悪意から遠ざけるという意味なのですが、おそらくは目の前のバッカラ準男爵令嬢とカスト王子には通じていないでしょう。
「ひど~~い! ひどいひどい!! カスト様、見ましたか!? この通りなんです! いつもこうしてカロリーナを下級貴族って見下して、他にもノートを破ったり、制服をハサミで切り裂いたりのイジメを毎日のように……ううううっ……酷いんですよレティツィア様はっ!」
『『『『『『うわっ、話がまったく通じない!!??』』』』』』
この場にいたほぼ全員に戦慄が走りました。
たったいま注意を受けた
『許可もなく格上の相手に話しかけるな』
『ファーストネームを呼ぶのは無礼』
『そもそも準男爵は貴族ではない』
『ゆえに当然の対応』という、平民の子供であっても理解できる道理をまったく無視したバッカラ準男爵令嬢の涙ながらの臆面もない訴え。そして、それを全面的に受け入れて大きく頷きながら、まるでお伽噺の人喰鬼の首でも獲ったかのような態度で私を非難するカスト王太子。
「まったくだ。確かにこの目で見たぞ! この耳で聞いたぞ! 貴様の傍若無人さを!」
「身分に関しては事実を口に出しただけですが? それよりも準男爵でありながら、男爵を詐称することは立派な罪です」
「準男爵も男爵も大して変わらんだろう!」
私の指摘に真顔でカスト王太子がまたもや問題発言を発しました。
『『『『『『いや、貴族である男爵と平民である準男爵はぜんぜん違うぞ!!!』』』』』』
貴族筋の人間と上流階級、中産階級出身の者たちがともに首を横に振って、無言で全面否定をしますけれど、当然のようにカスト王太子の目には入っていません。
さらには調子に乗ったカスト王太子は、問題発言の上にさらなる問題発言を重ねるのでした。
「だいたい何が貴族だ! 旧弊な価値観に染まった老害共が! そんなもの人間が人間に決めた階級であろう。人はすべからく平等であるべきなのだ!!」
「そうよ! だいたいあたしは将来の王太子妃。それでいまの国王様がさっさと死んでくれたら、すぐに王妃になるのよ! あんたらの誰よりも偉くなるんだからぁ!!」
ついでとばかり尻馬に乗るバッカラ準男爵令嬢。絶対王政の国家で共産主義を声高に主張する王太子と、誰がどう聞いても現国王陛下に対して、さっさと死ねと公言しているも同然な愛人。
もはや周りもいまさら指摘するだけ無駄なことを理解して、無反応になっています。
もっともだからと言って容認されたり許容されたりしたわけもなく――。
(うわ~~っ、創造神ミクラ様が選ばれし王に神に代わって国を統治する権利をお与えになり、地上代理人たる王は貴族たる者を定められた……という王権神授説を唱える、ミクラ教会のパゾリーニ大司教様の前で、こともあろうに王の血を引く人間がその根拠を蔑ろにする発言をするなんて)
さすがに我慢の限界が近いのか、笑顔のままのパゾリーニ大司教が持っていた儀礼用の錫杖が、その手の中で二つ、四つと砕片になっていきます。
「見事な節穴だな。もう何個かその空っぽの頭に風穴を開けたほうが風通しが良くなるのではないか?」
いきり立つカスト王太子の一挙手一投足を眺めながら、レオンが私とナディアにだけ聞こえる程度の小声でボソボソと呟きながら、わずかばかり立ち位置を変え、いつでも剣を抜けるように一見すると自然体に脱力の構えをとりました。
『――むむっ!』
『ほう、やるな』
『さすがはレティツィア姫の護衛騎士』
『あの若さで大したものだ』
途端、石のように静観の構えを取っていた近衛騎士たちが、色を成してざわめきを放ちます。
「やはり赦すことはできん。即刻――」
「ところでノートを破ったとのことですが?」
さらに続けて何やら囀っていたカスト王太子の台詞を聞き流し、私はふと気になった『イジメ』とやらの内容を看過できずに、バッカラ準男爵令嬢に聞き間違いでないか尋ね返しました。
「そうですぅ。女生徒に命令をして学園では孤立させ、その上あたしが授業で使ったノートを二週間前にはボロボロにされ、泣く泣く買い替え……」
やはり間違いないようですわね。ですが――
「……寡聞にして私は存じませんでしたけれど、ロッシーニ学園では紙のノートで授業を受ける方針なのですか? 一文字ごとに銀貨一枚、一冊で小さな家くらいならば買える教科書ほどではないにしても、平均的な中産階級の月収に匹敵するほど高価なノートは、一部の者を除いて使用するのはかなりの負担ではありませんか? 宮廷や大学の講義でも携帯用の小型黒板を使ってらっしゃるので、てっきり中等学校もそれに準ずるのかと思っておりましたけれど」
だから俗に『授業の板書』と言うのですわよね?
まあ基本的に王侯貴族は自分で荷物を持たずに随員が運ぶものですので、他人の持ち物など気にもしたことはなかったのでしょうけれど(学園では部外者は立ち入りが制限されていますので随員こそいませんが、このオレ様王太子のことですから、適当な平民生徒を荷物運びや雑用係として勝手に決めて、顎でこき使っていたのは想像に難くありません)。
ともあれ私が驚きを口にしたところ、卒業生の集団の中から亜麻色の髪をセミロングにした女子生徒が進み出てきました。
「恐れ多くも我が故国の新しき太陽にして、月よりもなおかぐわしくも麗しい王女殿下に、クレマンソー侯爵が末孫にして、ロッシーニ学園女子寮の前寮監ロクサーヌが申し上げます」
深く腰を落として最上級のカーテシーをしつつ、直接私の顔を見ないように視線を落としたままの彼女。
「現クレマンソー侯爵閣下の御三男にして、現在は侯爵家紋章官であるジルベール様の長女ロクサーヌ嬢ですね。直答を許します」
貴族家の三男となれば良くて上級階級、普通に考えれば中産階級の身の上でしょうが、侯爵家に連なる者として瑕疵のないその態度に、ナディアが満足げに頷きます。
続いてそう許可を与えると、ロクサーヌ嬢はもう一段深く腰を落としてから姿勢を正しました。
ただカスト王太子の腕に掴まって立っているだけなのに、そわそわと落ち着きなく足を組み替えたり位置を変えたりしているバッカラ準男爵令嬢とは大違いです。
「光栄にございます、王女殿下。さて先ほどの御下問に関しまして、私の知る限り紙のノートを持参していらっしゃるのは、カスト殿下と殿下に近しいご友人方のみであり、大部分の生徒は携帯用小型黒板を使用するのが一般的でございます。またそちらの準男爵令嬢に関しましては、ノートを持参しているかどうか私は存じませんが、少なくとも女子部においてそのような高価な文具を持参しているという生徒の存在は噂にも聞いたことはございません」
そう明言するロクサーヌ嬢。それを裏付けるかのように、卒業生の大半と学園関係者が一斉に首肯しました。
ちなみに寮監というのは前任者の推薦と寮生の支持がなければなれない、出自や身分に関係なく能力や人格面、何よりリーダーシップがなければなれない役割です(忖度されまくりの生徒会役員などよりよほど信用できて優秀な証拠)。
「う、嘘をつくな! それに第一おかしいだろう、小型黒板などではろくに授業内容を書き写せないではないか!」
ロクサーヌ嬢の証言の途中で、激昂したカスト王太子が真っ赤な顔でそう喚き立てました。
「――えっ!?」
『『『『『『『えっ?!?』』』』』』
その根拠の内容に大きく目を見開いたロクサーヌ嬢と、生徒たちの驚愕……と言うよりも信じがたいと言いたげな困惑の声が期せずしてこの場を満たします。
「な、なんだ……?」
自分がどれだけ非常識なことを口にしたのかわからないらしいカスト王太子と、その腰巾着の子息たち。ついでにバッカラ準男爵令嬢も、「は? へ?」と阿呆面を晒し――周章狼狽した表情で、周囲を見渡していました。
「俗に『耳で読む』ものと言われるように、中等学校で学ぼうという気概のある者ならば、教科書の内容はすべて頭に刻んで授業に臨むのは当然ではありませんか?」
我が意を得たりとばかり頷く卒業生や、給仕役の在校生の皆さん。
「そのうえで教科書に書かれていない先生方の解釈や応用を授業で聞いて糧にするわけですから、教科書と小型黒板があれば十分……というか、箸にも棒にもかからないスカポンタンは、すべからく淘汰されて退学するか、放校処分とした上で家族や本人の希望があれば、とりあえず聴講生として授業に参加できると聞き及んでおります」
私の聞きかじりの説明に加えて、ロクサーヌ嬢が誰に言うともなく附言します。
「聴講生であっても、一年の間に三本以上の論文を提出して、併せて教授会での質疑応答を経て評価に値すると認められれば、正式に学園に復学できると学則に記載されております。ただし期限内に提出がなかったり、万が一にも他者の論文を自分のものであるかのように偽って提出した場合には、退学どころか入学した事実そのものが抹消され、事実上『学歴なし』となります。――当然、皆様方はつつがなく卒業なされ、その証である『卒業証明書』を授与されていらっしゃるかと存じますが」
「「「「「――なっ……!?」」」」」
なぜか絶句したかと思うと――反射的に教師陣の方を向くと、全員が厳しい目で頷き返しました――みるみる血の気が失せるカスト王太子と腰巾着の子息たち。そしてバッカラ準男爵令嬢。
ああ、これは全員とっくに学園を放逐され、『卒業証明書』がないのを不審にも思わず、説明も聞かずに(聞いても右から左に流したのでしょうが)卒業したと浮かれていたパターンですわね。
「それはそれとしまして、あら? そういたしますと、バッカラ準男爵令嬢は普段使いで高価な紙のノートを使用されているのですわよね? いくら何でも硬い木の板に鉄板を張った小型黒板を、素手で粉々にする屈強な騎士のような真似は、私には無理ですもの」
「騎士でも、よほどの剛力を持った熊のような大男ならともかく、お嬢様の細腕では無理でしょうな」
思わず自分の頬に手を当てて小首を傾げた私の言葉に、軽く護衛騎士のレオンが忌憚のない意見を口にしました。
集まっていた紳士淑女の皆様方も、私の――自分で言うのもなんですが――風にも折れそうな可憐な外見と扇子以上に重い物を持ったこともない白い繊手を前にして、さもありなんという表情で頷きます。
「……外面如菩薩内心如夜叉。本気になればやってやれるんじゃないのか……?」
ボソリとレオンが私の耳にだけ聞こえるように呟き、鋭敏な聴覚で聞きとがめたナディアが目にもとまらぬ下段回し蹴りを放ち、それを自然な動作で躱すという一瞬の攻防が繰り広げられましたけれど、大半の人間は気が付かなかったようです。
「いずれにしても非常に高価である学習用ノートを私が破って台無しにした……でしたわよね? さらには即座に代わりのノートを買い替えたとのことでしょうから、バッカラ準男爵家はよほどの資産家であるようですわ。とは言え私にはそのような行為をした覚えはございませんが」
『バッカラ準男爵家はよほどの資産家』のくだりで、微妙にソワソワと視線を浮かせるバッカラ準男爵令嬢と困惑した表情で顔を見合わせると腰巾着の子息たち。
「おおかた『貧乏な男爵家でぇ』『義理の母と家族も冷たくて使用人同然に扱われてるんですぅ』とか同情心を煽って、連中から金品を貢がせていたのでしょう」
その無言のやり取りを眺めていたナディアの嘲笑混じりの推測でしたが、正鵠を射ていることは誰の目にも明らかでした。
カスト王太子を除いて。
ただひとり気炎を上げ、ここが山場とばかりに非礼にも私を指さして大見得を切るカスト王子。
「この期に及んでまだ白を切る気か、この“悪役令嬢”がっ! 貴様がき……き……その、なんかインチキな言い包めで――」
「“詭弁”、詭弁っすよカスト様ぁ」
素早くバッカラ準男爵令嬢がボキャブラリに乏しいカスト王太子の耳元で補足します。
バッカラ準男爵令嬢もしかして地頭は悪くないのでは? 使い方の方向性が間違っているだけで。
「というか、何ですか『悪役令嬢』って? まさか庶民向けの宮廷風ラブロマンス小説に出てくる、権力を悪用して愛し合う二人を引き裂く悪役を私に当てはめ、自分はヒロインを救う正義の騎士気取りですか? まさかあんな荒唐無稽な物語を真に受けて、このような短慮軽率な行動を起こし……あっ★」
ここで私はこの国がモデルとなった、遍歴詩人が面白おかしく語る恋歌や、劇団の定番劇、恋愛小説の数々に登場する鉄板とも言うべき基本設定――。
『王太子』
『婚約者の令嬢』
『男爵家令嬢のヒロイン』
『真実の愛』
『婚約破棄』
と、五行で語れてその後亜流も多く生み出された、そのもののおおもとになった国家の不祥事、あるいは王家の醜聞、そして危うく亡国となりかけた途轍もない恥晒しな事件――と、その当事者に思い至って(何しろ私の生まれる前の話ですから)、反射的に視線を巡らせてしまいました。
視界の先では、おそらくは私同様に(或いは当時の古傷をえぐり出されて)猶更身の置き場がないであろう古参の重鎮たちが、居心地悪げに来賓用の椅子に座りながら、横目でさりげなく窺う相手――すなわち王妃陛下が、余裕の表情で嫣然と微笑まれていました。
私、ではなく隣に立つレオンに向かって。
10/4 誤字修正しました。
白いと思った&続きが読みたいという方は、作者のモチベーションのためにぜひ評価などよろしくお願いいたします。
なお近世まで、ノートは存在せず。
ケンブリッジ大やオックスフォード大学でも小型黒板を使っていました。