第五話 惟成「三事兼帯」する
寛和元年(九八五)一月五日。昨年十二月二八日に奏した「意見封事詔」について、関白・藤原頼忠公より、すこぶる不快なことが載せられている、という異議申し立てがあった。
時の大臣が意見封事の詔の文言にケチをつける例は、過去にも多くある。中務省にあった詔を取り戻して、問題部分を削除した。
たとえ一部でも、保胤殿渾身の名文を削るのは、もったいないことであった。
同年一月二十八日。
この度の除目から、民部大輔を辞し、左衛門権左(検非違使佐)を兼ねることとした。
改革、特に物価の安定のためには、これから先どうしても検非違使の権力に頼らざるを得ないだろうと判断した。
むろん自分のような浅学菲才な者が、『三事兼帯』などおこがましい。
(弁官・蔵人(天皇の秘書官)・検非違使佐(警察)を兼ねることを『三事兼帯』といい、大変名誉なこととされてきた)
しかし、武官と文官では服装や装備が全く違うため、どうしても服装を整えてくれる妻が必要になってきた。
しかし、改革のめどがまったくついていない今、土御門大路の家(夏姫邸)には帰れなかった。
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