第一話 夏姫、隣家の住人に満開の山吹の花を贈られる☆
夏姫は、対面に座っている乳母やを見上げる。
「ねえ乳母や。この花はなにかしら?」
「山吹ではないでしょうか」
乳母やは、あごの下の肉を指でひねる。
「いや、そうじゃなくって。一体どういう意味かしら」
「さあ~。乳母やは自慢じゃないですが、風流ごとにはとんとご縁がありませんでね」
ふたありそろって、腕をくんで満開の山吹の花束を眺める。
「どうもこの枝の気合いの入りようからして、結婚の申し込みではないかと思うんだけど。わたしの思い違いかしら」
夏姫の頬が赤くなる。着ている濃い蘇芳の単衣より赤い。
乳母やは、膝を乗り出し、畳のうえに右手のひらをつく。
「いえ、乳母の身びいきではなく、姫様はおかわいらしい。どなたに求婚されてもおかしくありません。でもね」
「問題は、どうやって返事をするかよね」
二人は、また両の手を反対側の袖に差し入れ、がくりと頭をたれた。
実は、両親が亡くなってから数か月、今までもいくつか文をいただいていた。
文はたいてい、薄様という、向こう側が透けるほど薄い紙を二枚重ねにしたものに、本文と和歌が書いてある。求婚を断るにしろ受け入れるにしろ、気の利いた和歌をこしらえて返さなくてはならないのだ。
返事を出さないので、結婚話はどれも沙汰やみになっていた。
「乳母やは、藤原惟成様のこと、知ってる?」
「は~。まあお隣ですからね。姫様と同じぐらいには」
口ではそんなことを言っているが、こと近隣りの住人の動静にかけて、乳母やより詳しい者はいない。
藤原惟成は二十四歳、今は大学寮で文章得業生(大学院生のようなもの)*。漢詩の才では慶滋保胤とならぶ俊英といわれていて、さらに和歌も作れる。いわゆる和漢両才である。
先日、子どもまでできた女性と別れて、実家(つまり隣の家)に戻ってきている、そうだ。
「そんな方がなぜわたしに結婚の申し込みを?」
夏姫は目を見張る。
「さあねえ。男の考えることはよくわかりませんから」
「どうしましょう。どうしたらいい?」
夏姫は乳母やを見つめる。
「そうですねえ。伝手をたよって、しかるべき和歌を代作していただくとか」
「そんな伝手があるの?」
と夏姫が聞くと、
「あれば、もうとっくの昔に頼んでいます。そして、姫様はどこかのお金持ちの何番目かの妻になっていたでしょう」
乳母やは畳の目を指でなぞる。
「ごめんなさい。乳母やには苦労をかけるわね」
「いいえ、このぐらいなんでもありません。ただ、乳母やは風流ごとが苦手で。
それで、姫様は? もし返事ができれば、惟成様と結婚してもよろしいのですか?」
「ええっ?」
夏姫はそこまで考えていなかった。
「お会いしたこともないのに、結婚したいかどうかわからないけど。そうね」
「お年寄りの何番目かの妻になるよりは、いいお話のように思えるわ。年も近いし」
乳母やは、乗り出した身体を、ふたたび踵の上に戻す。
「そうですか。姫様にお気持ちがあるのなら、乳母やもなんとかしとうございます。
しかし、問題は」
「返事をどうするかよね」
一周回って、話はもとに戻ってしまった。
三日ほど後、乳母やが手に結び文を持ってやってきた。
「姫様、お隣から文が参りましたよ」
「まあ」
受け取って、紙をひらく。
何なれや いふにまされる花の色も 井手の里人心くまねば
と書いてある。
「乳母や、『井手の里人』って何かしら」
「わかりません。乳母やは和歌にはうといんです」
夏姫は自分で、何度も何度も歌を読み返してみた。
井手の里人というのは結局なんだかわからない。けれども、せっかく山吹の花を贈ったのに、返事もしてくれない、心を汲んでくれないという意味ではないかと思った。
薄様をもと通り結びなおし、夏姫はため息をつく。
催促の手紙が来たのは初めてだ。でも、返事を書くことはできない。
なぜ夏姫は返事ができないのか。それには理由があった。
*大学寮(十世紀ごろ)
今の大学より「官吏養成機関」に近い。「紀伝」・明経・明法・算の四学科があった。
「紀伝道」は中国の歴史や漢文とを学ぶ学科。
学生は擬文章生二十名(文章生の予備生)、文章生二十名。
中でも特に優秀な二名が文章得業生に選ばれ、秀才試(方策試・対策とも)を受験する資格を得た。及第すると、直近の除目で京官に任じられることになっており、大学教官などの専門儒職者になるためのコースであった。
夏姫邸見取り図
緑の線→大和絵の鳥居障子
橙の線→杉の遣戸(引き戸)
茶の線→蔀戸(格子)
読んでいただき、ありがとうございます。