第三話 夏姫の母、庭に橘の苗を植える
母の絵巻物はどれも、動物が動くさまや人間の足の指まで描かれていて、何度見ても飽きなかった。でも、文章は少ない。
父の物語本は、挿絵などめったになく、文字だけだった。夏姫は本当はそういうものも読みたかった。しかし、さすがにこっそり文庫に入る勇気はなかった。
そもそもなぜ女の子が物語を読んだらいけないのか。なぜ父はあんなに怒ったのか。
あるとき、井戸のわきで洗濯や干し物をしている乳母やをつかまえて聞いてみた。
「ねえ、乳母や。女の子は物語を読んではいけないの? それって悪いことなの?」
乳母やは、板に張って伸ばして乾かした布を、板からぺりりとはがしていく。
「その件でしたら、あたしは致時様(夏姫の父の名)に賛成ですね。
物語だとか、和歌だとかは絵空事ですよ。本当だと思いすぎると、ひどい目にあいます。
特に和歌ていうのは罪が深いです。
男っていうものは、どこかから聞きこんだ噂で、勝手に自分の好きなように思いこんで、なんかかんかうまいこと言いながら近寄ってきて。自分の期待と違ったり、飽きると女を捨てるんです。
本当にひどいものですよ。姫様もお気をつけにならなくっちゃいけません」
ぱしん! 乾いた布をはたいてしわを伸ばす。
「ふう~ん」
たしかに、夏姫も、乳母やの言うような話を実際に聞いたことがあった。
特に頼るべき人がいない宮仕えの女房を誘惑して、ただならぬ身にしておいて、しらんぷりしている男も、いるとか。
☆☆☆
ある日、母が誰かに頼んで、橘の苗木をもらってきた。
普通の木は苗のうちから枝が茶色だが、橘は枝が葉っぱと同じ鮮やかな緑。ささくれのような小さいトゲを、ところどころに生やしている。
母は、南庭の池の正面やや西よりに穴を掘ってもらって、苗木を植えさせた。
夏姫が苗のてっぺんから水をかけようとすると、乳母やが、
「あっ、ダメです。上からかけては。ちょっと待ってくださいよ」
木の枝をどこかから拾ってきて、苗の周りに浅く円く溝を掘る。
「さあ、この溝のなかに水を入れてくださいな」
夏姫が柄杓で溝に水をそそぎ入れる。水はいったん茶色い泥水となって溝の底にたまっていたが、しだいに土にすいこまれて、見えなくなった。
「水をたくさん吸ったから、これで根付くよね?」
「そうですね。じょうぶな木ですから。きっと大丈夫でしょう」
夏姫と乳母やが、苗木のてっぺんごしに話をしていると、母が乳母やを呼んだ。
「乳母や、いつも私たちの面倒を見てくれてありがとう。あなたがいなければ、我が家は到底立ち行かなかったでしょう。この木は、家の中心よ。これからも、夏姫をよろしくお願いしますね」
突然の言葉に、乳母やは立ち上がり、そして涙ぐんた。
「そんな、めっそうもない。あたしも、奥方様に拾われたも同然の身ですもの。できるかぎりのことをさせていただきます」
二人が手を取り合って泣いたり笑ったり、肩をたたいたりしているのを、夏姫は黙って見まもった。
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