第四話 夏姫、夫と一条大殿の妻のために髪を売る
天禄元年(九七○年)五月二十日、一条大殿こと藤原伊尹公は摂政になられた。
娘の女御・懐子様が産んだ師貞親王は前年皇太子になられ、息子さん方も続々と重要な役職につかれた。
仕立物の手がたらなくなり、夏姫もしょっちゅう一条大宮院に呼ばれるようになった。
「二陪織物」「綾」、「浮織物」。
これはどうやって織っているのかと首をひねるような豪華な布地を、考えている暇もなく断ち、縫わないと間に合わない。夏姫の裁縫の腕は格段にあがった。
染師、織師、北の方や女房達が技術をつくして縫い上げた、最高におしゃれでぜいたくな服。それを着て、伊尹様は他の女のところに行く。
夏姫は納得がいかなかった。
ご本人と面識がある惟成に、一条大殿ってどんな人? なぜ浮気をして回るの? と聞いてみた。
惟成は苦笑いしつつ、
「我々からみれば、伊尹殿は頭はいいし、細かいことにはこだわらない。とても頼りになる方だよ。美男子で和歌も上手で、権力も金もある。女の方が放っておかないよ」
という。
「世の中には何もかもそろっている人もいるのね。なんだか不公平みたいね」
と夏姫が言うと、
「そうだね。不公平だね」
惟成も賛成する。
「あなたもお金と権力があれば、浮気をして歩くの?」
と聞くと、
「やってみたいという気もなくはないけど。でも、そのうち飽きてしまうのではないかな。普通の男は他にもすることが沢山あるから。妻は一人でいいと思っている人が多いのではないかな」
「そうなの。一条大殿は、たくさん女を渡り歩いて、しかも飽きない。変わった方なのね」
答えらしきものが得られて、夏姫は安心する。
「でもわからないよ。俺だって一条大殿の顔と権力とお金があれば、考えも違ってくるかもね」
惟成がふふふと笑う。
「まあっ」
夏姫が夫の肩の後ろを平手でぴしっとたたくと、惟成は、
「おい、痛いだろ?!」
と言って笑った。
あくる朝、厨に行って、乳母やにも同じことを聞いてみた。
「ねえ乳母や、一条の大殿はなぜ浮気をして回るの? 一人の女だけでは不満なの?」
乳母やは、
「また始まった! 姫様のなぜなに攻撃が。この朝の忙しいのに」
麻の袖なし姿で、土間に両膝をついて踵の上にお尻を乗せ、かまどの火をぱたぱた扇ぎながら、
「ああいった殿方は、病気ですよ。絶対、直りゃしません」
ばっさり切り捨てる。
「そうなの。夫は、一条大殿はたくさん女を渡り歩いても飽きない、変わった人なのだと言ってたわ。ふつうは飽きるのですって」
「ほお~ん。惟成どのがそんなことをねえ」
乳母やは甑の蓋をあけて、「あつっ」といいながら、ご飯粒をつまんで口のなかに入れる。
「乳母やに言わせてもらえばね。男てものは、隙さえあれば浮気をする生き物なんですよ。手紙には和歌なんか書いてきれいごとを並べるけど、面倒になったら責任もとらず知らん顔。そんなんばっかりですよ」
「乳母やはいつもそういうけど。世の中はそんな人ばかりではないと思うの。現にお父様はお母様をだいじにしていらしたわ」
乳母やはふうっとためいきをつく。
「そうですね。致時様は欠点も多い方ではあったけど。たしかに奥方様を大事にされてましたね」
「あっ、姫様。戻られるんでしたら、台盤所に姫飯(ひめいい。現代の『ご飯』に近い)を持って行ってもらえません? お碗はあちらに用意してございますから」
姫飯を入れたおひつを手に提げ、厨から屋敷にもどりながら夏姫は考える。
「なぜお母様は、あの気難しかったお父様にだいじにしてもらえたのかしら」
お母さまが美人だったから? 心の優しい人だったから? それとも身体が弱かったからだろうか。
この件に関しては、もっと調べてみなくてはと夏姫は思った。でも誰に何をどう聞いたらいいのかはわからなかった。
☆☆☆
「なんで、なんでそこまでなさいますの。そこまで男に尽くして、一体なにになるというのです? 乳母やに教えてください」
乳母やは半狂乱で、夏姫に詰め寄る。
髪を売るって言わなければよかったかな、と夏姫は思う。でも、言わないで、切ったところをいきなり見せて、大騒ぎになったらそのほうが面倒だ。だから先に教えたのだ。
「う~ん。髪は切っても、伸びてくるじゃない? うちには他に売る物はないし。
それに、ほかならぬ大殿の北の方、恵子女王様が、ほしいっておっしゃっているの。旦那様にさんざん浮気をされてご心痛だって聞くとお気の毒で」
「また一条の大殿ですか。なんでよその旦那様のために姫様が髪を売らないといけないんですかっ」
火に油をそそいだようだ。夏姫は説得の道筋をかえることにする。
「ねえ乳母や、聞いて? これは取引なの。奥方様にわたしや惟成様の名を覚えておいてもらえば、きっと将来助けてくださると思うの」
「取引も蜂の頭もありませんっ。姫様のおぐしは、姫様が赤ん坊のころから、乳母やや亡き奥方様がふのりや米のとぎ汁で手入れしてきたもの。こんなところで手放すなんて。乳母やが亡き奥方様にたいして申し訳がたちませんっ」
乳母やはしまいに泣き出した。
母の名を出されると、夏姫もたじろいでしまう。
確かに、自分一人で育てた髪ではないかもしれない。勝手に売ってしまうのは忘恩かもしれない。
「そうねえ。お母さまならどうなさるかしら」
髪は売らず、惟成が困っているのを見過ごすのか。それとも他の金策の方法を考えるか。
乳母やは泣きはらした目を手巾でぬぐい、夏姫を恨みがましく見上げる。
「わかりました。もう何も申しますまい。惟成どのが、姫様のみこんだ通りの男であることを祈ります」
☆☆☆
口論の発端は、一条大宮院でのお花見だった。関係者や出入りの者だけのうちうちの宴会で、各人がそれぞれ一種類の品物を持ち寄る「一種物」という形式。
惟成は『飯』の担当となった。
なにしろお屋敷が大きいので、米だけでもかなりの出費になる。
相談を受けて、夏姫は、わたしに考えがあります、任せてくださいと申し出た。
「うちには売るものもあるまい。あなたまさか、自分の身体をいためて無理しようとしているのではあるまいね」
と惟成は言ったが、
「いいえ、無理はいたしません。安心してください」
夏姫がにっこり笑うと、それ以上はなにも言わなかった。
☆☆☆
さて、花見の当日。
一条大宮院の東庭には五色の幄舎が張られた。楽器を弾くものは音をあわせ、舞の童子に衣装を着せつけ、歌を詠むものは懐にたばさんだ原稿を出して読み返し、酒を飲むものは一足早く味見をし、花見の準備に皆が浮き浮きと立ち働いている。
そんななか、下働きの者が長唐櫃を荒縄でくくって、二本の棒を通し、えっほえっほと担いでやってきた。
「藤原惟成どのはおられますか」
と大声で呼ぶ。
「ここにおります」
惟成がそばによると、
「奥方様よりご依頼の品です」
荷物をその場におろし、去っていった。
惟成が縄を解いて蓋をあけると、中には、
飯を入れた長櫃二つ、ゆでた鶏卵が入った外居(三~四本足のある円筒状の蓋付容器)一つ、擣塩がぎっちり入った折櫃が一つ、入っていた。
周りの者から「ほう……」という歓声があがった。
その夜のこと。
夏姫がいつもより早めに寝床に入って休んでいると、惟成が隣にすべりこみ、夏姫の頭の下に右腕を差し込んだ。
瞬間、なにかいつもと違うと感じたらしい。
やおら起き上がり、衾をめくってじろじろ見たあげく、
「おい、ここに座れ」
自分の前の床を指さす。
夏姫がしかたなく起きて、床に正座すると、
「髪はどうしたのだ」
と問う。
「前々から、一条大宮院のとある方に、わたしの髪を売ってほしいと頼まれておりましたの。ですから、髪を切って花見のための飯と交換して、ついでに長櫃も運んでもらいました」
正直に答えた。
「なぜそんなことまで」
「気持ちはありがたいよ。ありがたいけど、髪は女の命ではないか。自分の身体を痛めてまで無理してくれなくてもよいと言ったのに」
惟成は涙を流さんばかりだ。しまいに、
「乳母やがどれだけ怒りくるうか。二度と許してもらえないかもしれぬ」
畳のうえで、両手で顔をおおって背中を丸くする。
「乳母やは確かに怒っておりましたけど。でも、髪はまた生えてきますから」
夏姫には皆がなぜ髪のことで騒ぐのか、よくわからない。
「はあ~。それはそうだけど。どう言ったらわかってもらえるのかな」
なおもなにか言おうとする惟成を制し、
「もう切ってしまったものは仕方ないでしょ。生えてくるのを待つしかありませんわ」
「でも……」
「あなたも意外と諦めがわるい方。もういいから、寝ましょ。早く寝た方が、早く髪も伸びますわ」
「はあ」
惟成はなおも寝床でぶちぶち言っていたが、やがて静かになった。寝てしまったらしい。
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